農業を例にとってみるならば、当町域の旧町村は「稲作」の盛んな地域であるが、「集約農業」ということばが示すとおり農繁期には近隣の応援は当然のことながら、親類同志の協力は他町村にまで及び、それでも人手がたりなくて長生郡あたりからも人を雇って田植え、稲刈りなどの農作業に人手を投入しなければならなかった。
したがって、その他の農事に関しては、家族内でしごとが処理できるようにするため、老人から子どもに至るまで、総て労働力であった。現在のように便利な農業機械があるわけではないので、必要上一戸当りの人数は、現代の核家族時代とは比較にならないほどの大家族であった。
このことは表40「旧町村における一戸当りの平均人数」をみると、大体六人と出ていることからもわかる。この約六人とは四捨五入して六人になるということであるが、個々の事例をみると七人家族・八人家族などというのは当時さして、珍しいことではなかった。
当町域旧町村 | 人 口 | 戸 数 | 平均人数 | 備 考 |
大網町 | 3,238人 | 543戸 | 約6人 | |
大和村 | 2,950 | 447 | 6 | |
瑞穂村 | 2,670 | 417 | 6 | |
山辺村 | 1,889 | 334 | 6 | |
増穂村 | 3,252 | 520 | 6 | |
福岡村 | 3,755 | 600 | 6 | |
白里村 | 6,841 | 1,085 | 6 | |
東金町 | 9,710人 | 1,630 | 6 | 比較ノタメ引用 |
このことから明治・大正前半期まで全国的にみても東京都や大阪など特定の大都市は例外として、人口の多いのは市街地よりも、農村の方であった。この傾向は表41の「山武郡南部町村の人口と戸数」のなかにもあらわれている。山武郡役所のある中心地東金町は人口が多いことは当然のこととして理解できるが、片貝や白里、豊海などの人口が非常に多いということは、前述のようなことを知っていないと、その事象が理解できないであろう。
表41 山武郡南部町村の人口と戸数
当町域は農漁村(半農半漁型)と農山村が大部分で、大正初期はこうした明治時代の影響を多分に残した家族構成が続いている。
現代的な考え方によれば、人口の多いことはにぎやかな市街地ということになるが、明治・大正までは特定例外の都市を除いては、全く反対で、第一次産業を生業としている地域に人口が多かったということである。
では、職業という視点からみた場合はどうかという問題がある。当時の職業というのは現在ほどはっきりと区別されてはおらず特に何という職業ももたず、だからといって無職というわけではなく、わずかな田畑を耕作し人手が必要な農家などにたのまれて農事の手伝いをして生計をたてているといった生活があった。現代から比較すれば、かなりのんきな生活ができたともいえるが、こうした生活をする人びとは反面、まずしかった。このような実態を数の上から抽出することは大変困難であり、あまり資料があるともいえない、しかし「大網尋常高等小学校沿革誌」の付編として「大網町郷土誌」という記録があり、ここに大正四年四月の大網町の職業別人口と戸数という統計が掲載されているので、これを参考に引用したのが表42である。
職 業 | 戸数 人口 | 専 業 | 兼 業 | 合 計 |
農 業 | 戸数 人口 | 195戸 1,131人 | 97戸 497人 | 292戸 1,628人 |
商 業 | 戸数 人口 | 109戸 654人 | 67戸 402人 | 176戸 1,056人 |
工 業 | 戸数 人口 | 18戸 29人 | 300戸 450人 | 318戸 479人 |
その他 | 戸数 人口 | 38戸 228人 | ― | 38戸 228人 |
計 | 戸数 人口 | 360戸 2,042人 | 464戸 1,349人 | 824戸 3,391人 |
この統計は、農業、商業、工業のいずれもそれを専業としているものと、兼業にしているものとに分けて、あらわしている。したがって『山武郡郷土誌』に記されている大網町の「町村誌編」の大網町の三、二三八人に対し三、三九一人、戸数五四三戸に対して八二四戸という数になる。この数の差(重複)のぶんだけ、別の「しごと」に従事していることになる。戸数をみると約六割以上が二重の職業をもっていることになる。特に表42でみると旧大網町では工業を兼業としている家が三〇〇戸もあり、働いている人は商業をしのいで、兼業者が四五〇人もいることは注目してよいであろう。この人びとがどんな工業に従事していたのか明確ではないが、『山武郡郷土誌』の産業の部分をみると、酒の醸造、蚕糸業、上総木綿、その他いろいろあげられている。
当町域の戸数と人口について、検討してみると、当時の第一次産業中心の地域、あるいは当時の典型的房総地方の町村の特色をよく示していると思われる。
この形態に変化が生ずるのは大正三年(一九一四)にヨーロッパを舞台として、はじまった第一次世界大戦と、それによって生じた「好景気」で、農村の人びと特に二、三男を中心にして、都市の工場で労働力を必要としたことから都市生活をするため地方町村を去っていく人びとが増加していった。当初は単身で出ていくが、後に家族ぐるみ移住していくようになり、やがて農村の人手不足を招く原因となっていった。