(4) となり組と常会

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 世界恐慌の波の中で、当町域のように農業中心の地域では凶作による貧乏、豊作でも貧乏という困った事態のもとにあった。町の指導者は解決の道をさがし求め続けた。
 こうしたなかで政府がとり続けた経済上の政策は「緊縮財政」といわれるものであったが、それは理論的には正しいものであったが、現実に効果はあまりなかった。現在でもこれが恐慌とぶつからなければ、かなり効果があったであろうと評価するひともある。しかし現実は、あくまでも現実であって、理論と現実は必しも一致しないことを如実に示した事例であったといってよいであろう。
 またこうした政策を実施した責任者として井上準之助(前大蔵大臣)は右翼の青年に暗殺された。この事件のあと昭和七年五月十五日に五・一五事件がおこり、犬養首相が暗殺され政党政治は事実上幕をおろした。
 さらに当時の世相は、恐慌下にあえぐ農民を徴兵制度の下で多数部下にもち、直接に接する機会の多い陸・海軍の若い士官・下級将校の間に「なんとかしてやりたい」という同情心と、政治に対する侮蔑があった。彼等は一部の思想家と結び、考えを同じくする軍幹部高級将官と意思の疎通を図りながら(主として陸軍部内であったが)、ついに昭和十一年二月二十六日に二・二六事件をおこし、政府高官を殺害した。
 その一方で、陸軍は中国大陸で軍事行動をおこした。それは昭和三年五月の済南事件、同年六月の張作霖爆死事件、昭和六年九月満州事変、昭和七年一月日本軍の満州占領、同年三月満州国建国宣言と続いた。この満州国承認問題をめぐり昭和八年二月日本の国際連盟脱退と、明治以来軍人は政治に口を出さないという基本ルールが全く忘れ去られ、陸軍を中心とした軍部主導の政治が展開されていった。
 日本にとって悲劇であったのは、恐慌のなかで経済的に苦悩し低迷していた景気が、軍部独走のなかで上向いていったことであった。緊縮政策をとっていた国家財政を積極的に改め、デフレ化をインフレ化に変えることにより、農村の景気は多少とも回復の様相を示しはじめたのである。
 さらに当時の日本内地では、田や畑を購入し自作農になりたくてもなれない人びとに対し、日本政府と軍部は移民政策をとり、満蒙開拓をすすめた。
 昭和八年七月号の『アイド』(千葉県農会発行)は「農村経済更生と移植民」と題し、拓務省嘱託陸軍歩兵中佐加藤一平の講演を巻頭の「説林」に掲載している。この内容は一、満州移民と、二、南米移民に分けて述べられているが、一、満州移民の部分に次のようなことが述べられている。
 
 一、満州移民
 私は満州移民と南米移民について御話を申上げたいと思ひます。満州の寒気は相当烈しいものではあるが、想像せるものよりは少なく奉天等では厳寒で零下三十度位であります。その上空気が乾燥して居りますので、寒気を感ずる程度は少ないのです。夏は可成り暑く日中等は仲々烈しいのですが、午後三時過ぎとなればずっと涼しくなります。次に水について申しますと、雨量は満鉄沿線で六百ミリ、蒙古境で百ミリ位です。それが朝鮮に近付くに従って多くなり、朝鮮に来れば千二百ミリ位となります。しかし満州で困りますのは播種の時期に降雨の少ないことであります。しかし降雨の時期が内地と異なりますから、播種時季に降雨が少ないけれども地下水は相当に多いのであります。りょう(遼)河の支流附近に行くと多くなります。しかし蒸発量が相当量多いので、水に困ることは屢々です。雪は余り降りません、多いときで奉天附近で二~三寸位のものです。その代り地熱の放散著しく、地下は深く氷結し奉天附近では地下四尺五寸位まで氷結しています。霜は地方により異なりまして北満では九月中旬頃、南満では十月下旬頃です。晩霜は四月中旬から下旬にあります。要するに寒さの期間が相当に永い故、日本式の耕種農業は困難であり、果樹類の如きも氷結の為め困る様に思ひます。由来支那人は掠奪農業をする為土地は瘠薄となって行くが、北満には相当肥沃の場所があります。土地の分布に就て最近七~八年前から朝鮮人が移民し開墾しております。現在では相当開墾せられています。北満の開墾は山東の苦力(クーリー)に依って行はれているが、多く三~四十町歩の土地をアメリカ式に経営しているのがあります。現在山東出身苦力の農家は百万位はあります。従って拓務省等では移民を行う場合は開墾地を売収してやるのがよいと言ふものと、一層更に山深く開墾せしむるのがよいと言ふものとあります。四ヘイガイ及奉天附近では水田可能のものは一反歩三~四十円位、ハルピン、チチハル附近では反当り十円から十五円、北満の畑地であれば二~三円位です、安東県では水田可能地で八~九十円、畑五~六十円位であります。吉林では十五円から二十円、畑で五円から十円位であります。日本人は彼等に比し頭と資本とに優れてゐる点が異なる程度でありますから、此の辺の処を注意せねばなりません。是迄の日本人移民は十町乃至二十町歩位であります。
   (中略)
 次に生産物の事を申上げますと大豆四千万石、粟四千万石、小麦一万二千三百万石、等が主であります。特種作物としては煙草を作付してゐるものもあります。
 日本人が満州へ移民する場合、相当の研究と準備をし計画的にしないと失敗するだろうと思ひます。扨て移民したと仮定するに、住居に対する危険は匪賊平定の結果余程宜敷い様に思ひます。現在の移民数は極めて少数でありますが、段々多くして行きたいと思って居ります。それについて考えていかねばならない事は、将来日満経済ブロックの建設には日本人であろうが、朝鮮人であろうが、満州人であろうが全部同じ気持で働かずばならないと言ふことであります。
 又満州は自治的訓練がよく自発的に行はれてゐます。警察方面は警部以上は日本人である為め安心できます。衛生状態は内地とほぼ同様であります。大倉組の農場の所在地であるダイボウ附近ではペスト等もありますが、満州ではそのおそれはありません。赤痢等も少なく、この点は南洋等とは大いに異なっています。
 
 この加藤一平陸軍中佐の満州移民の説明は当初の満州移民に関して心すべきことを大変よくあらわしている。文の後半に、日満経済ブロックの建設には、日本人も朝鮮人も満州人も全部同じ気持で働かなくてはいけないと述べている。これが「五族協和」というスローガンであった。このまま事態が変化せずにすすめば、文字どおり満州建国のスローガンであった「王道楽土」があるいは実現したかも知れない。しかし、どこで、だれがというわけではないが、事は大きく転換し、いつの間にか満州国は日本の準領土であるというような見解がおしとおるようになり、五族協和のスローガンもいつの間にか消え、満州移民も当初の目的と大きく変化し、国策のひとつとして満蒙開拓団となり、屯田兵的要素を伴った移民となっていった。これが先に開拓を手がけていた現地の人びととの間に溝を生じせしめる原因となった。

写真 満州国建国碑 (当時の絵葉書)
 
 昭和十二年七月日本は蘆溝橋事件を発端に中国との間に戦争を開始した。これは日中戦争とか支那事変(日華事変)といわれ、宣戦布告なき戦いとか、いつおわるかわからない泥沼戦争とかいわれ、国際間における評判はあまりよいものではなかった。しかも従来日本国民が明治・大正時代に経験した戦争と異なっていたのは、「総力戦」ということばで表現されているように、戦争は戦場で戦っている兵士だけではなく、国内(内地)もこれに協力し、不自由に耐え国のすべてをあげて戦争に臨まなければいけないといわれるようになったことである。そして「ぜいたくは敵だ」といわれるようになった。
 当町域の旧大網町の『町報』にもこうした時世の影響は次第にあらわれてきている。次に掲げた『町報』第十二号のトップに「非常時局ニ直面シテ」という題で、町長石野操一郎のことばがみられる。日中戦争がはじまって一カ月もたたないこの時点で、すでにこうした雰囲気が地方の町村にまで及んできていることに注目すべきであろう。

 
 
 こうした緊迫した雰囲気を、『千葉百年』(毎日新聞社・昭43年10月刊)は「護れ防空千葉の空」の項で次のように述べている。
 
 十五、六年になると、こんなラッパがしょっちゅう鳴り響くようになった。
 もちろん、こうした軍隊の駐とん地は館山市ばかりではない。首都東京に近接する市川市には高射砲連隊、野戦重砲兵連隊、千葉市には戦車連隊、鉄道連隊のほか戦車学校、歩兵学校が設置され、また近衛歩兵連隊が山武郡東金町(現在東金市)、歩兵連隊が市原、海上、香取、安房などほとんど全県下にわたって分散配置され、県全体が基地のようすを見せていた。
 こうしたふんいきを反映してか、県民の生活もしだいに規制が多くなり、窮屈になってきた。それでも昭和十五年ごろまでは、軍需景気に笑いの止まらない京浜工業地帯などから続々と房総の海岸に海水浴客が押しかけ、大変な混雑ぶりであった。千葉運輸事務所(現在の千葉鉄道管理局)の調べによると、十五年八月半ばの県内滞在の避暑海水浴客は十一万六千人、最高を記録した前年の十万人を軽く突破する勢いだった。
  (後略)
 
 この時代は戦勝祈願のため成田山参拝に出かけたり、海浜で身体をきたえるためと称して、海水浴に出かけたりしている。食糧に対する規制もきびしくなると、「千葉ではうまい内地米がくえる」といって、房総に出かけてくる東京の人びともあった。
 しかし、軍事色は更に一段ときびしくなっていき、特に日中戦争は日本のすぐ隣の中国大陸で行なわれていて、航空機が次第に発達してくると、空からの本土空襲を警戒しなければならなくなった。その結果空襲にそなえて防空演習も真剣に考えられるようになった。『町報』第十三号はこの様子を次のように伝えている。これは東京を中心に実施された第二回目の「関東防空演習」のときのものである。

写真 関東防空演習
 

 
 
 こうした緊迫した内外の情勢の中で、当町でも旧大網町では「詔書実行組合」を結成し、国策を忠実に守っていこうということになり、次のような規約が作られた。
 
   大網町分会詔書実行組合規約
                    (役場保存文書)
    第一章 総則
 第一条 本組合ハ大網町分会詔書実行組合と称ス、
 第二条 本組合ハ大網町分会員ヲ以テ組織ス、
 第三条 本組合員ハ本規約ヲ確守スルノ義務ヲ有ス、
 第四条 組合員ハ第二条ニ掲ゲタル資格ヲ失フニアラサレハ脱退スルヲ得ス、但第二条ノ資格ヲ失フモ本人ノ希望ニ依リ組合員タルコトヲ得、
 第五条 本組合ニ左ノ役員ヲ置ク、
   一、組合長一名、分会長之ヲ兼ヌ、
   二、副組合長三名、分会副長其ノ他ノ役員ニ嘱託ス、
   三、幹事各班ニ一名、組合員ノ互撰ニ依ル、
   四、顧問 若干名
 第六条 組合長ハ組合ヲ代表シ本規約実行上一切ノ業務ヲ処理ス、
 第七条 組合副長ハ組合長ヲ補佐シ、組合長事故アルトキハ其職務ヲ代理ス、
 第八条 幹事ハ組合長ノ意図ヲ受ケ、班員(組員)ニ対シ直接規約実行ニ関スル業務ヲ処理ス、
 第九条 組合員ハ別ニ定ムル細目ノ実行ヲナシ、率先躬行郷党ノ模範タルコトヲ期スルモノトス、
   第二章 勤倹貯蓄
 第十条 組合員ハ消費節約、能率増進、虚礼廃止等、悪習改善ニ関シ断乎タル決心ヲ以テ実行ヲ期スヘシ、
 第十一条 組合員ハ身分相応ノ貯金ヲナス義務アルモノトス、
     (中略)
   第三章 尚武実行
 第十七条 毎月一回剛健日ヲ定メ、当日ハ早起ヲナシ集合、武術ノ演練及心身ノ鍛錬ヲナスモノトス、
 第十八条 毎年二回(春秋)武道大会ヲ挙行スルモノトス、
 第十九条 農閑期等ニ於テ行軍、野営、若クハ軍隊見学ヲ実施スルコト、
   第四章 時間励行
 第二十条 集合時間ヲ厳守シ、開会時刻ニハ集合人員ノ多寡ニ拘ラス、時限通断行スルコト、
 第二十一条 招宴等ニ於テモ右ニ準スルモノトス、
 第二十二条 止ムヲ得ス時限ニ集合シ得サルトキハ必ス予報スルコト
   第五章 出動準備
 第二十三条 非常異変ノ際出動ヲ迅速ナラシムルタメ、組合長ハ組合ヨリ常時左ノ人員ヲ割出シ置クモノトス、
       第一出動部隊
        班長一、副班長一、
        分隊長若干名、班員若干名
      予備隊概ネ右ニ準ス、
 第二十四条 団員ハ非常出動準備アリテ、命令一下一定ノ場所ニ集合スルモノトス、
        (中略)
   第六章 紀念事業
 第二十八条 詔書下賜、御慶事其ノ他ノ紀念スベキ祝祭等ニハ必ズ左ニ掲ケル如キ一以上ノ事業ヲナスモノトス、
   イ、植樹、植林
   ロ、紀念貯金(据置貯金、何年積立等)
   ハ、規約事業ハ一件宛増加、
   ニ、其ノ他特産品ノ改善
   第七章 社会奉仕
 第二十九条 社会奉仕トシテ左ノ事業ヲ実行スルモノトス
   1、納税ノ世話
   2、耕地整理等ノ調査補助
   3、就学児童ノ出席率増加援助、
   4、社寺学校、役場等ノ為労力提供、
   5、人事相談、
   6、道標設置、
   7、其ノ他
   第八章 雑則(中略)
 
   詔書徹底組合規約実行上ノ細目
 一、消費節約及勤倹貯蓄実行要目
 其ノ一消費節約
 購買ハ生活上必需品ニ限ルコト、殊ニ贅沢品ノ購入ヲ廃シ猥ニ流行ヲ追ハス、専ラ実用ニ堪フルヲ主トシ、且購買品及ヒ在来品ハ手入保存ニ注意スルハ勿論、消耗ヲ節約シ之ヲ有効経済的ニ活用シ、以テ生活費ヲ減少スルコトヲ期ス、
        (以下略)
 

写真「常会資料」 千葉県刊
 
 こうした規約は大網町のみに限らず、当町域でいくつかあったと推察できるが、旧役場に保存され、しかも発足時が昭和初年らしいので、早い事例としてこれを引用した。
 昭和は恐慌の中からスタートしたが、地方にあっては自分たちの力でこうした事態を克服していこうという真剣なうごきもあった。
 また、日中戦争勃発以後は国策を徹底させるためと、「総力戦」への認識をはかる意味から、「隣組」を昭和十四年から十五年にかけて発足させた。特に東京のような大都市ではとなり、近所への関心や交際のあまりない地域を重点としたが、これは次第に全国に実施された。昭和十六年七月になると内務省は全国の隣組に常会を実施するように指示し、ラジオからは岡本一平作詩の「隣組」の歌が流れるようになった。
 千葉県は写真にみられるような『常会資料』を刊行し、県内各市町村に配布した。それは市町村内の隣組に配布され「回覧板」として回わされ、「上意下達」の目的を果たした。
 内容は隣組単位の常会で徹底されるべきことがらを、「月常会の徹底事項」として伝えられるようになっていた。
 昭和十二年(一九三七)七月七日、日中戦争を境として、日本国内は緊迫感に充ちていた。当町域もその例外ではなかった。そうしたなかで人びとは互いに協力しながら助け合い、くらしの安全を守っていこうと努力を重ねた。
 次に参考資料として旧大網町の「町報」を掲載する。
町報第14号
 
町報第15号
 
 
町報第16号
 
町報第17号
 
 
町報第18号
 
町報第19号
 

 この大網町報紙は、あるときは『町報』、一時期(昭和十三年)は『大網町報』に、そして再び『町報』に、もどっているが、日中戦争の勃発した時期から太平洋戦争に突入するまでの期間が残されていて、この間次第にきびしくなっていく町の情勢が具体的によくわかる好資料である、といってもいい過ぎではないであろう。