また一方では、中央政府の欧化政策に対し、日本独自の良い面を見なおしていこうという風潮も出てきて、明治も後半期をすぎると、教育の面でもバランスのとれた内容に移行するようになっている。
さらに、教育が大切であることは当時の日本人の間にひろく認識されていた。学校教育を受けることが立身出世への最短距離であるという考え方にもたすけられ、教育の場である「学校」に対しては、地方の財産家が学校用地を提供したり学校建築費用の多くを負担したりした。こうした町や村の上層階級の人びとの行為は、他の一般の人びとに無言のうちに教育の大切さを理解させる好結果を招き、就学率は向上した。それは、明治のはじめ政府が手本とした欧米をもしのぐものとなっていった。
教授内容についてみても、欧米の直訳型教育から次第に改善されていき、教科もふえ、充実していった。
しかし、なんといっても明治時代の教育は私学教育など特定例外のものは別として、公教育の面では、形式的であり「暗記」が重んぜられた傾向があった。したがって、意味がわからなくても教えられたとおり復唱できれば、それは理解したものと評価されるようなところがあり、暗記力にすぐれた児童は優秀児と判定される傾向がないわけではなかった。無論、当時もすぐれた教育者は数多く存在し、このような問題点に気付いて、児童の特性を生かしていく教育実践に励んでいた教師が、地方の町や村の小学校にもいたことは付記しておく必要があろう。
日清・日露の両戦役で、世界の強国を相手に戦った結果、日本はその存在を世界から注目されるようになった。戦史をみれば、当時の日本陸・海軍の一歩卒、一水兵に至るまで読み・書き・計算のできない者はごく少数で、その資質の高かったことを知ることができる。これを評して、教育が日本の軍国主義化へ奉仕したという説を主張する人もあるが、これはむしろ教育の発達によりたかめられた民族のエネルギーを、どこへ向けるかという国政をあずかる為政者の問題であって、一歩卒や一水兵に至るまで、読み・書き・計算の能力を形成せしめた当時の教育に責任を負わせるのは、筋が違うといってよいであろう。
大正時代に入ると前時代の教育の短所に目がむけられ、与えられて学ぶことよりも主体的に学ぶことの大切さが認識されはじめた。
当町の瑞穂小学校は、当時こうしたなかで、児童の体位向上のため体育を重視した学校であった。『瑞穂教育のあゆみ』という記念誌をみると、次のようなことが記録されている。
『瑞穂教育のあゆみ』
思い出の瑞穂
1 先づ健康
第一次欧州戦乱の後をうけて、国を挙げての体育勃興時代であったので、瑞穂校はまづ健康を目標に体育理論(体操教授要目・解剖学・生理学)の研究、又実地練習による実技練磨(郡内、県内は勿論、遠く茨城県、東京都にまで出張した。特に茨城県棒野は我国第一の体操校として名声あり……略)に努めた。又我が千葉県の第一回体育研究発表会に山武郡代表として、東金校(井口憲久)、片貝校(安美留政市)、成東校(斎藤正)、瑞穂校は石川善衛が「我が校の合同体操」と題して研究発表を行い、又山武郡における第一回体操研究会を瑞穂校で開いた。その後も引き続き体位向上に努力を続けたためか、各方面からの体操見学者が数多く来校した。その繁をさける一助として刷物や絵葉書を用意した。
先づ健康を目ざして努力を続けたためか、近隣の小学校の運動会ではよく優勝旗を頂いたり、部会を代表して山武郡の競技大会にも出場した。特にドッヂボール等は部会代表四チーム中、瑞穂校から三チーム出場した。
2 躾について
瑞穂小学校の特筆すべきものとして、拍子木訓練がある。その動機は大正年間の初期と推察される頃本納町に陸軍の演習があり、
(中略)
たまたまその観戦の大衆の中に瑞穂校の職員児童も参加しており、すばらしいこの軍規に胸をうたれ、我が瑞穂校の規律に取り入れんものと、ラッパに代えるに拍子木訓練であると伝えられている。
その拍子木訓練とは、何時どこでも拍子木の音を耳にすれば、直ちにその場で聞いた時の向きに直立不動の姿勢をとって、命令なり、指示なり注意なりを聞く仕組になっている躾のことである。
これが後に伝達式事項等をはっきりさせるために、拍子木を耳にしたときは其の場で拍子木の方向に向って直立不動の姿勢をとって、指示をまつことに改良した。
これがいつか県下に名声をはくして、他県の人で、千葉県の訓練のよい学校の見学を切望して県庁の門をたたくものある時は、直ちに瑞穂校に人をさし向ける様になり、この拍子木訓練を見んものと折々県内の人は勿論、他県の人の来校があった。
其の他、躾の面では先生方の登校時に男生徒は校庭の左側に、女生徒は右側に自発的に整列して出迎える風あり、又先生方の自転車を自転車置場に運ぶ風もあったが、これ等は朝自習の充実につれて自然解消した。
又山の上にいる生徒が、下の路上を通る先生方に対して、先生方の知る知らないは別として、心からの礼をする美風があった。
3 清掃作業
清掃作業で記録に残すべきひとつとして、瑞穂小学校には卒業生一同が勉学にこよない便益を与え協力してくれた机と腰掛を、閑田に運んで見事に清掃して、報恩と感謝のきれいな心で机、腰掛に別れを告げて卒業して去る美風があった。
このおこりは、或る年の卒業生、伊藤貞さんが底冷えのする日曜日の寒空に自分の机と腰掛を自発的に報思感謝の心から清掃したことに始まった。
伊藤貞さんの美風はもとより、この先輩の美挙を素直に取り入れて、年々の卒業生が全員これを続けた事実は、正に立派な校風である。
当町域を含む山武郡は前述の『瑞穂教育のあゆみ』にもみられるように、県下でも教育のさかんな地域であった。
大正三年に郡は訓令を発し「教員会」を組織した。
大正三年九月一日
山武郡訓令第一号
本郡教育ノ状況ハ、未猶整理創設ノ事項ニ属スルモノ多ク、将来益々之レガ改善上進ヲ図ラザルベカラザルモノアリ、即此ノ目的ヲ達シ光輝アル成績ヲ挙ゲンニハ、須ラク先ヅ教員タル者ノ奮励貢献ニ待タザルベカラズ、是ニ於テ郡内ヲ別記指定ノ五部ニ分チ、部毎ニ教員会ヲ組織シ輯睦一致事ニ当リ、互ニ智徳ノ修養ニ努メ、各々研究相磨シ智見ヲ恢拡シ、以テ教育事業ノ振作発展ヲ促進センコトヲ期シ、別紙教員会準則ヲ設定セリ、局ニ当ルモノ能ク此ノ趣旨ヲ体シ、速カニ会ヲ組織シ、会則ヲ定メ、砕礪努力其ノ実績ヲ収メンコトニ努ムベシ、
記
部会名称及組合町村名左ノ通リ指定ス、
第一部教員会
公平、東金、源、丘山、大和、正気、豊成、
第二部教員会
土気本郷、大網、瑞穂、増穂、山辺、福岡、白里、豊海
第三部教員会
日向、大富、成東、南郷、鳴浜、片貝
第四部教員会
横芝、松尾、大平、上堺、蓮沼、緑海
第五部教員会
二川、千代田、睦岡、豊岡、大総
<教員会準則略>
(『千葉県教育百年史』第四巻)
大正九年前後、山武郡東金小学校では「教育の過程を生活の過程に、能力によって児童を分団に、学習の動機を基礎にして、自学へ機能から構造へ、構造の吟味から機能の発見へ……」と主張した。同校には明石女子師範学校付属小学校の「動的教育」を取り入れた教育実践を熱心にすすめていた訓導富助一があり、郡内に「動的教育研究会」が組織された。これは山武郡視学片岡小五郎の影響もあったかと思われるが、当時の教師の研究熱心によるところが大であったと思われる。これは「山武の動的教育」として県下の教育界に名を知られた。
また大正時代といえば、千葉師範学校付属小学校主事の手塚岸衛が中心となって、提唱した「自由教育」が知られている。
山武郡内にもたくさんの学校があったので前述のように、総てが動的学習にとりくんだのではなく、「自由教育」という当時の新しい指導方法に着目し、それに目を向け、自分の教育実践の中にとり入れた教師があったことは当然である。
教育における指導方法というのは、これといった絶対的なものは存在せず、それは教科によっても異なるものであり、無理に全科目にあてはめてというようなことを考えると多くの場合、無理が生ずる。
当町域の当時の学校でも、以上述べてきたような視点に立っていろいろな教育実践上の方式が研究されたのはよく知られている。なかでも大網小学校は当町域の中心校として、重要な役割を果してきている。
写真 大正時代の大網小学校
以上主として、地域の小学校教育について述べてきたが、明治末期より青年団活動や、小学校卒業者に対する同窓会活動、あるいは現在いうところの社会教育活動が次第に活発に行われるようになってきた。
たとえば大網高等小学校同窓会は、同校内に「同窓会文庫」なるものを設け、大正四年当時蔵書数は二百冊程度であったが、会員あるいは会員を通して申し込めば無料で図書を貸出するというものであった。
また、これより規模の大なるものとしては「山武教育館」があった。当館は御大礼を記念し大正四年十一月これを建設し、記念事業として図書を購入(山武郡教育会が)当館に委託された。当館の目的は普通図書、教育的考案物及び児童成績品、其の他教育上効果あるものを蒐集し、ひろく公衆に閲覧してもらうことであった。その方法として、一 来館者に見せること、二 図書貸出、三 郡内各小学校間を巡回することや、通俗文庫として郡内各青年団及び確実なる理髪店間を巡回して、本を置き一般の人びとの智徳啓発の一助にするというものもあった。
青年会活動についてみると、「山武郡聯合青年会」が大正三年四月当時の山武郡長竹内錠之助の提唱で、同年七月に発足している。
当時の青年団活動というのは、小学校を卒業後二十歳の徴兵検査を受けるまでの間、相互の親睦や研修活動、あるいは体力補強のための対抗試合、奉仕活動を主として行なうものであった。聯合青年会は各町村青年会との連絡や行事企画、指導にあたるものでもあった。その活動は地域社会に密着していて、『瑞穂教育のあゆみ』の中にある瑞穂村青年団の活動をみると、小学校教育に対する協力支授をおしまなかった。当町がいかに気候に恵まれているとは言っても、冬にときたま大雪の降ることもある。そうすると青年団は雪払いの奉仕作業を行い、通学路が確保され児童は一年生から六年まで、げたばきのままラクラクと登・下校ができるようにしてくれて、今更ながらこの雪払いは、思い起すだけで感謝にむせぶところである。このような、青年団の充実した活動が認められて、夷隅郡の総元村青年団と共に、県下只二か所の青年団が表彰の栄に浴した(表49)。(元本校訓導・石川善衛氏寄稿)
年 月 日 | 事 由 | 会 名 | 表彰官庁 |
明治四十四年十二月廿七日 | 成績優良ニツキ金五円 | 白里村北今泉同志会 | 山武郡長 |
明治四十五年六月一日 | 夙ニ風紀ノ改善ヲ図リ常ニ教育ノ事業ニ資ス其ノ功績顕著ナリ仍テ之ヲ表彰ス | 山辺村青年会第九分会 | 山武郡教育会 |
同 右 | 同 右 | 白里村北今泉青年会 | 同 右 |
同 右 | 同 右 | 瑞穂村萱野同志会 | 同 右 |
同 右 | 同 右 | 増穂村南横川青年会 | 同 右 |
大正二年五月廿五日 | 同 右 | 山辺村青年会第五分会 | 同 右 |
同 右 | 同 右 | 白里村南今泉読活会 | 同 右 |
大正二年一月廿日 | 成績優良ニツキ金五円 | 増穂村南横川青年会 | 山武郡長 |
大正二年一月十八日 | 同 右 | 瑞穂村青年会 | 同 右 |
このような青年団、又は青年会の活動で大正の初期に表彰されたものに次のような地域のものがあった。
また当時こうした青年団の活動ぶりを報道した「新総房」や「千葉毎日新聞」の記事によると、山武郡内に次のような青年団があったことがわかる(『千葉県教育百年史』第一巻)。
山武郡、町村数 三十二町村
豊岡村青年団現(松尾町)、片貝村向上会(現九十九里町)
山辺村青年会(当町山辺)
大網町青年会(当町大網)
北今泉同志会(当町白里)
埴谷青年会(睦岡村・現山武町)二川村青年会(現芝山町)
丘山村青年会(現山武町)
大総村青年会(現横芝町)
豊海村青年同志会(現九十九里町)
千代田村青年団(現芝山町)
北清水西区青年会(現横芝町)
鳥喰青年団(現横芝町)
公平村青年会(現東金町・成東町)
松尾町青年会
こうした青年団の結成は、大体小学校長や町村長の奔走尽力によって、明治末期より急速に進展していった。たとえば「清谷尋常小学校(現増穂小学校)沿革史・地」によると「明治四十一年一月八日清谷青年会が発起トナリ、山武郡農事教師加藤忠恕ヲ聘シテ農事講習会ヲ開ク。」とあり、青年団の活動ぶりを記録している。
大正期に入ると町村青年団は、郡長を団長とする郡青年団へ統合されていく。
千葉県は大正九年「青年団体ノ運動ニツキ」という趣旨の訓令を出している。
青年団体ノ運営ニツキ 『千葉県教育百年史』第二巻
大正九年一月二十三日
県訓令第二号
青年団体ノ実績近来漸ク見ルベキモノアルニ至レハ、邦家ノ為洵ニ喜フベキ所ナリ、然レトモ益々其ノ内容ヲ整理シ、実質ヲ改善シテ、健全ナル発達ヲ遂ケシムルニハ、今後尚施設スベキ事項尠シトセス、特ニ自主自立以テ大ニ其ノ力ヲ展ヘシムルハ、団体ノ本旨ニ顧ミテ頗ル緊要ノ事ニ属ス、随テ其ノ組織ハ之ヲ自治的ナラシムニ努メ、団体ヲ統フル者ハ之ヲ団体員ノ中ヨリ推挙セシメルヲ本則トスヘク、其ノ官公署、学校等ノ関係ニ至リテハ、互ニ気脈ヲ通シ連絡ヲ図リ、相提携シテ之カ発達ヲ助成セムコトヲ要ス、今ヤ平和克復シテ 大詔渙発セラル、国家正ニ重要ノ時期ナリ。此ノ時ニ際シテ国民ノ奮励努力ヲ要スル殊ニ切ナルモノアリ、青年団体ハ深ク思ヲ玆ニ致シ、益々堅実ノ俗ヲ興シ剛健ノ風ヲ養ヒ、其ノ使命ノ重キニ副ハムコトヲ期スヘシ、各位能ク此ノ趣旨ヲ体シ、地方ノ実情ニ鑑ミテ策励宜シキヲ制シ、以テ其ノ貫徹ヲ期セラレムコトヲ望ム、
一方、女子の場合は「処女会」と称し、これも各地域で発足したが、青年団の記録は残っているが「処女会」の具体的記録はほとんど残っていない。
「大正拾参年大網町役場事務報告」という文書によると、「社会教育」の項に次のように記されている。
イ、青年団
一、団員 八十五名
二、事業 毎月一回、団報ヲ発行シ、毎月一回集会ヲ開キ、修養、体育等ニ関スル研究ヲナス、
ロ、処女会
一、会員 一五五名
二、事業 時々バザーヲ開キ基本金ヲ蓄積ス、
(下略)
こうした青年団や処女会の機関誌として、大正十四年八月『房総青年処女』が創刊された。
写真 創刊号 房総青年処女
渡部英三郎は本誌の創刊号に『首途の言葉』として、「新しい時代の曙光は、今や東山の嶺に輝きつつある。其光輝を遮蔽する雲霧を一掃し、其普遍化を阻止する一切の障礙を除去し、新時代の芽生に培ひ、其発展と完成とを期することは時代の子、我々青年処女の双肩に負ふべき責任でなければならない。今や行きつまれる旧文明は、種々の幣害と社会的害毒とに満ち充ちている。文明の都市集中も地方の疲弊も、不健全なる思想の横行も、不安なる社会問題の続出も、其他新聞紙の社会欄を埋める諸種の社会的悲劇も、みな其表現にすぎない。我々は、この不健全な状態を一掃して、我々の住むこの社会をもっと住み心地のよい、愉快に働き、愉快に遊ぶことのできる場所としなければならない。けれども旧文明は驚くべき強大な抵抗力を以て、または情勢を以て、新時代の発展を制扼し阻害するものであることは歴史の我等に示す教訓であって、現代と雖も其例外ではない。我々は、唯多数者の団結と協力によってのみ斯大目的を達成することができる。此必要に応ずるため、我々は先づ房総十万の青年処女と団結協力し、「相互に相援け相励ましつつ、人格の向上と公民的修練とに努めんとする。雑誌『房総青年処女』はこの目的に対する一手段として誕生を見たものである。」(『千葉県教育百年史』第四巻)
渡部英三郎は旧文明ということばで従来の慣習や習俗を批判し、青年男女に対し批判精神を以て、新しい住みよい、働きよい房総をつくりあげることこそ我等男女青年の使命であるとして、『房総青年処女』刊行の意義を述べている。
こうして、社会教育の一部として男女青年団の活動が組織化されていった。
しかし、大正デモクラシーという時代の風潮の中に生まれ育った男女青年が、「講習会」の名であつめられ、耳にする中央から来た講師のはなしは、ほんとうの意味で「村のくらし」を知らない人の机上論として、それに失望したり、農繁期の多忙の時期に訓練のために動員されたりすることへの批判をもち、その不満を『房総青年処女』がとりあげていた時代はよかった。やがて不景気や恐慌の嵐の中に、自由な雰囲気は失なわれ、全体主義の風潮がたかまっていき、青年団の活動も、この中に巻き込まれていくのであった。
教員会準則略>