(1) 国民学校

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 当町の旧大網町『町報』第廿号、昭和十六年七月一日号の中に「国民学校改名の意義」と題して、次のように記されている。
 
 教育制度の改革は明治以来幾度か行はれて来たのでありますが、我国文化の急激なる進歩発展により、猶一層の改革革新が要望されるに至ったのであります。特に大正末期より昭和にかけ、自由主義思想、個人主義的傾向が上下に弥漫し、為に我国体に悖る様な危険思想迄も生ずる様になり、益々国民精神の高揚、日本精神への覚醒が痛感されるに至ったのであります。
 かくて教育制度の改革が要求され、その内容方法が見直される様になって来たのであります。我国は明治以来欧米文化の輸入に依って、今日の進歩をみたのであるが、今や単なる欧米模倣の域を脱して、先進諸国に勝る個有の文化を創造せねばならぬ時世となったのであります。個有文化の創造と国家の発展は一にかかって教育の振興にあるのであります。
 従来の我国教育は欧米教育の模倣であり、その中心的指導理念は自由主義的な思想を根基とした理論から出発して居ったのであります。
 かかる自由主義、個人主義は我国の真の姿に則した教育ではなく、これは大和民族本然の「あるべき」姿に迄持ち来す事が必要であるのであります。即ちこれを簡単に言ふならば、
 一、皇国の道に則る教育であり、 二、智徳心身一体を目指す教育である。故に国民学校の本旨に「皇国ノ道ニ則リテ普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的練成ヲ為スコト」とあるのであります。
 以上申しましたこと、之ヲ要するに日本独自の教育をしてゆこうと言ふのでありまして、その具体的な営みは我々教育者に課せられた課題であり、改革の本旨に則り有形無形、教育の全般に亘って研究努力いたさねばならぬときであります。
 我が大網校に於きましても、教師の側から、子供の方面から或は学校形態の上から、色々と御報知御援助を仰がねばならぬのでありますが、いずれ後日を期すことといたし、ここに改革の由来を略述した次第で御座います。

 
 
 文末の方に「大網校」とあるので、当時の大網国民学校の校長が町報に寄せられたものと思われる。町民に対し、この年三月一日勅令第一四八号で公布された「国民学校令」にもとずく国民学校の教育の基本精神を、大網町民にわかりやすく示されたものである。
 『千葉県教育百年史』第二巻、第三章第二節「小学校から国民学校へ」という項目に、「この国民学校令は、小学校を国民学校、尋常科を初等科と改めたばかりではなく、その第一条に……」とあり、「町報」の中に示されたようなことが述べられている。
 また『国民学校の日本教育的性格』(井上嘉七著・昭和十九年刊)の中に、国民学校について具体的に述べられている。
 
  国民学校は、時局のもたらす一時的教育政策であるかどうか。若し一時的教育政策であるならば、ここ数年ならずして又替ることが予想される。然らば我々は時局の波に乗って、流行に順応して行けば大体間違いはないということになって、之に対して真剣に研究しようとする様な熱意は起らないものである。果して国民学校は左様なものであろうか。
  言ふまでもなく、国民学校はそんな一時的、瞬間的な思想でもなければ、制度でもない。皇国教育本来の精神であり、制度である。勿論時局と切っても切れない関係はあるが、新しくして古く、古くして新しい所のものである。
    (中略)
  されば国民学校は見方によって、一面には著しく時局色を持っているが、併しそれは決して一時的な教育政策に留るものではなく、却って悠遠なる我が国体に淵源するものであり、皇国教育史を貫ぬく我が国教育本来の姿にかへらんとするものであることを銘記すべきである。
  近頃興亜教育と言ふ詞も大分使はれて来て居るが、これは今の教育を最も現実的な面より捉へた姿である。即ち八紘為宇(いう)の皇国への使命を達成すべき最も現実的な問題は所謂興亜である。従って大東亜を建設すべき人材を育成することこそ、現実喫緊の問題であり、それが同時に我国教育のあるべき本然の相なのである。
  斯の如く現実の中に永遠を求め、永遠を現実に実現して行かうとすることが、国民学校の本当の立場であり、この立場に立たなかったならば国民学校は単なる叫び声だけに止り、その生命は失はれてしまふものと思ふのである。
    (中略)
   国民学校授業の特質
  綜合的、統合的、綜合と言ひ、統合と言ふことは、国民学校にとって極めて大事な理念である。従って国民学校の授業には、此の理念が顕現して来なければならないのである。特に綜合と言ふことは、低学年の場合に於て強くはっきりと要求されて居ることであり、統合と言ふことは全体に就いて言って居ることである。先づ綜合の方より説明して見ると、低学年の教育は、飽く迄も生活に即応して全一的に行われなければならない。蓋し児童の生活はそれ自身全一的綜合的のものであって、この時代の子供は、斯る生活を生活することによって錬磨されて行くのである。従って教材も彼の聯絡を十分にして綜合的な生活の出来るようにし、縦には季節を追って彼等の生活に即応する様に出来ている。
  従って之が取扱者は能くその精神を体し、授業の実際に於て、決して断片的な知識の切売ではなく、子供の生活を育てゝ行くと言ふ考で行かなくてはならないのである。例へば一年生に、「凧上げ」といふ教材があるが、之は算数としての問題であるばかりではなく、同時に凧上げに関連した全一的な生活指導の問題である。挿絵も仲々よく出来て居て、見るからに子供が飛び付きさうである。即ち教材が直ちに児童生活として活きて居る。子供の血が通っている。子供にとっては人のことではなく、自分のことなのである。そして凧を数へることは、その全一的な生活の中に活きて居るので、其処で活きた知識を活きた儘子供の血が通って居るまま取扱って行くべきなのである。それも算数の問題だからと言って、只数へることばかりに終始して居たら子供は飽きてしまふし、教材との血のつながりは切断され、生活の全一的な陶冶は出来得ないのである。(下略)
 
 ここに引用した『国民学校の日本教育的性格』の著者井上嘉七氏は、当時千葉県視学であり、大正末期には夷隅郡大原小学校に於て「体験教育」の実践者として知られた人物でもあった。国民学校は以上に引用した如く、当時の日本の国際的な位置と国策を反映して改革された教育制度であり、敗戦後の一時期はまったくかえりみられなかったが、後半に引用した部分などは、現在でも通用するような内容であり、こうしたことから多少とも見なおされてきているのではないかと思われる。
 またこの頃、当町域での学校の様子はどうだったであろうか。「増穂小学校沿革誌」をみると、昭和十五年六月十八日の記述に「全職員ニテ国民学校案ノ研究ヲナス」、同九月十日には「本日ヨリ継続的ニ国民学校伝達ノ講習ヲ学校長ヨリ受ク」。また国民学校が発足して二年目の昭和十七年四月一日には「国民学校、青年学校入学式並ニ始業式ヲ行フ、国民学校第二年ハ『必勝ノ信念』『最後マデヤリ通ス』ヲ目標に雄々シク出足」と記されている。
 瑞穂小学校の『瑞穂教育のあゆみ』をみると、その年表中に、昭和十六年八月瑞穂村青少年団が設立されたと記されている。本文中三十頁のところに「青少年団の活動」として、それぞれ団体活動を戦力に結集し、食糧増産、奉仕活動に没頭した。また別に乙種勤労増産隊(隊長は校長)も結成され、まむしや蜂と闘い桑畑を開墾し、甘藷の増産につとめた。なお高等科生徒は、人手不足で工事中断の状態にあった小中貯水池に、校長、担任の引率で応授に出かけた。
 「山辺小学校沿革誌」には、昭和十六年四月一日勅令に依り千葉県山武郡山辺村国民学校と改称し、初等科六学級、高等科二学級に編制す、と記されている。
 また前掲の「増穂小学校沿革誌」の昭和十八年十一月十五日の記事には「本日ヨリ十二月中旬マデ甘藷切干(きりぼし)作製ニ五年以上全児童国策ニ邁進、(後日記ス)六百八十貫ノ切干甘藷が俵ニナッテ廊下ニ山ト積マレタ、決戦下ノ教育ハ切干ヲ作ルコトニヨツテ真ニ国民学校ノ児童トシテ錬成ガ出来ルノデアル、切干ヲ作ルコトソノコトガ勝チ抜ク教育ソレ自体デアル。」とある。さらに同月十七日は「山武郡内校長常会ヲ本校ヲ会場トシテ開ク、行事予定通リ行フ、
  朝会 九時~九時十五分
  授業 九時十五分~九時五十五分
  戦技訓練 十時十分~十時五十分
  研究批評会十一時十分~十二時
  校長常会 午後
会員一同口ヲ揃ヘテ経営全般ヲ賞揚ス、職員ハ益々自重セント誓フ。

写真 国民学校のようす(大網 三木俊助所蔵)
 
 国民学校の教育は、こうした当町内各学校の沿革誌からみても、戦時下というしかも軍事面では次第におされ気味になってきた時期の教育であった。したがってその内容にもりこまれていたのは「生産教育の徹底」ということから戦時物資ノ増産、勤労作業、労力奉仕とか、「戦時生活訓練ノ強化」として、必勝ノ信念ノ強化、災害警防ノ訓練、服装及び食生活ノ戦時化などであった。
 こうした実際に行なわれた教育は、発足当初の国民学校教育が意図したものとは異ってきた。もしこれに対し異論を唱えても「負けて国がなくなったら、なんの教育だ……。」といわれ、沈黙せざるを得なかったであろう。こうして国民学校教育のカリキュラムは国防訓練と食糧増産等のための作業が大部分を占めるようになった、この時代の教育を受けた多くの人びとは、戦後子どもを育てるようになると、自分たちは戦時中学校でまともな学習ができなかったから、といって教育の重要性を強調し、いわゆる戦後の教育ブームの火つけ役の役割を果した。
 国民学校の一年間の年間行事について当時どんなことが行なわれていたか、「増穂小学校沿革誌」の昭和十七年度と十九年度の記事のなかから整理してみると、表63のようになる。
 
表63 増穂国民学校の年間行事(昭和17・19年)
行事
昭和十七年度  行   事昭和十九年度  行   事
4月1、入学式  太政大神入学児童参拝
  職員異動
30、満州国建国十周年記念式
1、入学式    職員異動
8、大詔奉戴日 11、昭憲皇太后三十年式年祭
同 部落登校班編成 13、全校勤労日 18、防空非常訓練
510、大網校に於て第二部会体操大会
23、日向校職員本校参観 24、養蚕休業
5、尚武祭挙行 11、心身鍛練 行軍実施
23、教育課長巡視
61、郡内競技大会 23害虫駆除
26~7/9 農繁期休業
731、学校長 転任、小原義正 国民精神文化講習所主事ニ任命サレル、19、郡内校長十三名来校 視察
21~8/20 夏季心身鍛練期間
8同 右
95、新旧校長歓送迎会、
下旬 本村出身兵士へ慰問文を出す、
13、大日本青少年団 団長 鈴木孝雄閣下来ル、
22、模型飛行機飛翔大会
1012、大網校に於て 第二部会主催 体育大会開催 本校優勝する
29、秋季大運動会、30、学制発布七十周年記念式挙行
15、国民学校青少年団 県知事ヨリ表彰
20、秋季連合体育大会
118、山武郡児童競技会
28、徴兵制度実施 七十周年記念式及慰霊祭挙行、
6、体錬科指導ノ視察アリ(県・郡内関係者)
128、大東亜戦争一周年記念村民大会
18、学校衛生研究会
27、全村麦ふみ作業 青少年団協力
15、壮年団 青少年団 合同詩吟講習会
14、山辺校校長実方弥氏満蒙開拓青少年義勇軍選出講座ノ為来校、高等科児童ニ講演、
22、本日ヨリ二月四日耐寒訓練開始
10、寒げいこ、
27、土気町ニ集団疎開セル児童達へ野菜慰問ヲナス、
220、本日より三日間千葉県国民教育冬期講習会開催土屋教頭出席
23、敬神大会(県主催)のため学校長出席
16~17 空襲警報発令下ノ情況ニ依り休校
32、学芸会
5、思想対策講習会
上旬~中旬 上級学校入学試験~好成績
23、修了証書授与式
16、ワラ加工競技大会 開催
20、本日ヨリ中等学校入学試験開始サル
23、修了証書授与式挙行
(「増穂小学校沿革誌」)

 この内容をみると当町域は地方の町村として、比較的安定した学習が展開されていたことがわかる。しかし夏休みは夏季心身鍛錬期間で、その内容は「夏季攻勢計画樹立、教科補充(おさらい・予習)、堆肥製造、ワラ工品製作強調、耐熱行軍、水泳訓練、旱害作業、」とあり、攻勢とか行軍とか軍事用語が好んで用いられているところにも、この時期の特色があり、「学校は戦場に通ず」とか「教室は戦場なり」と呼号した当時の日本の教育は、けっして正常な状態であったとは思われない。
 そして昭和二十年になると三月には「決戦教育措置要綱」により、国民学校高等科児童も一年間、原則として授業停止となり、同年四月から高等科児童はもちろん、初等科高学年まで朝から勤労作業に出動することも多くなった。(千葉県教育百年史・第二巻)当町の学校も本土決戦にそなえた軍隊が宿舎として教室の一部に入り、学校は学習の場としての十分な機能をはたすことができなくなってしまった。またこの頃になると米軍機の来襲も多くなった。「増穂小学校沿革誌」昭和二十年七月十八日の記述には「北側五教室護北隊(ごほくたい)使用、初一、二、初三男教室移転二組一学級編成、本日軍ニ協力不耕作田代(しろ)作リヲナス。」、また同年七月廿日には「白兵戦技訓練講習ニ古山、上代、中村嘉、小川先生出張」、八月四日「空襲頻繁トナリ授業殆ド出来ズ、生松脂(なままつやに)採取後、山林中ニテ多少行ヒツツアリタルモ、本日左記電話通牒アリ、
 1,夏季期間中八月一日~八月末日初等科児童授業ヲ停止シ、自家作業ニ従事セシムルモ差支ヘナシ、
 2,増産活動ハ継続スルコト、
 3,職員モ児童モ相当休養スル様計画スルコト、
 本通牒ニヨリ自家作業ヲ主トシ増産ニ敢闘セシメ、生松脂ノ採取ハ毎朝行ハシム、職員交代ニテ之ヲ指導ス、」
 昭和十六年から発足した国民学校教育は、こうして、当初予期していた以上のきびしい戦時体制にまきこまれ、同年八月十五日を境いにして戦後の新教育体制へ移行していくことになったのである。