(2) 青年学校

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 小学校課程の義務教育を修了し、徴兵検査を受け兵役に至るまでの間に既習の学力を低下させず、相応の知識教養を身につけ、地域社会の一員としての常識ある態度を養う意味で、何らかの教育をほどこす必要があることは早くから認識された。このひとつの方法として往時は実業補修学校などが設置されていたが、昭和十年(一九三五)四月一日に青年学校令が公布され、実業補修学校や青年訓練所の役割はここに統合されることになった。『千葉県教育百年史、第二巻』によると、青年学校令第一条には「青年学校ハ男女青年ニ対シ其ノ心身ヲ鍛錬シ徳性ヲ涵養(かんよう)スルト共ニ、職業及実際生活ニ須要ナル知識技能ヲ授ケ、以テ国民タルノ素質ヲ向上セシムル」ことを目的とするとあり、その課程は普通科、本科、研究科、および特別の場合その上に専修科を設けることができるとされている。在学期間は普通科二年、本科五年(女子三年)、研究科一年と定めていた。しかし本科は地域の状況によって、男子四年、女子二年にすることもできるとされ、普通科には尋常小学校卒業者、またはこれに相当する素養のある者として、本科は普通科の修了者、高等小学校卒業者およびこれに相当する素養のある者を対象とし、研究科には本科卒業者を入学させることとなっていた。
 学習内容は普通科の場合修身及び公民科、普通学科、職業科、体操科の四科で、女子には家事裁縫科を加え、本科では男子に対し、体操の代りに教練科を課すこととした。研究科は、普通科および本科で履修した訓練課目により適宜定めることができるが、修身と公民科は必修とした。設置者は道府県、市町村、町村学校組合の他、商工会議所、農会、その他これに準ずる公共団体、私人も青年学校を設置できるとされている。
 また陸軍省は昭和十年八月省令によって「青年学校教練科等査閲規程」を出し、二年に一回は査閲を受けることを定めた。
 当町の場合『瑞穂教育のあゆみ』の中の瑞穂小学校沿革年表に、昭和十年七月に青年訓練所を廃止し、青年学校を併設したことが記されている。
 旧大網町の場合は、昭和十年六月十八日付で招集された同年第三回町議会で第一号議案として青年学校設立ノ件、第二号議案として女学校設立ノ件が審議され、その議事録には次のように記されている。
 
 史料
  (表紙)
  昭和拾年
   議事関係文書綴    大網町役場
 昭和十年 第三回 大網町会会議録
 一、大網町長石野操一郎ハ昭和十年六月十八日附ヲ以テ、同月二十三日午前八時左記議件ニ就キ、本町会ヲ大網町役場ニ招集ス、
    議件
  一、青年学校設立ノ件
  二、女学校設立ノ件
  三、農村其ノ他応急土木事業町村道修繕工事施行ノ件
   (下略)
 一、出席議員十一名ニシテ其氏名着席番号左ノ如シ
  一番岩佐春治、 二番板倉幸進美  三番田辺房吉、 四番土屋甫  五番川島琢  六番富田直恵
  七番渡辺秀蔵  九番梅沢嘉市郎  十番清水清  十一番栗原悌司  十二番麻生喜重
 一、欠席議員左ノ如シ
   三木正之助
 一、議長 町長石野操一郎ハ午前八時議長席ニ着キ開会ヲ宣シ、町村制第五十八条第二項ニ依ル町会々議録署名人二名ヲ、選挙ニヨラズ議長ニ於テ指名セントシ、満場ノ同意ヲ得テ左ノ如ク指名セリ、
   三番田辺房吉  五番川島琢
 一、議長 石野操一郎第一号議案ノ附議ヲ宣シ、書記ヲシテ之ヲ朗読セシメ提案理由ヲ説明シ、尚小学校長古谷喜藤次ヲ以テ補足説明ヲナサシム、
 一、七番 渡辺秀蔵提案主旨ハ説明ニヨリ充分了知セリ、本案何等審議ヲナスベキ余地ナシ、読会ヲ省略シ直ニ可決スベシト述ブ、
   一番、五番賛成ト呼フ、
     満場異議ナシト呼ブ、
 一、議長 石野操一郎満場異議ナキモノト認メ本案ノ可決セラレタル旨ヲ宣ブ、
 一、議長 石野操一郎第二号議案女学校設立ニ関スル件ヲ附議スル旨ヲ述ベ、書記ヲシテ之ヲ朗読セシム、
  本町農商補修学校女子部ハ従来町民熱心ナル支援ト教員ノ努力ニ依リ、本町子女ノミナラズ四隣町村ヨリ来リ学ブ者多ク、卒業生ノ家庭ニ於ケル成績頗ル良好ニシテ、農村家庭ヨリ信頼ヲ博シツツアリ、然ルニ今般青年学校ノ設置ニ基キ自然廃校ノ止ムナキニ至レリ、然シナガラ此ママ廃止スル事ハ農村子女ノ為遺憾ニ付、此際相当経費ノ支出ヲナシ実業学校程度に昇格セシメ、真ニ農商家庭ノ主婦トシテノ技能、知識ヲ授クル事ハ我地方現下ノ状況ニ対シ最適当ナル施設ナリト信(ママ)シ、〓定セル所以ヲ述ベ、尚経費ニ関シテハ予算討議ノ際充分審議ノ上賛成アランコトヲ希望スト述ブ、
  一、七番 渡辺秀蔵 本案ハ農商補習学校廃止後本町ノ採る可キ最善ノ処置ナリト信ズルモ、町当局ハ今回提案セシ範囲ニ於テ充分ナリト思考スルヤト述ブ、
 一、議長 石野操一郎 今回ノ提案ノミヲ以テ満足スルモノニ非ザレトモ、昨年旱害ヲ受ケタル今日直ニ充分ナル設備を為スハ、町民負担ノ過重ヲ来ス恐アルヲ以テ、本年度ハ最少限度ニ止メ、来ル十一年度、十二年度ニ亘リ校舎及附属建物ノ増築、教職員ノ増聘、備品ノ購入ニヨリ内容整備ヲ計画セルヲ以テ、各員ニ於テモ充分研究シ置カレタキ旨ヲ希望シ、尚詳細ナル数的補足説明ハ古谷学校長ヲシテ之ニ当ラシメタリ、
 一、七番 渡辺秀蔵 説明ニヨリテ詳細了承セリ、次年度ニ亘ル計画ハ最適ナルモノト信ズ、然シテ本案ハ審議ノ余地更ニ無シ、宣敷ク読会ヲ省略シテ直ニ可決セラレンコトヲ望ムト述ブ、
 一、六番 富田直恵 校名ニ付キ尚審議スベキ余地ナキヤト述ブ、
 一、議長 石野操一郎 校名選定ニ付キテハ各地同種ノ校名ヲ調査詮議シタルモ、原案名称ノ最適当ナル可キヲ信シ、斯ク撰定シタル次第ナリト述ブ、
    原案賛成ノ声多シ、
 
 この町会の内容をみるに、青年学校の制度ができたので、従来の補修学校は廃止し青年学校を設置することが可決承認されている。したがって、記録としてはっきり残っていないが、議事録によって大網町も昭和十年か十一年から青年学校を設置したことがわかる。この一方女子の場合(大網町農商補修学校女子部)は、青年学校ではとりあげない内容が多く、しかも自然廃校となったら、あとはどうなるかということへの対策として、町で女学校(実践女学校)を設置しようということになり町議会にかけられたのである。ちょうど昭和旱魃の直後で農村は苦しい生活におわれ、学校どころではないと言えばそれまでだが、また一面から考えれば、こうしたときにこそ、なんでもできる役に立つ若い女性を育成することの大切さが認識されていたのであろう。
 また「増穂小学校沿革誌」昭和十二年十二月二十七日の記述に、当校が青年学校査閲の会場となったことが次のように記されている
「青年学校査閲となり、増穂・福岡・白里・豊海四青年学校男女生徒の教練査閲行はる。査閲官渡辺中佐殿来校す、」とあり、これによっても右の各地域に青年学校が設けられていたことがわかる。
 『千葉県教育史・第二巻』によると、昭和十三年一月多年の懸案であった青年教育の義務制化は、男子についてのみ実施することについて閣議の了承を得、翌十四年青年学校令は勅令第二五四号で改正公布されたという。
 ここでも青年学校に在学する年令は男子は尋常小学校卒業から徴兵適令期の二十歳迄、女子は十七歳までとしている。この青年学校(普通科)で、年間にどのような科目をどの程度履修するかは、表64に示したとおりである。
 
表64 青年学校 普通科の教授・訓練科目履修時数
    区分
科目
男   子女   子
第1学年第2学年第1学年第2学年
修身及公民科20時20時20時20時
普通学科90時90時80時80時
職業科60時60時80時80時
家事及裁縫科
体操科40時40時30時30時
合 計210時210時210時210時
(『千葉県教育百年史』第二巻)

 また施設面からみると独立校舎をもつものも各地にあらわれ、山武郡成東町の日輪兵舎式校舎は特色あるものとして知られていた。
 当町域での実情は詳細にはわからないが、「増穂小学校沿革誌」の昭和十七年以降の四月一日の記述には、国民学校、青年学校入学式と記されていることからみて、国民学校の校舎(教室)を利用したことがわかる。
 この青年学校も昭和二十年になると勤労動員を命じられ、学習などはできなくなり敗戦と同時に姿を消してしまった。