一 戸数と人口

827 ~ 830 / 1367ページ
 大正時代における人口と戸数の関係をみると、農漁村や山村のような第一次産業を生業とする地域では一戸当りの人数が比較的多かったことが特色である。
 農業を例にとってみるならば、当町域の旧町村は「稲作」の盛んな地域であるが、「集約農業」ということばが示すとおり農繁期には近隣の応援は当然のことながら、親類同志の協力は他町村にまで及び、それでも人手がたりなくて長生郡あたりからも人を雇って田植え、稲刈りなどの農作業に人手を投入しなければならなかった。
 したがって、その他の農事に関しては、家族内でしごとが処理できるようにするため、老人から子どもに至るまで、総て労働力であった。現在のように便利な農業機械があるわけではないので、必要上一戸当りの人数は、現代の核家族時代とは比較にならないほどの大家族であった。
 このことは表40「旧町村における一戸当りの平均人数」をみると、大体六人と出ていることからもわかる。この約六人とは四捨五入して六人になるということであるが、個々の事例をみると七人家族・八人家族などというのは当時さして、珍しいことではなかった。
表40 旧町村における1戸当りの平均人数
当町域旧町村人 口戸 数平均人数備  考
大網町3,238人543戸約6人
大和村2,950    447    6    
瑞穂村2,670    417    6    
山辺村1,889    334    6    
増穂村3,252    520    6    
福岡村3,755    600    6    
白里村6,841    1,085    6    
東金町9,710人1,630    6    比較ノタメ引用
(『山武郡郷土誌』大正5刊)

 このことから明治・大正前半期まで全国的にみても東京都や大阪など特定の大都市は例外として、人口の多いのは市街地よりも、農村の方であった。この傾向は表41の「山武郡南部町村の人口と戸数」のなかにもあらわれている。山武郡役所のある中心地東金町は人口が多いことは当然のこととして理解できるが、片貝や白里、豊海などの人口が非常に多いということは、前述のようなことを知っていないと、その事象が理解できないであろう。

表41 山武郡南部町村の人口と戸数
 
 当町域は農漁村(半農半漁型)と農山村が大部分で、大正初期はこうした明治時代の影響を多分に残した家族構成が続いている。
 現代的な考え方によれば、人口の多いことはにぎやかな市街地ということになるが、明治・大正までは特定例外の都市を除いては、全く反対で、第一次産業を生業としている地域に人口が多かったということである。
 では、職業という視点からみた場合はどうかという問題がある。当時の職業というのは現在ほどはっきりと区別されてはおらず特に何という職業ももたず、だからといって無職というわけではなく、わずかな田畑を耕作し人手が必要な農家などにたのまれて農事の手伝いをして生計をたてているといった生活があった。現代から比較すれば、かなりのんきな生活ができたともいえるが、こうした生活をする人びとは反面、まずしかった。このような実態を数の上から抽出することは大変困難であり、あまり資料があるともいえない、しかし「大網尋常高等小学校沿革誌」の付編として「大網町郷土誌」という記録があり、ここに大正四年四月の大網町の職業別人口と戸数という統計が掲載されているので、これを参考に引用したのが表42である。
表42 大正4年・大網町の職業別人口と戸数
職 業戸数
人口
専 業兼 業合 計
農 業戸数
人口
195戸
1,131人
97戸
497人
292戸
1,628人
商 業戸数
人口
109戸
654人
67戸
402人
176戸
1,056人
工 業戸数
人口
18戸
29人
300戸
450人
318戸
479人
その他戸数
人口
38戸
228人
38戸
228人
戸数
人口
360戸
2,042人
464戸
1,349人
824戸
3,391人
(「大網尋常高等小学校沿革史」大網町郷土誌)

 この統計は、農業、商業、工業のいずれもそれを専業としているものと、兼業にしているものとに分けて、あらわしている。したがって『山武郡郷土誌』に記されている大網町の「町村誌編」の大網町の三、二三八人に対し三、三九一人、戸数五四三戸に対して八二四戸という数になる。この数の差(重複)のぶんだけ、別の「しごと」に従事していることになる。戸数をみると約六割以上が二重の職業をもっていることになる。特に表42でみると旧大網町では工業を兼業としている家が三〇〇戸もあり、働いている人は商業をしのいで、兼業者が四五〇人もいることは注目してよいであろう。この人びとがどんな工業に従事していたのか明確ではないが、『山武郡郷土誌』の産業の部分をみると、酒の醸造、蚕糸業、上総木綿、その他いろいろあげられている。
 当町域の戸数と人口について、検討してみると、当時の第一次産業中心の地域、あるいは当時の典型的房総地方の町村の特色をよく示していると思われる。
 この形態に変化が生ずるのは大正三年(一九一四)にヨーロッパを舞台として、はじまった第一次世界大戦と、それによって生じた「好景気」で、農村の人びと特に二、三男を中心にして、都市の工場で労働力を必要としたことから都市生活をするため地方町村を去っていく人びとが増加していった。当初は単身で出ていくが、後に家族ぐるみ移住していくようになり、やがて農村の人手不足を招く原因となっていった。