四 交通と通信の発達

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 大正時代の房総は国有化された鉄道が各地にひろがった。当町域では、すでにこの数年前、明治四十四年十一月一日に大網駅と東金駅、成東駅間の鉄道が開通し、房総東線(現外房線)と総武本線が東金線で結ばれた。これにより大網は鉄道連絡の要点ともなった。
 千葉駅から当時汽車で約五十分、両国駅から約二時間二十分で大網駅に到着した。当駅から先は、大正二年に勝浦駅が開業し、勝浦まで汽車で行くことができた。また大網駅から東金を経由して成東駅で乗り換え、銚子まで行くこともできた。
 この頃の県内鉄道網(大正五年)をみると図11でみると、県北が大体現在の情況にほぼ近いのに対し、県南は空白となっている。これは、県南が房総丘陵といわれる低山性の山地が海岸にまで迫っていたことにより、トンネルを掘る以外迂回もできない地形であったためでもある。その上大正時代初期には、すすんだ土木機械があるわけでもなく、多くは人の力でトンネルを掘りすすめなければならないという技術上の制約もあった。

図11 大正5年 県内鉄道網
 
 大網駅は前にも述べたように、土気と大網駅の間が鉄道開通の上では難所といわれたところで、大正から昭和戦前、戦後と数回改修工事の手が加えられている。
 大網駅を中心とした当町域の旧町村は、交通面では、大網駅の恩恵をうけた。写真にみられるように駅前からはバスが利用でき、田畑の産物や海の幸も貨物で都市へ送り出すことができ、「東京の台所」としての機能を存分に発揮できる交通運輸の便が確立されていったのがこの時期であった。

写真 大網駅前のようす(大正末期絵はがき 小川哲夫家所蔵)
 

写真 旧大網駅構内のようす
 
 しかし、好調にみえた鉄道が大きな打撃を受けたのは大正十二年九月一日に発生した関東大震災であった。『千葉鉄道管理局史』(昭和三八年二月一日発行)によれば、千葉と大網間は地震発生後は不通、夕方より運行は大網駅と勝浦駅の駅長の判断に任せられ、三往復だけ運行、翌九月二日余震も相当あったので、大網、勝浦間三往復運行、九月三日も同様で、千葉、土気、大網間が運行されたのは十月十七日のことであった。特にこの地震で、土気と大網間にある「土気トンネル」はいたみがひどくなり、崩落や亀裂の事故が度々発生し、問題のトンネルとなってしまった。
 次に通信関係についてみると、これは郵便と電信・電話にまとめてみることができる。郵便は山武郡内で東金他十一か所が明治五年開局して以来ずっと業務を継続して大正時代に至っている。その郵便業務分担区画は表48のとおりである。
 
表48 郵便業務分担区画(山武郡内)
局  名所在地管    轄    区    域
東金郵便局東金町東金東金町、丘山村ノ内油井、小野、公平村、正気村ノ内家徳、幸田(下略)
大網郵便局大網町大網大網町、土気本郷町、大和村、山辺村、増穂村、瑞穂村
白里郵便局白里村四天木白里村、福岡村ノ内二之袋、小沼田、大沼田、一之袋、東中島、砂古瀬、依古島、下ケ傍示、桂山、長国、北吉田、九十根
片貝郵便局片貝村片貝片貝村、豊海村、豊成村ノ内御門、宮、中野、堀之内、関内、三浦名、東中、高倉、下武射田、上武射田、鳴浜村、正気村ノ内薄島、関下、宿、中新田、荒生、大沼
成東郵便局成東町成東成東町、大富村、南郷村
日向郵便局日向村椎崎日向村、源村、睦岡村
松尾郵便局松尾町松尾松尾町、豊岡村、大平村
横芝郵便局横芝町横芝横芝町、大総村、匝瑳郡東陽村、南条村、白浜村
蓮沼郵便局蓮沼村蓮沼蓮沼村、上堺村、緑海村
柴山郵便局二川村柴山二川村、千代田村
松ケ谷郵便局緑海村松ケ谷無集配局
備考 丘山村の内滝、丹尾、山田は千葉郡中野局に分属する。(『山武郡郷土誌』)

 この表でみられるように当町域旧町村には、大網郵便局と白里郵便局があった。これらの郵便局は専ら郵便事務を扱っていたが、白里、片貝、成東、横芝、東金間は電線を架設して電信電話を開通させていた。
 大網郵便局についてみると、明治五年五月一日に大網新宿六四九番地に三等局として創設され、局長は石野六右衛門であった。明治三十年六月富塚慶三が局長となり当町本宿三七二番地に移転し、更に明治四十四年四月から大正時代には当町本宿三六七番地に移った。
 大網郵便局では創設以来郵便事務を専門に扱ってきたが、明治廿六年六月一日より為替貯金を扱い、同廿九年七月一日より小包郵便を取扱うようになった。当局の郵便集配区域は、前表48にあるように二町四か村に及び、町域(大網・土気本郷)は集配三度、その外四区は各一度となっていた。大網郵便局より鉄道による郵便物の差立は上り、下りともに一日三回、到着も各三回となっていた。隣接局の白里郵便局との逓送便は発着とも一日各二回と定められていた。
 大正四年における、大網郵便局の郵便関係取扱数は次のとおりであった。
  郵便物差立総数  十六万四、二六六通
    外小包       一、〇六一個
  郵便物配達数    二五万九、九一〇通
    外小包       三、二五三個
  貯金預入総額   二万九、一四二円三七銭
  同払渡総額    二万八、四五八円四七銭六厘
 また大網局扱いの電報は、着信二、八一五通で、発信二、一六〇通となっている。
 これらは、大正四年の資料で『大網案内』に記されているものである。
 白里郵便局も明治五年創設以来業務を続け大正に至るが、その資料がないので、くわしいことはわからないが、大網局と同様に地域の人びとに文明の利器として応用されたことであろう。