農林水産業というのは、当時にあっては最も変化の少ない産業といってもよいものであった。それは前時代(江戸時代)以来の方法を遵守し、工夫・改良を加えないからといって、稲が実をつけないということはないし、野菜が成長しないということはない。しかし工夫・改良を加えなければ農業生産を維持していくことはかなり困難になる。それ故に農業も時代に応じてさまざまな変化をみせるようになるのである。
まず農業の米作りの面からみてみよう。
『千葉県統計書』大正六年版と十年版を参考にして、当町域旧町村の二カ年の米と麦の収穫高を対比してみたのが表44である。
表44 大正6年と10年の米・麦の収穫高
当町域は水田が多くいずれの地域も米の収穫高が多い。また畑は少ないので、それは麦の収穫高と米の収穫高を比較してみればよくわかる。県内の地域によっては、水田に麦を作る場合もあるが、当時の当地域にはそうしたことは行なわれていなかったことが、統計書の数値の上からもはっきりしている。
したがって米は水田、麦は畑というようにはっきりと区別され比較しやすい。
当町域の旧町村では、米作りが農業の中核的存在であった。
大正四年二月一日の郡長会議の席上、県知事佐柳藤太は参集した県下各郡長に対し、第一次世界大戦の欧州での状況を説明すると共に、農業に関し次のような指示事項を示した。
指示事項
一、共同経営奨励ニ関スル件、
産業ノ共同経営ハ生産費ヲ節減シ、生産品ヲ統一シ、又之ガ品質ヲ昻進スルトニ於テ極メテ緊要ナルノミナラス、特ニ中産以下ノ者ヲ保護スル上ニ於テ最モ適切ナル施設ナリ、近時養蚕組合、漁業組合、産業組合ノ如キ共同的施設ヲ為スモノ、漸次多キヲ加フルニ至リタルハ欣フベシト雖、事業ノ成績ニ於テ其ノ見ルヘキモノ尠キハ甚タ遺憾トスル所ナリ、故ニ県ハ以上ノ如キ共同的経営ノ成績最モ優秀ナルモノニ対シ、選賞ヲ行ヒ以テ其ノ普及発達ヲ奨励セムコトヲ期シ、之カ費用ハ既ニ県会ノ議決ヲ経タリ、各位此ノ意ヲ諒シ今後一層之カ歓奨ニ努ムルト同時ニ、其ノ成績優良ナリト認ムルモノニ対シテハ、別紙書式ニ準シ調査ヲ遂ケ、毎年八月迄ニ内申セラルベシ、
一、農事試験場及高等園芸学校ノ利用に関スル件
農事試験場ニ於テハ麦、陸稲、落花生、甘藷等、本県重要農産物ニ関スル試験ニ対シ、今後一層ノ力ヲ用フルコトトナセリ、又高等園芸学校等ニ於テハ澱粉ノ晒(さらし)方並落花生ノ漂白方法、其ノ他落花生油及蓖麻子油又ハ魚油ノ精製等、農産其ノ他ノ加工品ニ関スル試験研究ニ一層ノ力ヲ用フルコトト為セリ、各位宜シク此ノ趣旨ヲ体シ、以上ノ各機関ト気脈ヲ通ジ十分ナル連絡ヲ採リ、以テ斯業ノ奨励発達ニ努メラレムコトヲ望ム、尚別紙ヲ以テ計画ノ大要ヲ示ス、
一、麦原種ニ関スル件
麦ノ改良発達ヲ図ルコトハ刻下ノ急務ナルヲ認メ、明年度ヨリ県農事試験場ニ於テ其ノ原種ヲ育成シ、以テ各郡ニ配布セムコトヲ期ス、其ノ計画ノ細目ハ追テ指示スル所アルベシト雖、各位ハ予メ此ノ意ヲ諒シ、之カ普及発達ニ関シ十分ノ研究ヲ望ム、
一、染織業奨励ニ関スル件
染織ノ改善発達ヲ図ラムガ為、先般之ニ関スル技術者ヲ新設シ、専ラ指導奨励ヲ加ヘシメツツアルハ、各位ノ了知セラルル所ノ如シ、望ムラクハ今後県ノ施設ト相待チテ益指導奨励ヲ加ヘ、以テ生産品ノ意匠、組織、染色、加工等ノ改良ヲ図ルト共ニ、原料及生産品ノ取引方法ノ改善ヲ行ヒ、以テ斯業ノ発展ニ努力セラレムコトヲ(下略)、
これをみると大正四年当時県下の農業等に関して、どんなことが問題であったかが概略把握できる。また郡長会議のときの資料は、これだけではなく何種類かあるが、大正五年には、二毛作の奨励(水田二毛作)が指示されている。当時二毛作可能水田が県下に約九千町歩ほどあるが、実際二毛作が実施されているのは三千町歩に過ぎないと指摘されている。この外に耕地整理のこと、肥料のことが述べられ、本県で当時購入使用されている「金肥」の総額は二四〇万円にもなり、県外より購入されるものは一五一万円余に達すると述べ、欧州大戦により生産停止、輸入中断という事態がおこっているので「金肥」は合理的に使用するように工夫し、堆肥、緑肥等の自給肥料の使用を奨励することと同時に、これは各郡に於て、実地指導が大切であるから各郡ともにこうした点に留意し指導するよう指示している。
またこのころになると水稲の品種改良がすすみ、この結果として、それぞれの地域の特性に適合する品種の栽培を県、郡で奨励するようになる。次の表45はそうした結果の推移を示したもので、これをみると明治末年から大正にかけ、どのような品種の稲が栽培され普及していたかがわかる。
品種 郡 | 愛 国 | 神 力 | 竹 成 | 大和錦 | 関 取 | 夕 張 | 信 州 | 高 砂 | 近 江 | 信州 □子 | 蟹 目 | |
安房 | M44 | 町 反 26・5 | 町 反 2,230・0 | 町 反 9・6 | 町 反 25・9 | 町 反 530・0 | 町 反 102・4 | 町 反 ― | 町 反 ― | 町 反 19・7 | 町 反 ― | 町 反 ― |
T4 | 106・8 | 3,862・9 | 216・4 | 333・4 | 163・5 | 156・4 | 34・3 | 34・7 | 167・2 | 3・6 | 1・5 | |
夷隅 | M44 | 544・8 | 1,338・0 | 215・5 | 5・0 | 417・2 | ― | ― | ― | 70・1 | ― | ― |
T4 | 775・3 | 2,560・0 | 303・6 | 377・5 | 388・2 | 247・4 | 11・8 | 67・8 | 133・0 | 72・6 | 13・4 | |
君津 | M44 | 1,071・2 | 1,046・4 | 43・1 | 44・7 | 294・2 | 382・0 | 110・8 | ― | ― | ― | ― |
T4 | 3,066・0 | 1,026・4 | 206・4 | 372・9 | 534・8 | 571・6 | 113・7 | 126・4 | 9・2 | 242・4 | 9・4 | |
長生 | M44 | 1,210・9 | 2,228・1 | 12・5 | ― | 126・2 | ― | 11・7 | ― | ― | 15・5 | ― |
T4 | 688・3 | 2,035・8 | 27・0 | 324・7 | 202・0 | 57・8 | 8・0 | 54・2 | 9・6 | 123・3 | 55・9 | |
山武 | M44 | 1,204・5 | 302・3 | 41・8 | ― | 225・5 | ― | 48・7 | 44・1 | 20・3 | ― | 55・2 |
T4 | 2,912・0 | 562・5 | 237・4 | 227・3 | 213・6 | 21・7 | 145・6 | 175・4 | 44・1 | 42・2 | 176・0 | |
市原 | M44 | 1,680・5 | 347・9 | 107・1 | 408・2 | 104・0 | 3・5 | ― | ― | 22・9 | 76・1 | ― |
T4 | 1,638・4 | 1,149・1 | 390・4 | 783・1 | 382・5 | 4・7 | 11・3 | 157・2 | 286・4 | 271・7 | 42・6 | |
千葉 | M44 | 931・2 | 45・5 | ― | 48・3 | 20・1 | ― | 213・5 | ― | 45・2 | 53・1 | |
T4 | 1,081・4 | ・ | ― | 396・9 | 30・8 | 18・1 | 104・8 | 43・1 | ― | ― | ― | |
東葛飾 | M44 | 2,480・6 | 115・5 | 33・4 | ― | 115・9 | ― | 299・0 | ― | ― | ― | ― |
T4 | 2,280・9 | 45・6 | 43・1 | 109・5 | 196・8 | 39・6 | 346・4 | 214・9 | 95・3 | 31・5 | 17・1 | |
印旛 | M44 | 2,429・9 | 98・4 | 81・6 | ― | 95・7 | 6・5 | 214・3 | 113・9 | 95・8 | 180・7 | |
T4 | 2,493・2 | 17・1 | 100・0 | 130・4 | 121・6 | 84・0 | 286・9 | 68・6 | 17・8 | 8・9 | 127・4 | |
香取 | M44 | 3,088・6 | 294・8 | 114・2 | 56・7 | 146・4 | 130・5 | 264・8 | 202・6 | 5・5 | 31・2 | 17・8 |
T4 | 3,536・0 | 258・0 | 468・0 | 176・0 | 366・0 | 574・0 | 632・0 | 551・0 | 266・0 | 182・0 | 163・0 | |
海上 | M44 | 562・9 | 22・6 | 95・7 | 5・7 | 97・7 | 48・0 | 80・2 | ― | ― | 4・2 | 65・1 |
T4 | 914・3 | 1・2 | 285・0 | 83・8 | 189・2 | 242・7 | 170・0 | 114・9 | 67・1 | 72・8 | 34・5 | |
匝瑳 | M44 | 666・4 | 20・0 | 15・0 | 66・0 | 167・1 | 41・0 | 80・5 | ― | ― | 45・8 | 111・4 |
T4 | 1,600・5 | 40・3 | 405・6 | 62・6 | 253・3 | 39・7 | 75・5 | 132・8 | 296・7 | 36・3 | 243・2 | |
増加歩合 | 3割2分 6厘8 | 4割2分 8厘9毛 | 37割 8分4厘 | 41割 1分3厘 | 3割1分 8厘 | 18割 8分3厘 | 4割 6分6厘 | 59割 7厘 | 49割 4分1厘 | 39割 8分7厘 | 8割2分 9厘 | |
当町域を含む山武郡内での様子をみると、量的には「愛国」が最も多く、栽培の増加という点からみると「竹成」、「大和錦」、「高砂」などがあげられる。
このころの当町域での稲作は毎年四月下旬から五月上旬に苗代を作り種子を播き、六月二十日頃から下旬にかけて田植を行い、十月下旬に早生稲の刈取り、中生・晩生稲を十月下旬から十一月上旬、中旬に刈取るというサイクルで毎年実施されていた。このため収穫期に台風の襲来、長雨などの自然の災害に見舞われ、減収するのは年中行事のようなもので、これに対応し「農業被害共済保険法」が生まれるが、実際のところ「保険金がかけられれば苦労はしない」ということであった。
こうした事態が改善できなかった原因のひとつに明治・大正・昭和初期まで、農家収入の中心が米の代金と、養蚕による繭代金であったことで、養蚕は五月上旬から六月中旬までで一区切りつくので、繭を売った後に「田仕事」にとりかかった。従ってそれまで草ぼうぼうの水田を六月二十日から三十日の十日ばかりの間に一挙に耕耘・代搔(しろか)きをやり苗をとって、家中総出で田植えをしても一日七~八アール程度が限度であった。そこで前にも記したように、水田の少ない地方から田植人夫を雇って仕事をすませるという方法がずっと続いていた。
この問題点に早くから気付いたのが当町・経田の今井戢で「稲早植」方式を研究し、東金町を中心に食糧増産隣保班長として、東金・源・公平・豊成・正気・福岡・白里・増穂・瑞穂・山辺・大和など山武郡内の当町周辺の旧村々に、この農業技術普及をはかった。なかには今井氏のすすめに対し「自分は六十年来米作りをやっているが、そんなことで米の増産はできないから私はやらない……」という反対者もあったというが、当然のことであろう。稲作は何十年、何百年とその土地に根をおろしている栽培方法があるわけで、それは先人の貴重な体験が基盤となっているし、農業の問題点はもし一回失敗すると一年間は総て無駄になってしまうということである。したがって、あたらしい試みに対しては、必要以上に慎重である。しかし、昭和に入り養蚕をしなくなったこと、社会の変動のなかで今井の努力が注目されるようになるが、これは、別項に記すことにする。
また大正時代当町域ではどのような農業生産物があったのかということは、旧町村総ての資料は残っていないが、『大正十三年大網町役場事務報告』があり、此処に旧大網町の当時の農業生産の実況が次のように記されている。
大正十三年 大網町役場事務報告
第五 勧業
一、産業ノ大勢
生業ノ状態ニ於テ示スガ如ク、半商半農ノ本町ハ其ノ物産ノ程ハ農産物ニシテ、工業ノ如キ殆ンド見ルベキモノナク、僅ニ酒製造等アルノミ、
二、生産物
大正十三年中ニ於ケル重要物産ノ生産額、概ネ左ノ如シ、
また大正前半期の当町域、旧町村別に農業関係生産物を調査し、整理してみると表46のようになる。これは『山武郡郷土誌』下編、町村誌の記述を整理したものであるが、当時の各地域の農業生産物を対比してみると、米や麦を田畑の作物の中心としながらも、次第に果樹園芸にも関心がむけられ、作物の多様化傾向がはっきりあらわれているし、旧大網町表47の大正十三年度の生産物と表46の大正前半期の農業生産物の大網の部分を対比してみても、この傾向が明確な事実としてあらわれている。いわば、農業生産物は栽培の力点が換金作物へと置き換えられていくのが、この時期の当町農業の特色で、これは県下全域にも共通したことでもあったが、当町域のもつ歴史的条件や地理的条件がより一層この傾向に拍車をかけたといって、よいであろう。
地 域 | 農 産 物 | 果樹園芸 | 養 蚕 | 林産加工 | そ の 他 |
大和 | 米・麦 大根 | 柑橘 梅の実 | 養蚕 | 薪・炭 | 菅笠(福俵) |
瑞穂 | 米・麦・大豆 | 柑橘(東部) 柿(西部) 批杷 | 養蚕 桑園 | 炭 | 鶏卵 |
大網 | 米・麦 | 柑橘 | 養蚕 | 鶏卵・酒造 | |
山辺 | 米・麦 甘藷・大根 | 養蚕 | 薪・炭 | 鶏卵 | |
増穂 | 米・麦・大豆 蔬菜 | 柑橘 梨 | 養蚕 | ||
福岡 | 米・麦・大豆 木綿 | 養蚕 | |||
白里 | 米・麦・落花生・甘藷 | 養蚕 | 鶏卵 水産物・魚類 | ||
種 目 | 産 額 | 価 格 | 種 目 | 産 額 | 価 格 |
米 | 3,668石 | 150,456円 | 麦 | 600石 | 5,936円 |
大 豆 | 244石 | 3,904円 | 小 豆 | 9石 | 180円 |
腕 豆 | 793貫目 | 79円 | 蚕 豆 | 15貫目 | 90円 |
そ ば | 229貫目 | 2,748円 | 甘 藷 | 14,362貫目 | 1,867円 |
青 芋 | 1,953貫目 | 449円 | 蘿 蔔 | 13,685貫目 | 1,505円 |
家 禽 | 4,415羽 | 4,977円 | 卵 | 327,040個 | 13,082円 |
繭 | 429貫目 | 29,938円 | 甘 橘 | 11,389貫目 | 2,847円 |
また林業面についてみると当町域を含む山武郡全域の自然条件が樹木の成長に適し、松・杉・楢(なら)・櫟(くぬぎ)等の良材を産出する。特に「山武杉」は、大正期には電柱用として需用が多かった。また当時は酒や醬油は樽を用いていたので、その方面の用材としても需要がのびていた。さらに建築用材としては、大正十二年九月一日に東京を中心に関東一円に大きな被害をもたらした関東大震災後の復興にも木材が必要であり、これらを総合し木材の需要は激増した。
しかし、こうした材木としての用途より、もっと身近で必要とされたものは、日常生活に必要な薪や炭であり、その原料となる雑木である。現在のように「ガス」や「電気」で炊事をすることなど夢想だにされず、当町域の当時の主婦は朝起きれば「カマド」の下に「ソダ」をくべ、火をつけ湯をわかし、「御飯」を炊き、「味噌汁」をつくり「カマド」の下の残り火を座敷の「ひばち」に移し、一家の朝が始まるというのが、ごく一般の家々のくらしであった。山に生育する雑木は、こうした地方で生活する人びとの燃料源として大切で、炭や薪は経済的なゆとりのある家では、まとめて炭は二十俵、三十俵と購入し、薪も五十把、六十把と購入し、日常の用に供した。当町域でも、大和・瑞穂・山辺などの丘陵地域の多いところでは薪や炭の生産があげられている。当時は雑木といえども手入れは行き届き下枝は切りはらわれ「ソダ」として、薪をもすときの「たきつけ」に用いられたり、「いろり」でもされたりした。一定の大きさになった雑木は切られて「炭」にやかれる。こうした目的で山に育てられる雑木は、櫟・樫・楢・椎、などさまざまなものがあった。当町域の丘陵部の山々には杉のように造林されているものや、自然に、あるいは半人工的に育てられた雑木が生い茂り、農家の収入源にもなっていた。
写真 炭焼窯(金谷郷)
農業に関して、畜産について付言するならば、山武郡内で特に明治四十年頃、山武郡大富村(現成東町)早船の飯塚栄雄が、県有種牡牛米国産ホルスタイン種を借り受け飼育し、品種改良を企図した。大正に入り当町白里の上代民信はこれを引き継ぎ管理し、一方山武郡産牛組合を発足させ、山武郡役所内に事務所を置き産牛の改良普及に尽力した。このため山武郡内の牛の飼育頭数は、安房郡や君津郡には及ばなかったが、種類は改良統一され大いに発達した(『山武郡郷土誌』)。
また養豚も明治初年頃大いにさかんであったが、これは価格の不安定からあまり大きな発展はみられなかった。
最後に水産業に関してふれておくことにする。当町域で水産業に関係があるのは、旧白里村だけである。当地域は九十九里浜に臨む漁村で、面積も東金、片貝に次ぐ郡内第三位の広域村であった。
したがって、当地域には、農業、漁業のほかに商業もさかんな地域であった。しかしここでは主として白里の漁業を中心にとりあげていく。
白里の漁業は、江戸時代以来の地曳網による「いわし」漁が行なわれていたが、明治・大正と時代を経るに従って下降線をたどっていった。またこれに対し沖合に出漁して、魚をとる「揚繰網」漁法がとり入れられ、大正期は主としてこの方法の漁業がさかんになった。九十九里浜は砂浜海岸であり、良港に恵まれなかったため写真にみられるように多勢で漁船を砂浜に引き揚げたり、出漁のときには人力にたよって船を海へ押し出す方法がとられていた。こうした光景は、ながく、九十九里浜独特の景観となった。
こうして、出漁した漁船が沖合でとってくる魚は「いわし」、「あじ」、「さば」、などが主体で、このほかに「鯛」などがあった。
「いわし」は、大正期にはあまりとれなくなりつつあるとはいっても、大漁のときには広い砂浜いっぱいに、ひろげてほして「ほしか」にして、田畑や果樹園の肥料として売られ、このほかに「にぼし」、「田作」、「めざし」などに加工され、都市や内陸農村地帯に販売された。
「あじ」は鮮魚として「いわし」とともに販売されるほか、「ひらき」に加工され「さば」などと共に市場へおくり出された。
このように白里は漁業面でもいろいろな、漁業がくりひろげられた地域であった。
写真 朝の出漁のようす
第一次産業を中心として、大正時代の当町域のようすをみると、農業、林業、水産業とさまざまな、先人の生活をみることができる。それは山武郡全体の産業構造の縮図のような状態であり、「ミニ、山武郡」ともいえる。
明治二十二年市町村制施行、地方自治の風潮のもとで、自分たちの住む地域にあたらしい町村名をつける際、人びとは自分たちの願望を町村名に託した。清名幸谷の板倉五郎三郎の発案による「増穂村」などは、そのよい事例のひとつであろう。この他「瑞穂村」、「福岡村」なども、同様に地域農業の発展を願っての命名であろう。この願望は少しずつではあるが、着実に現実のものとなっていった時期がこの大正期であったといってよいであろう。