(1) 大網駅の開業

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 国鉄千葉駅から外房線にのり車窓からの景観をみていると、列車は低平な海岸線を少し走り次第に内陸部に入り、台地部・丘陵地帯を走っているという実感がわいてくる。それは「土気」から「大網」にかけての車窓から景観をみるといっそうはっきりする。「土気」は古くは「峠の庄」ともいわれ、それが転じて「とけ」になったともいう。房総半島の西海岸(東京湾)側から東海岸(太平洋)側へ出ていく交通の難所であったことも知られている。
 このコースに鉄道を開設しようと企図したのは「房総鉄道株式会社」であった。もっともこの前身は明治二十一年当時の東京市本所区中之郷瓦町にあった「房総馬車鉄道会社」で、資本金二十三万円の鉄道会社であった。
 明治二十二年一月蘇我と茂原間、大網と東金間の開通を計画し、許可を得て用地買収にとりかかったが、「馬車鉄道」という聞きなれない事業として、土地の人々から信用されず難事業となった。しかし会社の必死の努力で、やっと起工式を挙行するところまでいったが、あいにくの凶作と経済不況でついに中断せざるを得なくなってしまった。そこで初代社長沢本卯之吉が辞任し、明治二十三年三月太田実が社長に就任し、同二十五年すでに馬車鉄道の時代は去ったという判断のもとに、電気鉄道への変更を申請し、翌二十六年蒸気動力で運転する軽便鉄道へ変更し、会社名も「房総鉄道株式会社」として事業をすすめることにした。この年九月七日蘇我と大網間の免許状が下付された。
 しかし、この免許状にはきびしい付帯条件があった。その内容は「軌道幅員ハ政府ニ於テ必要ト認ムル場合ニハ相当ノ期間ヲ定メ三呎(フィート)六吋(インチ)ニ改築スヘシ、若シ会社ニ於テ期間内ニ改築セザルトキハ政府ハ此線ニ平行シテ之ヲ敷設スルカ、又ハ他ニ敷設セシムルコトアルモ会社ハ之ヲ阻拒スルコトヲ得ザルコト」というもので、これではせっかく苦心して軽便鉄道を敷設しても「いきづまり」は目にみえているので、会社は協議の上最初から三呎六吋の軌道幅員を有する普通鉄道とすることに決定し、また計画変更を申請し許可された。
 明治二十七年(一八九四)会社は鉄道敷設工事を開始した。最大の難所は、前述の「土気」と「大網」の山中をどう突破するかということであり、この土気のトンネルを中心とした路線や列車の変遷は房総鉄道史の上からも特記すべき問題であろう。
 まず土気から大網へ抜けるトンネルづくりは明治二十七年房総鉄道株式会社が起工し、二年がかりで明治二十九年(一八九六)延長三五四メートルの煉瓦造単線馬蹄形のトンネルを完成させた。これで千葉から大網へのルートが開かれたのである。
 明治三十七年七月一日から十二月三十一日までの間における房総鉄道株式会社の営業状況をまとめた『第十四実際報告』の運輸収入駅別表を入ると表36のようになっている。大網駅の場合、一宮にはおよばないが、千葉市内(現在)各駅や茂原駅よりも客車収入があることは注目してよいことであろう。
表36 運輸収入駅別表 明治30年 下半期
駅 名客車収入貨車収入合  計
寒 川4,369円35514,823円12019,192円475
蘇 我2,157.540772.8302,930.370
野 田1,115.705276.3401,292.045
土 気675.190223.620898.810
大 網5,437.7751,561.0506,998.825
本 納2,259.475860.1903,119.665
茂 原5,206.4056,010.53011,216.935
一 宮6,943.2653,187.68010,130.945
総武線扱10,175.9601,287.10011,463.060
外ニ郵便物262.440262.440
合 計38,503.11029,002.46067,605.570
(『房総鉄道株式会社 第14回実際報告』)

 こうして、明治二十九年一月二十日蘇我と大網間十一マイル四十チェーンが開通し、大網駅も営業を開始し、前表のような順調なすべり出しをみせた。
 この大網駅に関していろいろな参考資料があるが、『大網案内』によれば、「房総鉄道株式会社の経営に係る房総鉄道が明治二十九年一月中本千葉と当地間の開業をなしており、千葉に於て旧総武本線と連接し、三十年四月には、南の方一宮に延び、三十三年六月東金線開通して、我大網は其分岐点たり。其後四十年九月官線(国有鉄道)となり、続いて勝浦迄延長をみるに及んで、貨物の集散は倍々多きを加え乗降の客は絡繹として、現在の殷賑を呈するに至れり。

写真 大正初期 大網駅(『大網駅開業77年の歩み』昭和46刊)
 

写真 廃駅となった旧大網駅(現況)
 
 自今における各日の定期列車発着回数は客車三十二回、貨車六回にて、大正四年中に於ける一ケ年中の乗降客は、乗客九万六千六百六人(一日平均二六〇人)、降客八万六千八十一人(一日平均二三六人)にて、同年中の取扱貨物の種目と数量は表37に示したとおりである。」これをみると当時の大網駅の機能の特色がよくあらわれている。
表37 大網駅取扱貨物
種 目積 込着 荷
2512t14t
284 
188 
大 豆98 
雑 穀230 
生 果381 
生 鳥31 
海産肥料1091 
鶏 卵286 
鮮 魚224 
生 魚55 
干 魚299 
落花生696 
食 塩254 
石 油243 
木 材166 
石 材162 
肥 料1108 
其の他192 
合 計6374t2152t

 また大網駅から当時の県内各駅への距離と料金(乗車賃)は表38のとおりであった。当時運賃は二等と三等(主要幹線には一等があった)にわかれていて、料金が表38のように異っていた。半額とまではいかないが、相当の差があったことは表によってはっきりわかる。
表38 大網駅より各駅への料金と哩程
駅 名2等運賃3等運賃哩 程
土 気11銭6銭2.9哩
誉 田20    12    6.3    
蘇 我32    20    11.4    
本千葉38    24    13.7    
千 葉39    25    14.4    
佐 倉59    38    22.0    
成 田33    54    30.0    
両 国96    63    37.1    
東 金12    7    3.0    
本 納11    6    3.0    
茂 原21    13    7.2    
一 宮35    22    12.5    
大 原45    29    16.5    
御 宿69    45    26.5    
勝 浦78    51    29.9    
成 東26    16    8.6    
八日市場51    33    19.0    
銚 子92    60    35.6    
                
(『大網案内』大正5刊)
(注 本表中成田と佐倉の運賃に疑問があるが原資料にしたがった。)

 土気と大網の間のトンネルは、明治二十九年完成後、大いにその機能を発揮した。房総鉄道株式会社が営業を開始した頃、かつて大網町の宮谷本国寺に県庁を置いた宮谷県権知事、千葉県初代県令柴原和もこの会社の監査役として、鉄道開通の事業に加わっている。
 また大網駅の開業は、明治二十九年一月二十日房総鉄道株式会社が蘇我と大網間を開通させたときに、蘇我駅、野田駅(現・誉田駅)、大網駅の三駅が当日開業した。また同二十九年二月十五日には寒川駅(現・本千葉駅)が開業している。さらに同年十一月一日に土気駅が開業した。翌三十年四月十七日大網駅から上総一ノ宮間が開通し、このとき本納駅・茂原駅・上総一ノ宮駅が開業した(『千葉鉄道管理局史』)。『大網案内』にもみられるように、こうして当町は鉄道の発達普及と共に、その分岐点として重要な役割をもつようになっていった。

写真 当時の蒸気機関車