写真 第一次世界大戦
この世界戦争の根本は植民地拡大をめぐる対立で、中核にイギリスに対するドイツの挑戦があった。
日本はこの年八月二十三日「対独宣戦布告」を行った。
かつて日清戦争の終結にあたって、「三国干渉」の苦汁を飲まされたことに一矢を報いんとする意味もあったであろうが、「日英同盟」の関係からも当然イギリスに味方をして、作戦に協力する義務もあった。
開戦当初、元老井上馨は山県有朋と首相大隈重信に対し、欧州のこの戦乱は日本が発展するための「天佑(てんゆう)」(天のたすけ)であると説き、日本は直ちに挙国一致でこれを利用し、東洋におけるわが国の利権を確立すべしと伝えたといわれている。井上馨はその結果をみずに翌大正四年九月に死去するが、この発想は次の陸軍大将寺内正毅が中心となった寺内内閣によって生かされた。
大正三年七月第一次世界大戦がはじまった当初は、そのショックで経済は混乱したが、やがて五年に入ると交戦国諸国から兵器、弾薬、軍靴、馬具、医薬品など軍需品の注文が殺到し、官民の軍需工場はその注文に対応すべく「フル操業」を開始し、後のことを考えずに生産の増大、設備の拡充に狂奔し、好景気の下に「成金」といわれるにわか金持が輩出した。
また一方、明治以来日本は軽工業が中心であったが、これを機会に重工業、化学工業へとその体質を変化させていった。
日露戦争以来、戦費調達のための外債のためほとんど赤字財政国家に近い状態にあった日本は、ここで一挙に黒字国に変った。
寺内内閣は、こうした事情をにらみ、従来の内閣が堅持していた緊縮財政から積極財政へと転じた。大正三年の一般会計歳出決算額が六億四八四二万円だったのに対し、大正七年度は十億一七〇三万円となり、四年間で五七パーセントもふえてしまった。こうした事態への対応は増税と公債の発行であった。
この背景には第一次大戦と関連して、陸・海軍の軍備拡張、鉄道の建設と改良、電話事業の拡張、高等専門学校の増設、小学校教育の振興のために「市町村義務教育費国庫負担法」の制定など、いずれも時代の進展に応じやむを得ないものも多かった。一方では外交関係の情報を重視せず革命ぎらいから「ロシア革命」の指向するものを正確に把握しようとせず、帝政ロシアに対して約三億円を公債担保に貸付けた。また中国北洋軍閥の頭領段祺瑞国務総理に、寺内首相の私設公使西原亀三と大蔵大臣勝田主計が一億四五〇〇万円を貸付けた。前者は帝政ロシアの崩壊で担保は無価値となり、後者の「西原借款」も無駄なものになり、逆に、日本に対する中国人民の悪感情をもたらす原因のひとつになってしまった。
大正七年(一九一八)第一次世界大戦が終了すると戦後恐慌がおこり、大正八年には一時小康状態となるが、大正九年三月再び恐慌がおそいかかった。その後の日本経済は「恐慌から恐慌の間をよろめきながら昭和へ入っていった」といっても過言ではなかった。
こうした情勢の中で、当町域を中心とする山武郡下の様子はどんなものであったのであろうか。当町域からも多くの女子学生が入学した県立東金高等女学校(現県立東金高校)の『東金高校の歴史』第二巻大正編(昭和55年刊行)の「第一次世界大戦の影響」をみると次のように記されている。
『東金高校の歴史』 第二巻 大正編
第一次大戦は、本校の教育方針に大きな影響を与えたといえる。というのは森田校長時代に推進された進歩的女子教育の発想が、大戦中における欧米婦人の活躍に刺激されて盛り上った。我が国の婦人啓蒙論の一端につらなっているからである。一般に、日本における男女同権は第二次大戦後の諸改革によって一挙に推進された印象が強いためか、第一次大戦と婦人解放意識との関わりについては、あまり注目されていないようである。しかし当時の日本で婦人問題や女子教育に関心を持っていた知識人は、この大戦中における欧米婦人の活動を高く評価し、それが婦人解放への道を大きく開いたことを強調している。(中略)
こうした日本女性啓蒙論の議論は、後に紹介するとおり森田校長(第三代森田要作氏)の女子教育方針とも共通している。つまり大正期本校で行なわれた女子教育には、第一次世界大戦を契機として到来した欧米婦人の活躍・自覚・解放という歴史的な新段階に即応した新しい内容が盛りこまれていた。(下略)
第一次世界大戦は男子が兵士として戦場に動員されるため、女子が職場に進出して、男子と大差ない能力を発揮して仕事をしたため、社会的地位や発言権が増し、それは世界の風潮となり、房総の一高等女学校の教育にまで、影響を及ぼしていることに、注目しなければならない。
また第一次世界大戦は、日本では戦死者の数も少なく、当町の戦歿者名簿を見てもそれらしい人は数名、後のシベリヤ出兵(大正七年)を含めても一〇名をこえなかった。
次に当地域の主産業である農業との関係についてふれるならば、第一次世界大戦の好景気は工場のある都市人口を増加させ、農家の二、三男で農業をやっているよりも日銭(ひぜに)の入る工員の方がよいと、農村から都市へ移住する人も多かった。
農村から都市への移住の形態は、はじめの頃は単身で出かける者(二―三人の仲間をさそって)が一般的であったが、後には家族ぐるみの移住となり、東京の小岩、砂町あたりには、千葉県から出て来た人が大変多かった。
こうした都市人口の社会的増加は、農産物の需要を増大させた。次の表50で大正三年を基準にして、農産物価格の上昇ぶりをみると、米価は大正七年には約二倍、八年には三倍ちかくまで上昇している。こうしたことを反映して農村にも「百姓成金」が生まれたり、「農村景気」がつくり出されたりしたが、これはごく一部の地主、自作農クラスの人びとの間に生じた現象で、多くの小作人クラスの人びとはこの範囲外にあった。このため地方農村社会のもつ矛盾が逆に強くあらわれ、「小作争議」が発生する契機とすらなった。しかも表50にみられるように、農産物価格が上昇するよりももっと早いテンポで、農村で必要な肥料類とか一般消費物価が確実に上昇していったため、農村における人びとの生活は苦しいものになっていった。
物品 年 | 物 価 | 春繭価 | 糸 価 | 米 価 | 農業労賃 | 大豆粕 | 硫 安 |
大正3年 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 |
4 | 102 | 72 | 103 | 81 | 97 | 83 | 113 |
5 | 123 | 105 | 139 | 85 | 96 | 160 | 143 |
6 | 155 | 140 | 167 | 123 | 111 | 128 | 220 |
7 | 201 | 165 | 178 | 203 | 148 | 161 | 272 |
8 | 248 | 232 | 258 | 285 | 236 | 211 | 242 |
9 | 272 | 148 | 202 | 277 | (278) | 240 | 197 |
このような事態は農民の生活上の負担を大きくさせた。さらに小作人に対しては負担が大きくなり、地主対小作人の対立となり、「小作争議」がおこるようになった。
また一方では商業的農業が発展するようになった、蔬菜、果樹栽培が中心であるが、これが意外な農家収入となった。どのような作物を作ったかは、農業の項目に記したので、ここでは省略する。
第一次世界大戦が都市への人口集中という現象を招き、さらに鉄道網が完備したことにより、従来腐敗のため輸送が困難であった野菜類も、通風車や冷蔵車の実用化により都市へ輸送されるようになった。さらに作物を作る農民も、従来のように個々で売っていた青果物を共同出荷組合などを組織し、中間商人に捨て値で買い叩かれることを防止するようになり、生産意欲を向上させていった。
しかし一方では、好況による農村労働力の都市への流出という現象から、大正四年には男子の日雇が一日五十銭の日当で雇えたものが、大正九年には一日に一円五十銭以上でなければ雇えなくなり、農作業の機械化がすすみ、石油発動機、揚水機、動力脱穀機、籾・麦摺機、精米機など出費が多くなった。好況のときはそれほどでもなかったが、不況期になると、これらは農家の大きな負担となっていった。
第一次世界大戦は、明治以来の農村に変革をもたらし、合理的な農業を推進させるということで大きな影響をもたらしたが、経済の不安定から農民の生活を一挙に向上させるまでには至らなかった。