こうした経済の状況は、農村にも大打撃を与え、農村窮乏の原因ともなった。そこで政府は昭和五年初頭から「金解禁」や「産業合理化」などの政策をうち出したがあまり効果はなく、恐慌にともなう国民所得の低下で国の租税収入は減少し、その反面、恐慌救済策として産業経済費、失業対策費がふくれあがり、国の財政を圧迫していった。
昭和五年は全国的に農作の年であったが、農家にとってこの豊作はたいした意味をなさず、「豊作飢饉」ということばで表現された。しかも翌年は東北、北海道は凶作に見舞われた。
昭和五年の『国勢調査速報』失業編(内閣統計局刊行)をみると、結果の概要として、次のように記されている。
本年の国勢調査に依る全国失業者の概数は、三二二、五二七なり。之を府県別に見れば東京の六二、九五七最も多く、大阪の三六、八〇九之に亜ぎ、神奈川、兵庫、福岡、愛知の一万以上更に之に亜ぐ。其の他五千以上は、北海道、広島、京都、静岡、和歌山、三重、長野、愛媛、新潟、福島の十府県(中略)、一千以上は千葉、佐賀、富山、山梨、島取、島根、滋賀、福井の八県にして、沖縄の八五四を最少とす。
市部の失業者をみるに最も多きは大阪の三〇、一九〇にして、東京の二二、八七八之に亜ぎ、横浜の一二、六八三、神戸の九、九五八、名古屋の八、四五八、京都の四、二〇一更に之に亜ぐ。(中略)大正十四年の失業者総数一〇五、六一二に比較すれば、四九、九六三、即ち四割七分三厘を増加したり。(下略)
これをみると失業者数は大正末期より次第に増加していることがわかるとともに、恐慌の影響は大都市に住む人々に打撃を与えているといってもよいであろう。
表57は『国勢調査速報』中より千葉県、山武郡、当町域町村の失業者数を抽出したものである。千葉市は県内で失業者がもっとも多く二〇一名で、当町域は総てが五名以下である。しかし注意すべきことは、失業者数はあくまでも昭和恐慌の一面をみるデータであって、その数が少ないから生活が楽であったということにはならないということである。
市町村名 | 失業者数 | 備 考 |
千 葉 市 | 201名 | |
山武郡大網町 | 5 | 山武郡全体 50名 |
大和村 | 2 | |
増穂村 | 5 | |
福岡村 | 1 | 白里,瑞穂は記述なし |
千葉県全体 | 1,004 | |
第一次産業を主体としていた千葉県や当町域では、大都市とは異なった深刻な生活上の問題におおわれていた。
千葉県農会発行の機関誌『アイド』(愛土)の中に、当時のこうした社会情勢の中で農家がどのような農業経営をしていくかということが、よくあらわれている。
昭和六年三月号の『アイド』に「禍を福に」と題し、次のような一文が掲載されている。
農村の疲弊困憊を救助すべく、全国民の与論に促され、議会初まって以来昨年初めて農村救済の為め臨時議会が開かれ、種々の事項が議決せられた。議会を通じて実現された事項の中には、全般的に吾人の要望せる徹底されたものは、暁天の星より淡い感を起さずには居られない。
然し其の結果よりみて、相当の効果を与ふる事項決して少くはない。殊に現在全国津々浦々の僻地にも匡救土木事業が起され、現在の眠る間もない当局の苦心は全く想像の外である。其の中暗渠排水、耕地整理は勿論、最も多く普偏的に実行されて居るのは町村の土木事業で、何れも交通上主要の路線を選んで着々実行され、閑期の手間賃を然して、幾分なりとも農家の収入を得さす事に努めて居る。其結果道路は、実に見違える様になった。
今後三ケ年間継続されることになっているから、農村の枢要なる道路は従来の文化交通に恵まれなかったものが、初めて時を得た感がする。
時局匡救事業は、直接農家に労銀を得さしめ、同時に恒久的産業の振展に資せしめむとの二つの目的にある。前者は一時的のもので議論の余地はないが、後者の交通利便がどれ丈の効果を与ふるか、夫れは実に今後に残された永遠の問題である。之を産業上に利用し、活用して初めて土木事業の真の目的が達成せらるることと思ふ、救済的の事業を起すに至った不幸が、やがて真の農村の発展福利の増進に転化せしめたいと希望するものである。
昭和恐慌は当時の農村に大きな影響を与えた。この農村をどのようにして救済するか、ということは、国政上の一大課題でもあった。そこで国は土木事業をおこし農民に労賃を支払い、経済的な面からの救済をはかろうとした。
『アイド』のこの一文は、その救済を受ける側に立つ農民にも自覚が大切であることを訴えている。
こうしたことは、農会に限らず、県もいろいろと対策を出している。
昭和七年十月に開催された市町村長会議でも、このことが県知事より提示されている。この内容は「市町村長会議事項」というパンフレットの中に項目的に示されている。
一、経済更生施設ニ関スル件
農漁山村ノ疲弊困憊、其ノ極ニ達スルノ秋ニ際シ、之カ更生ノ策ヲ講スルハ現下必須ノ急務ナリトス、而シテ之カ目的ヲ貫徹スル為ニハ、一村一郷ヲ単位トシテ、更生ノ諸策ヲ講スルノ外、一郡一県ヲ通シテ統一セル指導精神ノ下ニ、夫々適当ナル経済的機構ヲ整ヘ、一致協力之ニ当ルノ要アルヲ見ル、之カ対策トシテハ県ハ曩(さき)ニ千葉県経済更生委員会ヲ設ケテ、「町村ニ於ケル経済更生計画要項」ヲ決定シ、更ニ其ノ徹底ヲ期スル為、今次更ニ県下ヲ三十六区ニ別ケ、各一名ノ指導員ヲ県官ヨリ任命シ、一般的実行ノ勧奨ニ当ラシムルコトト為セリ、依テ(市町村長)各位ハ是等施設ト聯絡ヲ採リ、夫々有効適切ナル計画ヲ樹立シ、之カ実施ニ努メラレンコトヲ望ム、
一、農村振興土木事業ニ関スル件
今回政府カ補助金ヲ交付シテ土木事業ヲ起興セシメントスルハ、之ニ依リ窮乏セル農漁山村ヲ振興セシメントスルニ在ルヲ以テ、左記事項ニ関シテハ、事業執行上遺憾ナキヲ期セラレンコトヲ望ム、
1. 事業ハ経済上最モ有利ニシテ労力費ノ多キモノヲ選択シ、部落間ニ於ケル事業ノ争奪、其ノ他ノ情実ニ禍サレ、不急ナル事業ヲ起興スルカ如キコトナキ様注意ノコト、
2. 工事ハ速ニ着手シ、之ヲ竣工セシムルノ要アルヲ以テ、其ノ計画ニ方リテハ容易ニ執行シ得ヘキ工法ヲ採用スルコト、
3. 工事ハ原則トシテ直営ノ方法ニ依リ執行シ、特別ノ事由ニ依リ、已ムヲ得ス請負ニ対スル場合ニ在リテハ、地元民ヲ就労セシムルノ条件ヲ附スコト。
4. 工事ニハ原則トシテ地元民ヲ就労セシムルコト、此ノ場合に在リテハ左ノ方法ニ依ルコト、
イ、特ニ生活困難ナル者ヲ優先シテ就労セシムルコト、
ロ、就労者名簿ヲ調整シ、就労ノ機会ヲ均等ナラシムルコト、
ハ、賃金ハ可成日払トスルコト、
一、副業奨励ニ関スル件
現時農漁山村経済窮迫シ、且帰村者増加ノ為一層困窮ヲ加フルノ状態ナルヲ以テ、農漁山村ノ副業ノ共同施設ヲ奨励シ、其ノ収入増加ノ途ヲ講スルコト最モ緊切トス、仍テ従来ノ副業奨励ヲ一層有効適切ナラシムルカ為、本年度ニ於テ斯ノ種奨励ニ特ニ力ヲ注クト共ニ農産物加工原料豊富ナル本県ニ於テハ、更ニ加工技術ヲ指導スルノ急務ナルヲ認メ、蔬菜果実ノ加工ヲ主トシ、農産物ヲ原料トスル副業品生産ノ実際的指導ヲ為サントス、各位ハ県ノ主旨ヲ体シ、当業者ノ指導ニ尽力セラレンコトヲ望ム、
ここにとりあげたのは前述の「市町村長会議事項」の中でも、農村の経済的窮乏を救済するための直接的対策とみられるもののみをとりあげただけである。このほかにも「山村救済施設ニ関スル件」として林道開発事業とか、炭焼に従事スル者ノ困窮に対し助成金を交付するとか、「産業組合ノ普及並ニ機能拡充に関スル件」、「漁村共同施設助成ニ関スル件」等、いろいろな対策があげられ、知事、地方課長などが説明にあたっている。
こうしたなかで、当地方において地域の人びとは、これをどのように受けとめ活動していたのであろうか。『アイド』昭和十年五月号に「熱への道・房総二十五ケ町村農村人国記」という記事の中に、当町域を含む山武郡のことが次のように紹介されている。
二月八日は山武郡の農家組合長大会、東金町の八鶴湖畔の公会堂で全郡二百九組合より出席者三百五十名、一郷一村を背負って累年奮闘して下った真の中心幹部である。真剣な実験談には思はず涙を催させられるものすら少くない。総員の決意を語る宣言と決議は真に非常時農村を運営する羅針盤である。産業熱心の権化である郡農会長が病気のため出席できなかったのは、その心中も想われて残念であるが、副会長渡辺惣三郎氏司会の下に、香取技師、岩田、藤田、武田の各技手の完全なるチームワークのとれているのも此の特色として、農村のため衷心から同慶せずにはいられない。
翌九日は東金町隣接の大和村、全戸四百五十戸の純農で、田四百五十町、畑三十町、米作主体で産繭七千貫の養蚕をも営む村で、八百町歩に灌漑する雄蛇ケ池は慶長年間、代官島田伊伯の築いたもので、その恩沢は特に今日に光っている。
資力の底力のある村であるが、従来は勧業や社会施設に積極的ではなかった感じもある。村長石田義之氏、農会長秋葉音治氏等に将来の施設を嘱望し、技手鈴木忠信君の熱努にまつものが多い。表場農家組合長華表誠也氏の郷土啓発の努力には尊いものを発見させられる。
またこうした農村の緊迫した状況の下で、大網町役場は昭和九年十一月二十八日「町報」創刊号を発刊した。当初はB4版ガリ版刷りのそまつなものであったが、後に活版刷りとなった。これこそ現在当町が刊行している「広報大網白里」の母胎といっても過言ではない。編集主任と記され氏名は不明であるが、「町報発刊ニ就テ」と題し、次のようなことを述べている。
従来町治ノ一般施設ハ、告示板又ハ廻章等ニ依リオ知ラセシテ居タガ今度毎月乃至隔月ニ町報ヲ発行シ、町民各位ノ便益ニ供スルコトトナリマシタ。今更述ブルマデモナク、地方自治体ハ国家組織ノ基礎デ、国運ノ盛否ニ関スルコト重大デアリマス。而モ町村行政ノ振興ハ町村民ノ一致協力ニ俟ツベク、協力ハオ互ヒニ知リ合ヒ、責任ヲ感ズル所カラ始マルト信ジマス。
一体、町治ハ町民オ互ヒノ責任デ、年々計上サレル予算ヲ始メ、財産ヤ生産高、収入ハ貧富ノ関係カラ、町民ノ福利ヲ増進スルタメニ、如何ナル活動ヲシテ居ルカト言フ事柄ヲ知リ、更ニ色々ナ条例規則ヤ、ソノ都度公布サレル告示等ヲモ、丹念ニワキマヘ治績ヲ挙ゲ、オ互ヒノ幸福ヲ増進セシムベキモノデアリマシテ、町民諸君ノ御自覚ト協力ヲ起ス助ケトモナラシメルタメ町報ハ生レタノデ、目的ハナカ/\大キイノデアリマス。(下略)
この「町報」発刊ニ就テの文中に、当町の更生運動のひとつとして町当局が多大の努力をはらっている様子がよくあらわれている。町報の内容は、昭和恐慌下の当町の実情がいろいろと述べられている。次の例はそのひとつである。
大網町振興会 第三回総会
全町民各位の参会ヲ望ム (十二月一日 午後一時 於小学校)
昭和七年九月町民各位の熱賛ヲ得テ大網町振興会ヲ創設、玆ニ、三ケ年!其ノ間未曽有ノ旱害ニ遭遇シタルモ、会員ノ意気頗ル昻ク、愈々一致団結シテ初期ノ目的ニ邁進シツツアルハ、誠ニ前途祝福ニ堪ヘザルモノアリ、本日創立三ケ年ヲ迎フルニ当リ、来ル十二月一日午後一時ヲ期シ、当町小学校ニテ第三回総会ヲ開催ス、町民各位ハ振ッテ参会セラレンコトヲ望ム。
大日本国防婦人会大網分会設立さる
挙国一致非常時突破ノ大方針ノ下ニ、最モ広範囲ニ最モ鞏固タル婦人団体トシテ、大日本国防婦人会ノ結成ヲ見、爾来各町村ハ分会ノ組織ニ着手シ、本町又ハ十月中旬ヨリ会員ノ募集ヲ開始セシニ、其ノ数実ニ四百九十名ニ達ス、依ッテ十一月二十五日ヲ期シ、発会式ヲ挙行、当日ノ出席者四百五十名ヲ突破、空然(前)ノ盛況ヲ呈セリ、当日総会ニ於テ
分会長 石野とし
副分会長 板倉延子、富塚より
理事 鈴木愛子、渡辺あや、作田はま
監事 土屋菊技、岩佐きち、
以上八氏ノ決定ヲ見、外ニ顧問トシテ現町長、前町長、在郷軍人分会長、農学校長、小学校長ヲ推薦スルコトニ決セリ。
こうして「町報」の内容をくわしくみていくと、恐慌の下で農村の生活が苦しく、それを打開する合言葉として「非常時」ということばが目につくようになる。しかしこれは、日中戦争から太平洋戦争の期間中につかわれた非常時と多少趣を異にするものではあるが、やがて一線につながり合う要素をもっていた。
また農村不況の対策として、前にもあげた農村振興町村土木事業が、当町(大網町)で具体的にどのように実施されたかということも町報の中に入っている(表58・59)。
年度別 | 路線名 | 延 長 | 幅員 | 工 費 | |||
工 事 費 | 用 地 費 | 雑 費 | 合 計 | ||||
昭和七年 | 新宿・道塚線 | 米 一、六二九 | 米 三・八 | 円 一、六〇一.二五 | 円 三四一・八四 | 円 五六・七五 | 円 一、九九九・八四 |
同 | 山中・栗山線 | 八〇〇 | 三・八 | 一、一一八・七五 | 三三八・四〇 | 四一・六四 | 一、四九八・七九 |
昭和八年 | 新宿、蒲田線 | 一、五六九 | 四・〇 | 二、〇五〇・〇〇 | 一、三五三・二四 | 九六・七六 | 三、五〇〇・〇〇 |
昭和九年 | 福田、鎌取線 | 三〇〇 | 四・〇 | 八一五・一九 | 一五九・一二 | 二五・六九 | 一、〇〇〇・〇〇 |
年度別 | 箇所 | 工事種類 | 工 費 | 補償費 | 雑 費 | 合 計 |
昭和八年 | 前島池 | 堤塘改修及浚渫 | 円 五、四〇三・七二 | 円 四一・〇〇 | 円 一五五・二八 | 円 五、六〇〇・〇〇 |
同 | 長谷池 | 三、六九五・〇〇 | ― | 一〇七・〇〇 | 三、七六二・〇〇 | |
このような国や県の対策にあわせ、町では自力更生、経済更生運動と称し、各農家に叺莚の増産をよびかけ副業奨励を行い、この生産組合を結成したり、あるいは農会が中心になり農村更生講演会が開催されたりした。町報をみると講師としては、デンマークより帰朝した増田亮一が招かれ、二百数十名の出席者があったと報ぜられている。
また町は農家の農業経営上有効と思われる対策を町報を通して伝えている。
第一は鮮牛(朝鮮牛)購入と廃牛販売斡旋のことで、「町報」(創刊号)の中に「農業を経営して行く上に養畜の少ないのは完全なる農業経営とは言えず、先に養豚の奨励を計画今日に及び来りしも、二カ月の旱魃は畜牛の必要を痛切に感ぜしめ、今夏本会は鮮牛の購入斡旋を計画し本月中旬左の如き結末を告げたり。」
購入頭数 二十四頭 此金二、三三五円
廃牛販売頭数 九頭 〃 六四五円
第二は「町報」第四号(昭和十年九月二十八日発行)の中の産業組合ニュースとして、「動力農具の推奨―農業経営の複雑化、多角化そして其の能率を高める事を考えねばならない。然し根拠のない計画は失敗を招くこと多し、ここに於て本組合は五農家以上持寄り方法の1/4モーターを使用する動力農具の購入を推奨し、米質の改良に能率の高揚に、そして藁工の増産にと計画しました。希望の方は御来談下さい御相談に応じます。」
こうした農家へのさまざまな対策をみていくと、当時如何に農村不況が深刻な課題であったかを、概略ではあるが理解されたかと思う。では、なぜ農村の問題が国や県、市町村をあげての大問題になったのかというと、農業は当時日本国民の最も主要な産業であったためである。
昭和十年十一月当時の内務省社会局は『農村読本』という非公開扱いの刊行物を出している。これがどの範囲にまで配布されたのか判らないが、各県知事クラスまでしか配布されなかったのではないかと推定される。
この中には現在われわれが、戦前の内務省に対して抱いているイメージとは、かなりかけ離れた見解がはっきりと示されている。
たとえば「わが国の資本主義の発達は、農村から地主の手を通じて収取される高率小作料や高利貸的利子の蓄積に依存した。そしてかかる資本の蓄積には従来からの封建的な農村の搾取関係を維持して、これを利用することが利益であるとされたのである。かくしてわが国の資本主義は農業経営の大規模化乃至は合理化の方面には発達せず、むしろ過小農を存続せしめ、搾取の対象となす方面にはしったのである。」とか、「農業恐慌の襲来」と題する項では「かようにわが国の資本主義は、農村を犠牲としつつ発展した。農業は工業に対し常に不利な地位に置かれたのであって、このことは農業恐慌の襲来と共に著しくなったのである。」と前置きして恐慌の経過を次のように述べている。「わが国における農業景気は、大正十二年から昭和二年まで上昇の半円を描いたのであるが、昭和三―四年頃に保合情勢を示し、昭和五年から下降するに至った。そして昭和八年には経済界におけるインフレーション政策と、各種の救農政策との影響を受けて、景気回復の非があったのであるが、昭和九年の各地における冷害、旱害、風水害に因る大凶作は、生糸安と相まって再び農業経済を悪化せしめることになったのである。(中略)それでは、どうして農業恐慌が襲来したかといふに、根本原因としてはわが国の農業経営そのものの不合理性というものが挙げられるべきであるが、この点は後に述べるところにゆずり、直接の原因としては欧州大戦後に列国が採った経済帝国主義が考えられるべきである。すなわち、各国におけるこの主義は農産物の増産と農産物市場の狭小化を招来し、その結果過剰生産と滞貨増高とのため世界農業恐慌が生ずるに至った。この傾向は、わが国にも及んで来たのであるが、昭和五年一月の金解禁の結果円価騰貴し、外国市場における日本製品の需要減退と、わが国内における外国農産物の国内農産物への圧迫となって現われ、わが国農業恐慌をいよいよ深刻化ならしめることになったのである。(以下略)」
この『農村読本』の内容は、「円価騰貴」いわゆる「円高」現象が恐慌にいかなる作用を及ぼしたか手みじかに、わかりやすく説明しているし、現在日本が置かれている立場と大変よく似ていることに注目すべきである。
「歴史はくりかえす……」というが、よい意味でも、悪い意味でも、それはその時代を形成する国民の資質によるであろう。
わずか半世紀ほど前にわれわれの町にも襲いかかった恐慌の嵐は、当時の人びとの必死の努力にもかかわらず、よい方向にはなかなか転換できなかった。