(3) 災害とその対策

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 大正時代の災害の代表が関東大震災であるとすれば、昭和の代表は(戦前の場合)旱害であろう。関東大震災の場合は当町域でも大さわぎはしたが、直接の被害はあまり大きくはなかった。
 しかし、昭和八年の旱害は直接生活に及ぼす影響が大であった。
 当町の「増穂小学校沿革誌」は当地の実情を次のように記している。
 
 七月十二日
  未曽有ノ旱魃ニ、本村耕地水田全面積五百九町歩余ノ中、植付不能五百町歩ニ達シ、七月九日ニハ農林省農務局長、本県知事ノ視察アリ、今ヤ対策全ク尽キテ村民ハ呆然自失ノ状態ニテ何等為ス所ナシ、カクテハ教育上遺憾ノ点モ頗ル多カルベキヲ想ヒ、村民ノ一大奮起ヲ促スベキ方策ヲ講ズルハ刻下ノ急務ナルベシ、
  即チ斯ル際、荒レ果テタル水田、植付ヲ断念シタル水田ヲ借入レテ児童ノ手ニヨツテ植付ヲ行ハバ、コレニ刺激ヲ受ケテ一度断念シタル者モ再ビ植付ヲ開始スルニ至ルベク、幾分ナリトモ村内ニコノ更生気分ヲ喚起セントシテ、水田約一町五段歩ヲ俄ニ借入レテ前後四日間、尋三以上ノ児童総動員ノ下ニ植付ヲ完了ス、コノ企テニ援助ヲ与ヘラレタル人々、
  村農会長北田能章ハ学校ノコノ主旨ニ深ク共鳴シテ、耕地ノ借入、苗ノ心配ニ大イニ尽力セラレタリ(肥料ノ購入ニモ)、副会長森川孝氏ハ自身ヨリ耕地提供ヲ申出テ、植付ノ際ハ終日何カト指導ノ労ヲ執ラレタリ、郡農会ヨリハ香取、鈴木両技術員二日ニ渉ツテ実地指導ノ任ニ当ラレタリ、
   耕地ヲ貸与セラレタル人々、
  五段八畝 富塚良司氏
  一段四畝 森川孝氏
  五段八畝 小川泰雄氏
  二段五畝 小倉[ ]
  一段歩  小倉貞治氏
  尚、コレ等地主ハ植付ニ際シ種々ノ便宜ヲ与ヘラレタリ、
  此ノ企業ハ忽チ村内ニ一大衝動ヲ与ヘ、各所点々陸植式田植ヲ行フヲ見ルニ至レルハ、学校所期ノ目的ヲ達シタルモノト謂フベク、会心ノ喜ビニ堪エザル所ナリ、
  東京日々、朝日、報知等ノ新聞紙ハ異口同音ニ本校田植ノ動機、作業ノ実際ヲ写真入ニ記事掲載シテ博ク社会ニ照会(紹介)セリ
  七月十七日
  打続ク旱天ニ学校備付ノ井戸ハ、水渇シテ使用不能ヲ来シ、不便少ナカラザルヲ以テ、中村青訓指導員指揮ノ下ニ、本校職員ノ手ニヨッテ運動場ノ一隅ニ文化式井戸一ケ所新設ス、
  曽ツテ昭和四年八月卅日コレト全ク同形同式ノ井戸ヲ新設スル、金拾七円ヲ要シタルガ、今回ハ僅カニ廃物トナレルポンプヲ修繕スルニ、半円ヲ費シタルノミナルヲ思ヘバ、農村不況非常時ノ斯カル折柄、有意義ノ工事タルヲ誇ルニ足ルベシ、
  七月二十一日
  旱害陸植ノ灌漑ノタメ井戸掘ヲ開始ス、
  七月二十二日
  農林省産業課長及県産業課長旱害地視察ノタメ来村セラル、
 

写真 旱害にあった水田
 
 このような旱害にみまわれた地域の人々にとって、自分たちの子どもが一生懸命に天災と闘っている姿をみていては、大人としては奮発せざるを得なかったであろう。こうしたことは単に当町域のみではなく、他郡においても同様な事例があったようである。
 九十九里地方をおそった旱害は、昭和八年・九年と続き地域の人びとは、ついに神仏に祈り「雨乞い」をした。
当町域には南白亀川や小中川などの小河川があるが、用水不足地率は四十八パーセントにも及び(『日本地誌』8千葉県・Ⅲ九十九里浜平野)、天水への依存度が高かった。そのため降雨日数が平均を下まわれば水不足がおこった。しかも田地は海岸の砂まじりであるので保水率も低かった。また低平地で、海岸に並行に数列の砂堆が並んでいるため水はけが悪く、少し大雨がふれば排水が良くないため、水田は冠水してしまうという条件の悪い土地であった。こうした環境の下で米作りをする当町域の人々は、文字どおり自然条件に支配されていたといっても過言ではなかった。
 しかし、昭和に入ると人びとは単に自然条件の下に農業を営むだけではなく、これを克服していくことに努力を傾けた。明治以来の近代化の道をすすんだ日本の文明は、それを可能ならしめるだけの人智と土木技術をもつようになっていたのである。
 昭和旱魃に拍車をかけられた形で、当町の旱害対策工事のひとつが始まった。
 これは小中川水利事業といわれ、当町の小中山中に水利用の貯水池を作り、下流域八百町歩の水田に灌漑し、併せて長国川の水害を防止するというものであった。

写真 昭和旱ばつの折の祈雨の碑(右側)
(宮谷 本国寺)
 
 この経過は、同事業完成記念碑にくわしく記されているので、次に引用する。
 
   碑文
 天は自ら助くる者を助く、古来総房の地米の産地としてその名天下に聞ゆ、然れども米は自然に稔るものにあらず、皆農民の辛苦粒々血の出る努力の賜によらずんばあるべからず、然も如何に辛苦艱難すと雖も時には旱魃あり、時には水害に襲はれて秋の祭の太鼓の音も聞えざる年も稀ならず、我が南白亀川支流金谷川、長国川の沿岸、元福岡村の一部、増穂村の大部、大網町、山辺村の一部、瑞穂村の大部、土気町の一部、元豊岡村、本納町の一部に亘る東西八粁(キロ)、南北四粁の面積七百九十町歩の水田一帯は用排水の便宜しからず、為め一度旱天打続かんか、水田枯渇し碌々米さへ稔らず、或は時に豪雨来らんか、昨日の美田は一夜にして泥土の海と化し、一粒の米さへ得られず、農民天を仰いで嘆息するも稀ならず、この恵まれたる如くにして、恵まれざる有様を痛く憂いたる時の県議花沢寿太郎・板倉幸進美、元町村長滝口八十司・金坂健蔵・十枝雄三・石野操一郎・富塚良司・錦織勲・三枝治部・星見四郎吉氏等相寄り相謀りて、大網外六ケ町村普通水利組合を企画し、之が台地小中山中に一大貯水池を築工し、その名も小中川貯水池と称し、下流八百町歩に垂んとする水田に灌漑すると共に、長国川を改修し、水害を除去し、以て二毛作田を目標とせる計画なり、
 仍て昭和七年十月板倉、花沢両氏陣頭に立ち、期成同盟の名に於て時の県知事大久保留次郎に陳情し、一方鵜沢総明博士・小高長三郎代議士等に応援を求めたる結果、陳情は遂に容れられ、翌八年八月廿五日県会予算七十五万円余の承認を得、之が起工式を時の県知事岡田文秀の臨席を得て、山武農高校庭に挙げてより十有四年の歳月を費し、工事延人員十五万人を数へ、昭和二十二年二月遂に完成の実をあぐ、何たる感激ぞ、然りと雖もその陰にはまた幾多の犠牲的美談行為も少なしとせず、即ち小中大滝水利用の部落たる小中、宮崎、小食土(やさしど)等は旧水利権を持続する条件の下に、地元村長金坂健蔵、区長金坂雄三氏等は下流地域の用水不足に痛く同情を寄せ、率先垂範の美徳を示し、先祖伝来の美田を提供に尽瘁す、一方不動尊社、大滝水利用発電精米所一ケ所、部落営水力精米所、個人住宅等この大工事の前、欣然涙と共に移転する等、山林、田、畑の池底に没するもの十有二町歩にも及びしたり、或は又増穂村中心に下流長国川の改修と併行して、南横川、法目方面に二号水路の新設等には、増穂村長富塚良司、本納町長杉浦正夫両氏、及沿岸地主三枝治部氏等亦多大の農地を犠牲にする等、上下共に相呼応して大工事の進捗を図りたり、会々昭和十六年大東亜戦争の勃発に遭遇したりしも、千五百有余の組合員は益々強固なる団結を誓ひ、一時県営を離れ独立組合営として、東都高野組と請負契約を結び、以て工事を続行し石野操一郎、富田直恵、佐瀬与一等の各管理者、常設委員各位の協力一致により遂に完成、昭和二十三年五月新緑映ゆる小中池畔に於て感激の竣工式を挙げるに至る。(以下略)
 
 昭和八年以降の旱害により大きな被害をうけた当町域では、人びとが協力して自然改造の工事をおこし、それは土地の人びとの多大の犠牲的精神を発揮した協力により、戦争中も中断されず、十五年もの歳月をかけてこれを成功させたという、当町の歴史の上では特記すべき大事業を完成させた。
 この碑文は、昭和三十二年四月当時の千葉県知事柴田等によるものである。このほか両総用水の事業も昭和の旱魃を契機として昭和十八年から工事が開始された。
 しかし、災害は単に旱魃ばかりではない。昭和六年九月二十五日から二十八日にかけての台風では県下で十一名の死傷者を出し、各地でがけくずれがおこっている。また昭和九年九月には有名な室戸(むろと)台風が襲来し、県内各地も多大の被害を受けた。昭和十三年六月二十七日台風による豪雨では、梅雨期と重なって七月五日まで連日雨が降り、九十九里地方では三百ミリにも達した。このほか降雹(こうひょう)、浅間山の噴火に伴う降灰など、いろいろな災害が二度も三度も当町を襲っている。
 こうした災害に対し、われわれの先人は単に手を拱(こまね)き、神仏の加護を祈るだけにおわらせるようなことはせず、智を結集し、巨視的価値判断に立って、自己の利益を犠牲にしても一致協力して、災害への対策を次々にうちたて、今日の大網白里町の基盤をつくりあげていった。