(2) 乗合馬車と道路

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 大網駅が明治二十九年(一八九六)一月二十日に開業し、一日の列車の発着は何本でもないが、乗客の乗り降り、貨物の搬出、搬入と駅周辺は相応に活気を帯びてきた。しかも山武郡の郡役所がおかれている東金には、大網駅まで来るか、あるいは成東から入るか、いずれかということになるので、大網駅の果たす役割は大であった。しかしただ鉄道が通って駅ができたことと道路があるだけでは、人びとが利用する率は低いが、補助交通手段によって駅までへの足が確保されれば、鉄道や駅の果たす役割は一層大きくなる。
 初期のそうした役割を果たしたのは「乗合馬車」であった。これは「ピーポー馬車」とか「ティトー馬車」などと地方によって呼称は異なるが、明治時代の主役を鉄道と分けあっていた。地方にあっては、鉄道はなくても、乗合馬車はあったという例も多い。今日ではその写真をさがすのも大変である。写真は、『銚子市史』に掲載された乗合馬車である。車輪の部分はタイヤが使用されているが、これは後世つけ変えられたものである。

写真 明治・大正時代に活躍した乗合馬車(タイヤは現在のものに変っている)(『銚子市史』)
 
 このような形の十人から十二、三人のりの幌付馬車が、大網駅から木崎を経て白里村との間を日に六回往復していた(図9)。

図9 乗合馬車のコース(大正4年頃)(『大網案内』大正5刊より作図)
 
 一日わずか数往復であったらしいが、地域の人びとの足として親まれ活躍した。
 また、このような馬車に間に合わないとき白里地区の人は牛車にのって大網駅まで行った。朝鮮牛に荷車をつけ、その上に戸板をのせて乗っていったことを上代齊(八十五歳)がはなしている。個人の乗り物としては人力車がさかんに利用されている。
 次に当時の道路状況をみると、当町域を含む山武郡全域に次のような道路(県道)が通っていた(図10)。

図10 山武郡内の道路(『山武郡郷土誌』大正5刊)
 
 山武郡の地勢は大別すると台地・丘陵部と平地になる。平地は道路を設けることは比較的簡単であるが、台地・丘陵部は困難が多い。当町域もその例外ではなく写真の神房と砂田間にある道路のように、新道と旧道が並んで通っているところや、写真の宮谷坂の切り通しのように山を切り割って道路をつくったところなど、明治・大正期にかけて台地・丘陵部の道路づくりは大変であったことが、現在の景観からも推察できるようなところがいくつも見られる。こうした道路の開通は当時の山武郡内の産業発展を促がした(表39)。
表39 山武郡内の主要道(県道)
県道路線名山武郡域内里程沿道町村名
銚 子・北 条
   (現館山)
里       町       間
六・三四・一九    
横芝、松尾、大富、成東、大和、大網、瑞穂
千 葉・東 金一 ・ 二五、三五    丘山、大和、東金
蓮 沼・東 金三 ・ 一六、三〇    蓮沼、緑海、南郷、豊成、公平、東金
鳴 浜・成 東一 ・ 三三、五二    鳴浜、南郷、成東
片 貝・東 金二 ・ 〇六、一三    片貝・正気、東金
白 里・大 網二 ・ 二〇、四七    白里、福岡、増穂、瑞穂、大網
停 車 場 道八、一三    東金、成東、横芝、松尾、大網、山辺
松 尾・三里塚三 ・ 一三、〇〇    松尾、豊岡、大総、二川、千代田
成 東・八 街二 ・ 〇三、一〇    成東、大富、睦岡
大豆谷・八 街三 ・ 〇五、一二    東金・丘山・源
(『山武郡郷土誌』)

 また当時、山武郡役所の所在地であった東金町への当町域からの里程は次のとおりであった。
 大網町―一里十七町、山辺村―一里三十五町五十一間、
 増穂村―二里十二町五十七間、瑞穂村―二里八町十三間、
 大和村―三十四町四十間、福岡村―一里三十町

 こうして、図9と対比しながら当時の当町域をみると、鉄道が通り駅があり、道路の密度も比較的高く、郡衙の近くに位置する当町域は、交通の便のきわめてよいところであったといってもよいであろう。このような交通条件を背景にしていたので当町域は山武郡の南の端に位置しながらも、東金と並んで、山武郡の表玄関として産業経済に大きな役割を果たしていたといえるだろう。

写真 神房と砂田間の隧道と並んで新・旧道がある道路
 

写真 宮谷坂の切通(大網案内』大正5刊)
 

写真 永田の隧道