(2) 商・工業

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 当町域は、農産、林業、養蚕などは盛んであるが、商業や工業は十分に発達しているとはいえない。しかし商業に関しては、工業よりはさかんであったといえるであろう。とくに、明治、大正と鉄道の開通や道路の整備が、人の往来をたすけ、繭を売った時や、米代の入ったときなどには人びとは、当町の旧大網町や東金の商店に出かけて必要なものを購入した。旧大網や東金の商店は東京の商店と「チェーン店」のような関係をもち、必要な品物を仕入れ、人びとの要求に対応していた。
『大網案内』(大正五年八月刊行)により大正初期の旧大網町の商業の情況をみると、現在の町道二一三号線にそって商店が並んでいる。
 この商店の種類をしらべると、呉服店、米屋、酒店などが多く、次の写真にみられるような農業生産に使用する「かご」、「ざる」、「み」などを店先にならべた農家の必需用具などを専門にした「よろずや」型式の商店があり、また時計店のような専門店形式の商店があった。

写真 農業に使用する商品を扱う「よろずや」形式の商店
(『大網案内』大正5刊)
 

写真 時計の専門店(『大網案内』大正5刊)
 
 前にも記したとおり、当時大網町では、すでにこうした商店の連合組織ともいえる「大網商業組合」(明治三十二年発足)が活動して、大正五年の『大網案内』によれば、会員は七十名、役員として次のような人びとの名があげられている。
   大網商業組合役員
 幹事 板倉源三郎、佐藤養之助、伊藤五郎三
 評議員 中台恒二、石井松二郎、板倉四郎、小宮瀧之助、石井武助、小川源八郎
 当組合は大網町実業界の中枢となり、対外事務折衝の機関として、あるいは会員の役に立つような講演会を開催したり、他町の視察を行い、大網町商店に新知識を導入し、商運を発展向上させる一助にするという企画をもっていた。
 また町内の米穀商のみで組織している大網米穀商組合という組織がある。これは米穀商が、明治三十年房総鉄道が大網に開通したとき、鉄道側が荷物の取扱上横暴の態度が多かったので、これに対抗するため当町米穀商人十二名が結束して組織づくりに専心し、加藤国吉、古川久八らが千葉・山武・長生、夷隅四郡の同業に誘いをかけて大規模な組織づくりを行った。これは千葉県米穀商組合の母胎ともなった。
 大正五年当時の役員は次のとおりである。
  組合長 古川貞次郎
  副〃  渡辺仙蔵
  幹事  白石宗七、加藤国吉、斎藤貞次郎、小川額太郎
   会員 三十二名
 前項の農林・水産業のところでもふれたとおり、当町域は大正期も養蚕が盛んであった。そこで、各農家の生産した繭を売買するにあたって繭の買入に「甘い汁」を吸われないよう、またその反面では良い品質の繭を生産するため、講話を聞いたりするため大網糸繭商組合があった。その役員は次のとおりである。
  大網糸繭商組合 役員氏名
 組合長 板倉治夫
 評議員 清水清、大塚喜太郎、刈谷友一郎、平賀貢、小宮瀧之助
 以上述べたように、大正期の当町域の商業に関することを記したものはあまりみられないが、この時期から商業を営む人びとは単に個人として商行為に従事するだけではなく、その事業の発展を求めて組織をつくってこれに加わり、商業活動をしていたという点に特色があろう。
 またこの頃より登場してくるのが、映画、演劇の興業場所とした常設の劇場である。大網町には「大正館」(写真参照)があり、公私の会合場所としても使用されていた。養蚕の仕事や田畑の仕事に区切りがついたときに、人びとはここで活動写真と当時いわれた映画をみて弁師(士)の流暢な解説に耳を傾けたり、浪花節を聞いたり、演劇を見たりし、当地方唯一の娯楽場として利用されていた。

写真 大網町「大正館」(『大網案内』大正5刊)
 
 工業としては、当町域には大きな工場があったわけではなく、白里に海産物の加工場があった程度で、この他には米の産地であるところから酒造業が数軒ある程度であった。大網町の石野家、山辺村大竹の中田家、瑞穂村永田の小島家、増穂村清名幸谷の中村家などがあげられる。

写真 大網町 石野家酒造場
 
 このほかに商業的なものとして付け加えておくものとして、「三八の市」が大正時代にはさかんにあったことであろう。
 大網町のこの市は通称三・八という、年間三あるいは八に該当する日を以て開催された。師走は十二月二十八日で正月の飾り物や正月用品を販売し、雛市は三月二十八日、凧市は五月三日、盆市は七月十三日にそれぞれ開催され、近在からの人出でにぎわった。