七 関東大震災と大網白里町

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 大正十二年(一九二三)九月一日午前十一時五十八分四十四秒、東京・神奈川・千葉・埼玉・静岡の一府四県にわたって、突如地上に存在するあらゆる建造物をくつがえすような大地震が発生した。
 『東金高校の歴史』第二巻大正編は「関東大震災の被害と修復」の項で、当日の当町に隣接する東金における地震の様子を次のように記している。
 
  大正十二年九月一日の関東大震災は本校にもかなりの被害を与えた。山田はつ(旧職員)はその時の様子を次のように回想している。
  ちょうど洋間の作法室(現在の同窓会記念館)で職員会議中でしたが、皆作法室前の廊下に、とび出しました。八鶴湖の水が大波をうっているのを見て「水、水」と大声で叫ばれた先生もおられました。寄宿生は夏休みが終って帰ってきていましたので、第一震でとび出して、運動場に行こうとして屋根瓦で頭をうたれた方が数名いました。その後数日は余震をおそれて、作法室と茶室がすぐ庭に出られるからと寄宿生と避難していました。
  また当時の在校生たちも「始業式の済んだ後でしたので、一般の生徒には被害もございませんでしたが、寄宿舎の生徒には、屋根から落ちた瓦に打たれて、何人かの負傷者が出たようでした。校舎は瓦がとんだりして、大分傷められ、お蔭で学校も暫く休校、出校してからも雨漏りで授業も思うようでなかったことを覚えております。」(菅沢ちか・十三回卒)、「何日間か授業もできず、授業が始まっても度々の地震のたびごとに恐ろしい思いをしました。」(高橋はな・十四回卒)、「大震災の時、汽車は満員だったり、ごたついたりして乗れず、とうとう学校まで(注―成東から)歩いたことも何回かありました。帰りも汽車に乗れず、徒歩で帰ったこともありました。」(伊藤みよ・十五回卒)
  学校側(東金高等女学校)の公式記録としては、『校報第十号』の「学校日誌」欄に次のように記されている。
  (大正十二年)
  九月一日 土 朝 小雨後晴
  午前九時より始業式、正午未曽有の激震あり。余震頻発、被害甚大。舎生は茶室・作法室に移り、不安の裡に夜を徹す。被害大要如左。
  一、負傷者
   一学年石出直江、
   三学年古関こう、各頭部裂傷
   一学年久我かつ、
   三学年森川敏、打撲傷
  一、建物被害
   本館屋根瓦八分瓦落、教室及び廊下壁の崩落及亀裂を生じたる所十館坪(ママ)
   講堂屋根瓦五分瓦落、内壁全部崩落
   生徒控所、壁の崩落数多あり、
   寄宿舎、壁崩落及び亀裂数十箇所、食堂入口柱二本裂折、風呂場壁崩落数箇所、
   門衛所、大破、使用不可能、
  なお全建築物に歪を生じ、窓及扉の開閉不可能なるもの数十箇所並びに窓硝子破損多数、
  九月二日 日 曇
  余震断続、恐怖裡に終日校庭・門前土手側に避難。布施教諭被害状況報告、技術員派遺、申請のため出県即日帰投、明三日より臨時休業と決し、舎生に随意帰省を許す。
  九月三日 月 晴
  本日より五日間臨時休業。舎生殆んど帰省、余震不止、鮮人襲来の流言切り(ママ)に至る。
    (中略)
  十月二日 火 曇
  屋根修繕終り、余震もやや静まりたるを以て教室復旧。
 

写真 震災当時の東金高等女学校
(『東金高校の歴史』)
 
 また当町域においては『瑞穂教育のあゆみ』の中に「思い出の瑞穂」と題する石川善衛の寄稿があるが、この中に「あの大正十二年の大震災に、ただの一ケ所も狂(くるい)を見せなかった堅牢さ……」とあり、瑞穂小学校の建物がしっかりしていたことを述べている。
 この関東大震災に関しては、当時の内務省社会局が大正十三年六月にまとめた『震災調査報告』をみると、くわしい資料がのせられている。

写真 震災直後の千葉県庁の地震対策本部
(『東金高校の歴史』)
 
 図12をみると震災当日の各県の郡別の百世帯に対する被害世帯の割合がわかるが、千葉県の場合当町域を含む山武郡及県北部は、被害は百中七未満であるから至って軽微ともいえるが、それでも『東金高校の歴史』大正編にみられるような状態であったことは、全体としていかに大きな地震であったかが想像されよう。

図12 震災当日の100世帯に対する被害世帯の割合 (内務省社会局)
 
 引用した記録の中に出てくる余震のことでも、『毎日年鑑』大正十三年版の「関東大震災全記」をみると、中央気象台九月二十七日(大正十二年)発表として、次のような驚くべき余震の回数をあげている。
 
 一日正午から二日正午迄八五六回
 二日 〃三日 〃二八九回
 三日 〃四日 〃一七三回
 四日 〃五日 〃一四三回
 五日 〃六日 〃 六三回
 六日 〃七日 〃 四五回
 七日 〃八日 〃 四三回
 八日 〃 九日 〃 三六回
   (下略)

 このような猛烈な余震が十回以下におさまるのは、九月十五日をすぎてからのことであった。

写真 関東大震災における館山の被害
(地震展パンフレット)
 

写真 当町に保存された震災当時の新聞
(行川正和家所蔵)
 
 かつて、元禄十六年十一月の大地震のときは、九十九里浜一帯は大津波におそわれ、多くの人命を失ったが、関東大震災の時は幸い、当地は津波に襲われなかった。また県内を郡別にみると、安房の被害が最も甚大で、次いで君津、市原となるが、それでも東京、神奈川と比較すれば軽いほうであった。千葉県における被害世帯数は表51にみられるとおりである。
 
表51 千葉県の被害世帯数
都市別震災当時ノ
世帯数
被    害    世    帯    数現在世帯
百ニ付被
害世帯数
全焼半焼全 潰半 潰流失以上計破 損合 計
総 数二六二、六〇〇四七八一二、八九四六、二〇四八四一九、六六〇七、六九六二七、三五六六・五
千葉市七、五〇〇二〇二六二二四八〇・六
千葉郡一三、一〇〇五九二七八六九〇〇・七
市原郡一三、四〇〇五八二七二五一、三〇七九四五二、二五二一六・八
印旛郡二五、四〇〇一二〇・一
東葛飾郡三四、八〇〇七九五一一三〇三七一六七〇・五
長生郡一六、七〇〇五八一一三一七一九五二六六一・六
山武郡二三、五〇〇一三一八三一一〇四一〇・二
海上郡一六、七〇〇一二一二〇・一
匝瑳郡八、一〇〇〇・〇
香取郡二五、六〇〇一七二〇二四〇・一
君津郡二五、八〇〇一、八五三二、一二九三、九八二三、四五〇七、四三二二八・八
夷隅郡一八、四〇〇一四八三九七九〇一八七一・〇
安房郡三三、六〇〇四七八一〇、二一二三、〇二六八四一三、八〇〇三、〇二三一六、八二三一九・七
内務省刊『震災調査報告』

 またこの地震で県内各地の人びとがどのような被害にあったか、くわしくまとめたものが表52・53・54である。
 
表52 罹災種類別世帯及人口


罹災ノ
種類


死  者行 衛 不 明 負 傷 者
死 亡行衛不明重 症軽 傷以上計
總数總数總数總数總数




全焼4786221411147182950193116058102
半焼
全潰12,8941,08141466712487683284408313754562,6921,1211,571
半潰6,204712942431663135944153235104131
流失841111211422
以上計19,6601,215465750177108823775059774365413,0911,2851,806
破損7,6964819294929208039411778790
無破損8001105654301812533518543420247143104
合計28,1561,3735408334725229844415431,1115096023,5151,5152,000




全焼
半焼
全潰6
半潰20
流失
以上計26321321642
破損222114312116241477
無破損332114312116241477
合計8121143153294520119




全焼
半焼
全潰5931211422
半潰27
流失
以上計8631211422
破損4
無破損47211422633
合計1373123214221055




全焼
半焼
全潰58222111130921231013753045
半潰725226425141358
流失
以上計1,307241113361323281117883553
破損94542222624
無破損1743111541
合計2,269321616381325291217994158



罹災ノ
種類
無事者總 計失業者
總数總数總数




全焼2,1151,0581,0572,2751,1161,159392712
半焼
全潰62,08330,58131,55264,77531,65233,123349211138
半潰31,97315,51716,45632,20815,62116,587853847
流失44921823145322023311
以上計96,62047,32449,29699,71148,60951,102474277197
破損40,94419,64121,30341,12119,72821,393502921
無破損3,5502,3591,9913,7972,5021,295452124
合計141,11469,32471,790144,02970,83973,790569327242




全焼
半焼
全潰261792617911
半潰1055055105505522
流失
以上計1316764312
破損13972671457669211
無破損1991198021312687422
合計469250211489269220945




全焼
半焼
全潰18412559188127611414
半潰14876721487672
流失
以上計3322011313362031331414
破損291712291712
無破損2471717625317479642
合計60838921961839422420182




全焼
半焼
全潰3,0101,4841,5263,0851,5141,571514
半潰4,0251,9822,0434,0381,9872,051
流失
以上計7,0353,4663,5697,1233,5018,622514
破損5,4322,6312,8015,4382,6332,80511
無破損80582285622311
合計12,5476,1556,39212,6466,1966,450716

表53 罹災種類別世帯及人口


罹災ノ
種類


死 者 行 衛 不 明 負 傷 者無事者總 計失業者
死 亡行衛不明重 症軽 傷以上計












全焼
半焼
全潰
半潰81111361719371819
流失
以上計81111361719371819
破損41111251782618811
無破損32114411661981504820415648211
合計44334411882591847526719275312



全焼
半焼
全潰7941322112291841420820642320921418117
半潰512111131233214019233514119420416
流失
以上計13062433112212210746348398758350408381523
破損37112112921421502941431511156
無破損25448301884485311837547289726163581,04966338618108
合計4215532231147106413858950392,0121,1069062,1011,156945673037




全焼
半焼
全潰581121111422222102120226106122211
半潰11352426226252426226211
流失
以上計1711121111422746364382750366384321
破損952111503252251504253251
無破損1531231211967431136845
合計281211312211118441,3596836761,367687680321




全焼
半焼
全潰13222255312457332422
半潰181056342105634222
流失
以上計3122221609466162966644
破損10444422418462422
無破損301131222224853133953814110041413
合計7111312228441477335213122349220129817




全焼
半焼
全潰
半潰
流失
以上計
破損1278423678423666
無破損652112112752007527720176514
合計7721121135324211135524311211110




全焼
半焼
全潰110371037
半潰1862862
流失
以上計218991899
破損2222
無破損1111114031941329
合計131111604020614120

表54 罹災種類別世帯及人口


罹災ノ
種類


死  者死 者 行 衛 不 明 負 傷 者
死 亡行衛不明重 症軽 傷以上計
總数總数總数總数總数




全焼
半焼
全潰17
半潰3
流失
以上計20
破損4111122
無破損43222244
合計673212211642




全焼
半焼
全潰1,8537530451162263683245922180141
半潰2,1298353314410241014492029
流失
以上計26321321642
破損3,450844117424159432617
無破損86114741315105633361818
合計7,518102416184410247551375285349144205




全焼
半焼
全潰14
半潰831111
流失
以上計971111
破損90111122
無破損4552322211954
合計23252322114221266




全焼4786221411147182950193116058102
半焼
全潰10,2129763716059456722913817203383822,3771,0041,373
半潰3,0265824344623236429351687692
流失841111211422
以上計13,8001,09741768010467663324348363874492,7091,1401,569
破損3,0233211213119124722251105258
無破損1223412222315821147784137
合計16,9451,16344072310468203664549044234812,8971,2331,664



罹災ノ
種類
無事者總 計失業者
總数總数總数




半焼
全潰834241834241743
半潰10641064
流失
以上計934845934845743
破損312011332013
無破損184133511881375111
合計308201107314205109844




全焼
半焼
全潰9,6084,6684,9409,8294,7485,081401723
半潰11,4465,5695,87711,4955,5895,90620911
流失
以上計21,05410,23710,81721,32410,33710,987602634
破損18,8179,0759,74218,8609,1019,759972
無破損32121210935723012711
合計40,19219,52420,66840,54119,66820,873703337




全焼
半焼
全潰49183149183111
半潰46422523946522623911
流失
以上計513243270514244270211
破損50824726151024726322
無破損1991396020814464
合計1,2226295911,232635597431




全焼2,1151,0581,0572,2751,1161,159392712
半焼
全潰48,42223,83324,58950,79924,83725,96225916297
半潰14,7707,1217,64914,9387,1977,741392316
流失44921823145322023311
以上計65,75632,23033,52668,46533,37035,095338213125
破損15,0467,1027,94415,1567,1548,00218144
無破損590363222668409259321
合計81,39239,70041,69284,28940,93343,356359229130

 また昭和八年、当時の千葉県は『大正大震災の回顧と其の復興』と題する上・下二巻の本を刊行した。
 この中に関東大震災時における当町域の様子が記されているので、次に引用する。
 
『大正大震災の回顧と其の復興』 下巻
   瑞穂村
 一、避難民の救護
  大正十二年九月二日より本村県道(東金茂原間の永田地先)に避難民救護所を置き、食物及負傷者に対しては医療等を行ふ、医療に関しては看護卒之に当り、他は分会員交々出張事務を行ふ、二日より七日迄引続き之を実施せり。
 二、自警団の設置
  二日より各班毎に自警団を設置し、盗難及流言の予防其の他に備ふ。
 三、東京方面罹災地へ出動
  九月十日午後四時佐倉聯隊区司令部より「分会救護班十一日午後四時迄に亀戸配給所に集合、配給所長命令下に入れ」と命令あり。依て分会は非常招集により十日午後六時小学校総会を開催、前に定めたる救護班により十一日午前八時大網駅を出発、午後一時亀戸着、亀戸配給所長の命令下に入り、同日午後七時命に依り隅田川配給部指揮下に入り、荷物、糧食等の運搬に従事し、其成績、最も良好なるを以て隅田川配給所指揮官より感謝状を戴き、同月十五日午後三時無事帰省せり。当時救護出動人員分会長今井安之丞外二十九名。
   大網町  (大網町役場報)
 一、建物に関する被害
  巡査部長派出所のレンガ塀三尺程崩壊せるも、急速修理を要せざりしを以て、其のままと為せり、其の他被害なし、
 二、町吏員の活動
 物資の調達及避難民救助の為急遽各区長及青年団、在郷軍人分会、消防組等を召集して応急策を協議し、衣類その他慰問品を募集し、之を災害地へ送るの手段を講じ、尚避難民救助の為、隣村山辺村と協同し大網駅に救護所を設置したり、而して救護事務は特に分担を定めず、各団体交替にて之れに当れり、尚直接災害を蒙らざりしを以て困難を感ぜず。
 三、県郡又は他町村の為に調達したる物資
  県内罹災者の為に町内有志より衣類百二十余点の寄贈を受け、之を県へ一任して罹災地君津、安房郡方面へ輸送せり。この調達には各区長をして之れに当らしめたり。尚当町仏教婦人会は木綿単衣三十枚を新調して罹災地へ寄贈せり、この総経費約三十五円也。
 四、罹災救助法規に依る給与調
  応急食料品費として四十円支出、人員約二百五十名数量及配分状況等不詳。
 五、避難民救助
  イ 収容所及収容人員、開設閉鎖収容中の処置、
   避難民は総て東京方面より帰郷せるもののみなれば、之を救助する為、大網駅前に救護所を設置し、飢餓に悩む避難民に対し握飯及鶏卵、湯茶等を給与したり。
   収容所は隣村山辺村と協同にて、九月二日大網駅前に設置し、同月六日之を閉鎖したり。救護人員約二百五十名、全部一時限りの救護にして、特に収容したるものなし、
  ロ 町立替金額、県より繰入額寄附金により支払いたる金額集計
   経費は山辺村と等分して負担し、本町の支出金額は四十円にして、罹災救助費より支出せり。県より繰入金及寄付金なし。
 六、負傷者の救療伝染病の予防其の他
   救護所には、本町内の医師三名交代にて詰切り、負傷者の救療及伝染病の予防等に備へたるも該当者なし。
 七、受けたる寄贈金品の使途
  受けたる寄贈品は総て衣類にして、之を県に送付し県より適宜配布せられたり、
 八、自警団の設置
  消防組、在郷軍人分会、一般町民等昼夜交替にて之に当たる、延人員約二千五百人、
 九、各団体の活動
  イ 自町内に於けるもの
   青年団及消防組は毎日交代にて停車場前救護所に詰切り、東京方面より帰来せる避難民救助に当れり、
  ロ 県の徴収に応じ、又は任意被害町村に出動して救護に従事せるもの、
   青年団員約十名は県の徴集に応じ、安房郡方面へ出動して救護に従事せり、在郷軍人分会員五十名は佐倉支部の通牒に依り、東京方面の警護の為出動せり、
   大網消防組は任意東京方面へ出動し、救護に従事せり、
 十、学校の活動
  小学校の職員生徒は青年団の補助として救護事業に従事せり。
 十一、国民精神の作興
  国民精神の作興に関して従来組織せる大網修養会を更に緊張せしむ可く、大正十二年九月二十五日総会を開き、此の空前の国難に際し、国民の覚醒と覚悟とに関し講演会を開催し、且つ之に処す可き実行事項を決議せり、
  「大網青年団報の記述」
 活動状況
  当時東京方面より続々避難し来る罹災者を救護す可く当地停車場に於て、在郷軍人、消防組員と合同協力一致し弁当、湯茶の焚出し、負傷者の医療看護に努めたり、在郷軍人、消防組員と協力し団員一致し、昼夜を問わず自警の任に当る。
  当地青年団は県連合青年団の招集に応じ、房州方面に加藤正、斎藤甚太郎の二名を代表出動せしむ。斎藤甚太郎は青年団員に非ざるも、房州の地に居る近親を見舞ふ可く、其の手段方法を考慮中の矢先、偶々青年団の罹災民救護に出動するを聞き、自費を以て団員と活動を共にするを誓ひ、参加救護に努めたり、
  出動期日九月五日
  救護日数五日の予定を以て早朝大網を出発し勝浦迄に第一日を要す、第二日目には勝浦より鴨川迄南進す、第三日目の午前中は海岸に出動し、外来米を汽船より降す作業に任ず、
  午後は交通整理を郡下四班に分ちて之に当る。第四日目は鴨川町役場の依頼に応じ食糧の運搬をなす。
   山辺村    (山辺村役場報)
 一、村吏員活動
  大網駅は本村地籍内に有るを以て、吏員は同駅に出張し東京方面よりの避難者の救助に従事せり、救護事務に当れる者、助役、書記各一名なり、
 二、県郡又は町村の為に調達したる物資
  東京方面の罹災民の為に各戸一枚ずつ衣類を拠出し、山武郡役所に委託送付したり、数量約三百枚、
 三、罹災救助法規に依る焚出食品、小屋掛材料、被服費給与調
  イ 人員
   一、実人員五七二人(延人員五七八人)
  ロ 各品目の数量、不明
  ハ 換算金額 四十七円
 四、避難民救助
  イ 収容所及収容人員
   大網駅構内に小屋掛を為し、線路を徒歩し又は列車より降りたる罹災民を収容せり、
  ロ 村より支出したる金額 四百五十円
 五、村より受けたる寄附金並ニ県の募集に応じ、又は任意被害町村に送付したる金品、
  一、金二百五十円 県下罹災民救助金
  一、金百円  山辺村在郷軍人東京方面救護出張費
  一、金二十円  山辺村青年団安房郡方面救護出張費
  一、金三十円  山辺村青年団大網駅救護所出張費
  一、金五十円  同右大網駅救護所費
 六、自警団の設置
  村有志を以て自警団を組織し、村の警戒に従事せり、
 七、在郷軍人、青年団、主婦会、処女会、消防隊其の他各種団体の救護に関する活動
  イ、自村内に於けるもの
   焚出其の他救助に従事したるもの、在郷軍人、延十七人、青年団延五十九人、役場吏員及村有志三十四なり、
  ロ、県の徴収に応じ、又は任意被害町村に出動救護に従事したるもの
   救護の為東京市内に出向たる在郷軍人二十三、有志七なり、
   救護の為安房郡方面に出向きたるもの青年団二なり、
  「山辺村青年団報」
  一、活動状況
   本団は村当局と協力し、九月三日より同九日に至る一週間、避難民救助の為大網駅前に救護所を設置し、本団十支部を五班に分ち各班交代にて午前六時より午後十二時に至る間、発着列車毎に避難者の救護救援に努めたり。尚列車発着に際しては、救護所に於て青年の手に依り調理せられたる塩付握飯、鶏卵、飲料水等を避難者に夫々配給せしめたり。
   救護事務長山辺村長、救護班指揮者清水一郎他七名、
  二、寄附金品の受入配給状況及数量
   十一月一日其の筋よりの通牒により本団員中より震災義捐金弐拾円を募集し、村役場の手を経て県下災害地に贈付したり。
  三、自警団の設置及各団体の活動
   本村青年団は九月三日より十日に至る八日間、各支部に於て各自部落を午後七時より十二時迄夜警に努めたり、
   山武郡連合青年団の召集せる救護隊に本団々員二名参加せしめたり、
   九月五日―十二日に至る(一週間)災害地安房郡北条町に出動し救護救援に努めたり。
  四、救護に従事したる主なる者
   清水団長外六名
   尚本団は大正十三年二月十一日斎藤本県知事より感謝状を受く。
   増穂村
  一、建物に関する被害
   住家の圧潰、倒潰せるものなし、非住家(門)倒潰一あり。
   神社、小学校、寺院被害なし、
  二、村吏員の活動
   村内に於ける被害なかりしを以て、救護事務に付き分担を為さず、又村内の為物資の調達避難民救助事項等なし。
  三、県郡又は他町村の為調達したる物資
   当時郡長より通牒のものは調達送付せり。尚東京其の他の罹災者へ送付す可く、村内有志より調達したる玄米二十俵は、現品を送付することを得ざるにより相当金額を送付す。其の他古衣類、数百点を送付せり。
  四、避難民救助
   管内に於ける避難民なく、京浜地方よりの避難者は皆親戚に寄食し居りたるにより、村内に収容所の設置を為さざりしものなり。
  「増穂村在郷軍人分会報」
  一、罹災民救助の為調達配給せる物資
   会員より若干宛據出し、分会の名を以て金五十円五十三銭を、帝国在郷軍人会へ救護事業費として送る。
  二、県、其の他の召集に応じ、又は任意災害地に出動救護せるもの
   佐倉支部の命を受け分会長中村金吾外四十五名、救護の為九月十一日より十四日迄、四日間罹災地東京に出動救護せり。
    福岡村
  一、住民に関する被害
   震災当時の推定人口三、三〇〇人被害なし、
   発震当時住民の起居状態
    家居二、三一〇人、野外九九〇人
  二、建物に関する被害
   震災時の世帯数 六二〇戸
   住家、非住家共に顕著なる事項なし。
   小学校建物の被害程度 小破、応急措置なし、損害見積五〇〇円
  「福岡村青年団報」
  一、自警団の設置
  大正十二年九月四日数十名の暴漢白里村に侵入し直ちに小学校、役場、寺院を襲わんとするの急報に接し、直ちに村当局と協議し、本部役員、各支部長、各支部の部落選出防備員各一名の非常召集を行い、決議の結果左の如し、
   1 向後必要なきを認むる迄、夜間各部落二名の防備員を出して小学校、役場の防備に当ること、他は各部落防備のこと。
   2 昼間は各部(部落カ)一名を選出して、右警備に当ること、
   3 此の費用全部役場にて負担、
  右決議をなして解散、同夜集合せる者、二十七名、一隊九名宛、三隊となし、正門、裏門(小学校)及役場前を警戒す。
   第一組 飯高清明外八名
   第二組 鈴木慶之助外八名
   第三組 大野利郎外八名
  翌早朝東金警察署に至りて状況の聴取を試みしに事は意外、右の噂は全然無根にして不逞漢等県下に入込みし形跡なしとの報に接したるを以て、午前五時警戒を解く。尚当日は役場より本団に対し懐中電燈三個、電池二個、白米三斗、醬油二合の交付あり、而して右の内七升にて焚出しを為し、残りを避難民救済用に残し置く、
     (中略)
  「福岡村女子青年団報」
  一、活動状況
   青年団在郷軍人と協力して食料の募集、運送、避難者の救護に努力し、尚慰問袋を製作した。
  二、罹災民救助の為調達せる物資
 村内篤志家有力者より米穀及衣類を集め、罹災地に供給した。其の他日用品等発送したが、数量は明瞭でない。
    (以下略)
   白里村
  一、村吏員の活動
   前古未曽有の震災に遭遇し、一般住民は恐怖の念に駆られ、虚報、流言盛に伝わり人心不安の中にも、吏員は極めて沈着熱心に事務に当れり、就中関東戒厳司令部並ニ監督官庁よりの訓示或は諭告其の他注意書等頻りに到着するに方り、之を直に一般村民へ示達と共に、警告書の頒布方及京浜方面へ多数往復する者に対し証明書の交付等、吏員は挙って精励克苦其の任に当れり、殊に東京、横浜及本県安房郡其の他に於ける罹災者救護に関しては、先ず衣類の供給を必要なりとし、之が募集に際しては、専ら村民並に各団体を督励したり。其の結果各戸に付衣類一枚乃至二枚宛の寄贈ありしに依り、之を十四梱と為し郡衙へ発送の手続を了す。此点数八七九点、外に青年団の寄贈百余点、更に罹災者救済資金として義捐金を募集し此の金額四百八十一円六拾銭を本県内罹災者に対する災害義捐金として、郡衙へ発送したり。其の他救護米四十八俵の出荷を為す等、加ふるに災(震災カ)直後の複雑多端なる事務に対し、些の遅滞も無く処理したる吏員の努力は推して知るべきである。
  二、避難民救助及警備
   東京方面等より本村へ避難し来る者は主として親族、若くは知己を頼りて寄遇せる者にして、是等を収容したるに止まる、其人員は約一五〇名と註せられる。当時本村は各行政区毎に自発的に団結し警備を為す、殊に夜間は各区毎に連絡を保ち警戒を厳にしたり。
  三、震災関係雑録
   白里在郷軍人の多数は一団と成り、各自食料品を携帯し、東京方面へ救護を目的として出動し、陸軍省並に帝国在郷軍人会本部を訪問し、指示を仰ぎ状況鎮静に帰したるに依り引き揚げたり。
  四、本村被害状況
   屋根の被害 半潰 二、
   1 罹災地の救護
    九月四日、山武郡長越川健より文書を以て、各町村より二名宛派遣方交渉ありたるに付、即日松本幹事、南今泉支部長北奥栄、四天木支部長古内静、伊藤団長四名を以て午後十一時半迄、人選に東奔西走せるに、種々の支障の為に一名の申込も得られず、団長自ら代表的に率先救護班に参加し、房州方面に出張活動せり。
   A 当時の団長は伊藤菊司なり。
   B 出張日数は五日より九日迄にて活動状況記録なし。
      (以下略)
   大和村
  一、建物に関する被害
   建物に関する被害(住家・非住家)表55のとおり
表55 大和村の震災被害状況
住家の被害非住家の被害其他の
被害
全潰半潰破損全潰半潰破損門・
倉庫の
破損
十二十二四十四

   神社、寺院の被害状況
   神社周囲の垣根、板塀、鳥居等、寺院、鐘楼、堂半潰、本堂全潰等、其の他被害なし、
  二、村吏員の活動
   イ 物資の調達
    寄附金、米等の募集をなせり、
   ロ 物資配給の状況
    全潰、半潰其の他被害程度に応じて配給したり、時恰も雄蛇池問題に関し当時村長梅津嘉平治該地に出張取調中、悽然たる震動頻発取り敢へず役場に駈付、安否を問ひ、直に使丁を急派し、各区長及村吏員を召集し、応急措置に関し緊要なる注意を与へ区民の家庭を往訪せしめ、慰安及被害の状況調査並ニ火災を未然に防止せしめ、尚自ら各区を視察し村吏員を督励する等寝食を打忘れ保護の任に当られたり。
  三、管内罹災民救助の為調達配給せる物資
   村吏員協議の結果役場に事務所を設置し、各区に委員を選定し寄附金を募集せしめたり。各区委員を通じて募集したる物資等の其の被害程度及貧富の程度に応じて配給したり。
  四、県郡又は他町村の為に調達したる物資
   村吏員協議の結果、各区に割当て貧富の程度に応じて寄附を仰ぎ、各区の委員之を集計したり。集計したる物資等は鉄道便を以て県庁に送付し配給の方法は県に一任せり。
  五、恩賜金、寄附金、寄贈品の使達配布状況、
   一、恩賜金四十八円 被害者九名に配分、
   一、県下震災義捐金、寄附金、三一二円十銭、
   一、衣類一六六点
   一、救護米出荷、玄米二百俵価格三、一三一円二十銭、
    鉄道便に依り県へ送付、配布は県に一任したり。受けたる寄附金及寄贈品等は被害者に配給したり。
   一、大阪朝日新聞社同毎日新聞社連合寄贈金、四十一円十三銭、被害者九名に配分、
   一、県下震災復興会より寄附金四十六円三十五銭、被害者九名に配分、
  六、自警団の設置
   各区の青年団及消防組を以て各区に設置、各区の人員一定ならざるも平均青年団二十二名、消防組員四十五名計六十七名、協力一致し、以て昼夜其火災盗難其の他に就て警戒したり。
 「大和村在郷軍人分会報」
  大正十二年九月関東地方大震災に当り、大和村(在郷)軍人分会は佐倉聯隊区司令部の命令を受け、分会員四十名は分会長の引率にて急據出動し、震災地なる東京府下亀戸駅に下車す。時既に午後四時なり、直ちに亀戸小学校の空地に集合し山武郡聯合分会長の命令を待ち、午後八時に至り漸く命令を受け、当夜は亀戸天神裏手某料理店空屋階上に於て一夜を徹し、翌十二日正午頃より罹災者の救護に移る。即ち大和村分会、大網町分会、片貝村分会は、共に片貝村分会長当時山口少尉の指揮を受くることとなり、本村分会は主として亀戸五之橋地点を中央として、東西に各々四箇班、距離五百メートル位に配置し、十二日夜より十五日朝に至る迄四日間、此の附近一帯の罹災者救助の為、夜警及交通整理の任に服し、殆ど一致協力、折柄の炎熱にも屈せず、平素訓練体得せる信条を実現せり、同年九月二十八日に至り大和村分会員一〇三名は義捐金として二十四円三十銭を以て佐倉支部へ送金し、同年十月十一日に至りては東京災害地出動の為、実費補助として村より金一二〇円補助せられたるに付、出動人員四十名、即刻一人に対し三円宛分配を為せり、
 
 関東大震災の被害は当町域においては、以上引用した資料でみると、大和村の被害が最も多く、そのデータもしっかりしている。
 しかし、全体でみる限り、大きな被害や死者もなくむしろ他の罹災地へ救助のため出動したり、避難者の救護に尽力している様子がみられる。けれどもこうした土地へも流言は入りこみ暴徒が襲撃してくるとのことで、自警団を組織したりしている様子にその緊張ぶりがうかがわれる。災難は忘れたころにやってくるということは、先人がわれわれに遺したおしえである。われわれもこの教訓を忘れず、いつくるかわからない災害にそなえる心がけが必要であろう。
 当町域には、旧大網町の議事関係文書綴がのこされているが、大正十三年、十四年にかけこの大震災に関して、町の予算上の変更などは記されていないところをみると、地震のゆれこそひどかったけれども、幸い甚大な被害を受けるほどには至らなかったということが、前掲の『大正震災の回顧と其の復興』でもあきらかである。
 しかし、この関東大震災は当時の世相に大きな影響を与えた。そもそもこの関東大震災こそは、大正デモクラシーなどと浮かれている当時の社会に対して、天が与えた誡(いまし)めであるということを唱える人びとが出てきたことである。これを「天譴論(てんけんろん)」ともいうが、第一次世界大戦の好況のおかげで、たるみきっているので、このあたりでひきしめる必要があるということである。一例を大正十三年八月二十五日に召集された県下各郡長に対する元田敏夫県知事の訓示の中に、次のようにあらわれている。「(前略)然ルニ現下国民ノ風潮ハ、戦時好況ノ反響トシテ、民心ノ弛緩奢侈ノ陋習ヲ招致シ、財界不況ノ今日ト雖、尚容易ニ改ムルコト能ハス、今ニシテ此難境ヲ自覚シ、上下一致協力シテ之カ打開ニ努ムルニ非サレバ、国家ノ前途深憂ニ堪ヘサルモノアリ、斯ノ如キ難局ヲ展開シ、進テ国運ノ進暢ヲ図ラムニハ、須ラク各般施設ノ基調タルベキ消費ニ対シ、一大節制ヲ断行スルノ緊切ナルヲ認メ、政府ハ行政財政ノ整理緊粛ヲ一大政綱トナシ、中央地方相呼応シテ以テ財政ノ整理ヲ行ヒ、之カ基礎ヲ鞏固ニスルト共ニ消費節約能率増進ノ範ヲ示シ併セテ経済ニ対スル財政ノ圧迫ヲ除去セムコトヲ期セリ(以下略)」(郡役所引継文書・県庁蔵)。
 この主旨は節約を主軸として行政改革を推進していこうという見解であるが、こうした考え方は従前からあったのであるが、なかなか打ち出せなかった。特に政党政治の下では困難であった。しかし関東大震災はこれに絶好の機会を与えたものであると共に、そうしなければ震災後の復興も思うように進展しなかったであろう。
 震災後の復興は意外に順調にすすんだが、財政の方はあまり好転しなかった。政党も自派の利益にこだわり、問題が続出し、やがて昭和へと時代が移っていった。