八 郡制廃止

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 郡は千葉県においては、県内に十二郡(大正時代)あり、それぞれ各地域の産業振興上の指示を与えたり、教育行政面での指導を行ったりして、郡役所の所在地は県下各地の地方中心都市的役割を果していた。
 しかし、このような郡の機能を評価しながらも、県の下に郡があるという機構は不必要であるという声が明治末年からあがっていた。この郡制は明治時代当時のプロシア(ドイツ)の地方行政制度を導入したもので、山県有朋がこの推進役であった。したがって山県有朋の政治的権力が強い時代には、こうした意見は表面には出なかったが、政党政治により山県有朋の支配力が低下するとともに郡制廃止の意見も表面にあらわれてきた。当時の郡制というのを組織図的にみると、図13のようになる

図13 郡の機構と組織
 
 県庁と郡役所との行政面での関連は、知事が地方長官会議などで中央政府から与えられた指示を、郡長会議で各郡長に伝え、これが更に郡長から管下町村へ伝えられていくようになっていた。なお県庁各課が行政上必要として調査したことは、「極秘」のものは印を付し、郡長には伝えられている。このことは、現在県庁に残されている「郡役所引継文書」をみるとよくわかる。
 たとえば、この中には、県下に発生した「小作争議」の資料、伝染病発生に関するデータ犯罪等いろいろなものが含まれている。明治末期から大正にかけて、県の行政機構の中で行なわれていたことが、次第に郡長に委任されていく傾向があり、郡役所の存在はある意味では大変重要であった。郡役所は官選郡長を中心にして地域行政に大きな力を発揮し、これは国政・県政・地域行政(町村行政)という一本のたてのつながりからみると、末端での監督機関という見方もできる。
 この表56をみると、郡長のしごとの中に管下町村(全部ではないが)を巡視しているし、この際行政面での監督と指導を行っているのである。
表56 郡長管内町村巡視日数
 種別
郡名
大正元年大正3年
町村数日 数町村数日 数
千 葉2236
市 原214234
東葛飾991417
印 旛551313
長 生26302629
山 武20212228
香 取14142526
海 上18341527
匝 瑳14231427
君 津24274045
夷 隅2331811
安 房18194245
194276225278
(『千葉県会議史』第3巻)

 この郡役所の経費は、先に明治の項で述べたように、郡の管轄下にある町村が分担して拠出していた。郡役所自体は相応の収入源を保持していなかったためである。したがって大都市の近郊町村などからは国政事務を七割以上委任されていながら、その費用を町村民が分担するということはおかしい、という声や、その上に監督とか指揮という権威主義的なものへの反発があり、やがて全国町村長代表の郡役所廃止への決議がおこるのである。また大正七年(一九一八)九月に成立した原敬内閣は郡制廃止を正式に決定した。
 原内閣の郡制廃止の理由は次の三点に要約される。
 第一は、プロシアの制度を導入したが、プロシアの県は州の規模に近く、日本の府や県の二倍以上の大きさをもっているのに、町村は当時の日本の一町、村の十分の一ぐらいの規模である。ちょうど明治二十二年頃の合併前の地方の町や村の程度と同じであった。したがって、その中間団体としての郡の存在意義があるのであるが、日本ではあまり必要性がなくなっていた。
 第二は郡費を負担しているのは管内の町村である。もしこれがなくなればそれだけ財政にゆとりが生じるという当然のことでもある。
 第三は郡制施行以来、郡の自治活動にみるべきものがない。
 特に郡制廃止の主たる理由は第三の理由で、個人的にあるいは部分的にみればすぐれた活動をしていた面もあったのであるが、全体としてみると、このような評価がなされたのである。
 大正十年(一九二一)四月十一日政府は、法律第六十三号を以て郡制廃止を公布し、後に大正十二年三月十四日勅令第四十四号を以て郡制廃止の期日を同年四月一日と定めた。
 しかし郡役所は依然として従来の事務処理のために存続していたが、大正十五年七月一日改正地方制度の実施と共に廃止された。
 山武郡の場合、郡の経営による学校であった山武郡立山武農学校は県に移管され、山武郡立山武実科高等女学校は学校組合を組織し、組合立として存続するようにとりはからわれた。
 郡役所廃止の日、元田敏夫千葉県知事は町村長に対し、訓令七十六号を以て次のように通達を発した(『千葉県教育史』巻五)。
 
   本日ヲ以て郡役所廃止並ニ改正制度ノ実施ヲ見、之ニ伴ヒテ県令、県訓令其ノ他重要規定ノ改正ヲ行ヒ、玆ニ全ク地方行政上一時代ヲ劃セリ、
   惟フニ這次ノ革新ハ固ヨリ、地方自治思想ノ発達ト共ニ、其ノ訓練ノ実績トニ鑑ミ、益々自治内容ヲ拡充シテ所謂公民自治ノ完成ヲ期シ、以テ地方福祉ノ増進国運興隆ノ基根ヲ、鞏固ナラシメムトスルニ外ナラス、
   顧レバ本邦自治制布カレテ将ニ四十年ニ垂ントシ、其ノ間郡役所ハ指導監督上ノ重要機関トシテ、直接ニ之カ輔導誘掖ノ任ニ当リ民衆亦克ク自治ノ思想ノ向上ヲ致シ、自治経営漸次見ルヘキモノアリト雖モ、之ヲ本県ノ実状ニ徴セムカ、尚未タ其ノ真髄ヲ発揚セルモノ尠ナク、事務ノ整善事業ノ施設等、幾多努力ヲ払フヘキモノアリ、加フルニ時勢ノ推移ハ、地方各般ノ事務ヲシテ倍々複雑多岐ナラシメ、今後一層執務上ノ労苦ヲ増大セシムルモノアルヘシ、地方自治ノ任ニ当ル者、須ラク制度革新ノ趣旨ヲ体シ、日進ノ状勢ニ鑑ミ、部下吏僚ヲ督シテ法令例規ノ研鑽ヲ重ネ、事務ヲ簡捷ニシテ能率ノ増進ヲ図リ、克ク自主独立ノ良習ヲ助長シテ、積極進取ノ風ヲ作興シ、事ニ当ルニ公正ト懇切トヲ以テシ、住民ヲシテ真ニ自治ノ精神ヲ領得セシムルニ努ムルヲ要ス、
   念フニ郡役所廃止後ニ於ケル自治ノ成果ノ完否ハ、一ニ町村当局並ニ其ノ住民今後ノ用意ト努力トノ如何ニ存スルコト、論ヲ俟タサルノミナラス、自治権ノ拡張ハ即チ地方住民ノ負荷ヲシテ益々重カラシムルモノアルヘシ、局ニ当ル者ハ能ク新制ノ趣旨徹底ヲ図リ、部民相率テ自治有終ノ美ヲ済スニ努メラルヘシ、
 
 この元田千葉県知事の訓令は、郡制廃止に伴い町村の役割が重要になったこと、地域住民一体となって地方自治の精神を理解し、努力することの必要性を説いている。
 明治十一年(一八七八)七月太政官布告第十七号により郡区町村編成法が発布されて以来、約半世紀にわたって続いた郡役所はその任務がおわったといってよいであろう。施行当初は、地方分権主義の一大進歩といわれたこの制度も、時代の推移のなかで姿を消していった。

写真 郡制廃止の山武郡役所記念写真
(宮内三朗『千葉市に輝く人々』)