(1) 日中戦争

956 ~ 969 / 1367ページ
 明治三十七~八年戦役ともいわれる日露戦争で、日本が多大の犠牲をはらって手にした中国での権益は、昭和になると中国国民の自覚とナショナリズムの擡頭に、放置しておけば自然消滅もしかねない状況になってきていた。
 これを最も危機感をもってみていたのは帝国陸軍の現地にあった関東軍であった。国内は昭和恐慌で不景気に見舞われ低迷していた。そこに中国大陸でのこうした情勢が追い討ちをかけるように発生しているのに、日本の国内では政党政治の名のもとに政友・民政両党が政争をくりかえし、国民の政治に対する「しらけムード」がおきていた。こうした雰囲気の中で、軍部が独走しても多少の批判をもっていた人でも「政党政治よりは、ましだ」ということで、政府の政策と矛盾する現地軍の謀略や、独走を容認するような傾向がみられた。こうした日本の情勢は国際的にも批判の対象となって、米・英両国は態度を硬化させていった。
 関東軍の中国大陸における政府軽視の軍事行動は、昭和三年五月の済南事件、六月の満州某重大事件(張作霖爆死事件)から昭和六年九月柳条湖事件へと続き満州事変に発展していった。
 やがて昭和十二年七月七日北京(北平)郊外の蘆溝橋北方地区で、夜間演習中の支那駐屯軍歩兵第一連隊の豊台駐屯第八中隊が、訓練終了後の集合中に実弾射撃を受けたことがもとで戦闘行動に発展した。しかも中国軍は知らないといい、弾丸が飛んできたことは事実であった。しかし両者の主張は嚙み合わないまま国際的には、それまで日本軍が中国大陸で謀略的手段を用いたことから、今回も同じ手を用いたのではないかと疑われた。結局この事件の発端は、現代に至るも未解決のままである。
 戦火は中国大陸にひろがり、当初は数カ月でおわるという軍部の見解とは逆に、次第に中国大陸奥地にまで戦争はひろがっていった。独走する軍部をおさえてくれるだろうという国民の期待をあつめて発足した近衛内閣も、日中戦争の不拡大方針を声明したにもかかわらず、戦争は続いていき、中国大陸の広大さを思い知らされる戦況が続いていった。それは中国の主要な都市や鉄道を占拠しても軍隊が転戦すれば、またもとどおりになるという泥沼戦争であった。
 千葉県下には当時、陸・海軍のいろいろな施設があった。こうした中国大陸のきびしい情況に対応して、各地の軍隊も続々と中国大陸へ動員されていった。

写真 中国大陸へ出征するため営門を出る佐倉57連隊
 
 また国内では、こうした事実はあまり国民に知らされず、戦争協力体制づくりがすすめられ、昭和十三年には国家総動員法が定められ、政府は国会での審議をうけなくても、必要と認めた施策を実行にうつすことができるようになった。
 こうした戦争のきびしさは当町域にも次第にあらわれてきた。「増穂小学校沿革誌」の昭和十二年度末のまとめの記述に次のようなことがみられる。
 七月七日支那事変(日中戦争)の勃発するや、本村より充員召集を受け出征するもの約四十名、本校よりは鵜沢訓導応召し、上海派遣軍に参加し奮闘せらる。学校に於ては国民精神総動員に際し出征軍人遺家族慰問、神社参拝、殉国勇士墓参、慰問文発送、愛国貯金、時局協議会、国体の本義研究会等の行事を実施し、非常に多忙なる年を過したり。
 日中戦争は、この年七月におきて十カ月にも充たない昭和十三年三月の時点で、増穂村から四十名もの青・壮年が戦争に行くということは大変なことであり、当町域の旧町村も大体同様な傾向であったとみてよいであろう。

写真 佐倉57連隊の兵士をのせて宇品(広島県)を出港する第三日清丸
 
 こうした日中戦争の最中にまたひとつの事件がおこった。昭和十四年五月四日の日中に満州国と蒙古の国境でバイカル湖に注ぐハルハ河の国境線で、日本人警官六名を含む二十二名の国境巡察隊が満州国領内(ハルハ河右岸)バルシャガル高地で渡河越境して来た外蒙古兵から攻撃された。相手は約五十名、満州国国境巡察隊は約その半分の勢力で応戦し、これを撃退させた。しかし蒙古軍の背後にはソ連軍が、満州国軍の背後には日本軍があり、この両者がノモンハンで局地戦争を展開した。日本軍は戦力を増強し内地から重砲三個連隊を派遣した。
 このとき当町四天木の片岡宗作の所属していた市川国府台の野戦重砲兵連隊も出動命令をうけ、ノモンハンへ赴いた。現在、片岡家に当時の記録(軍隊手記)があり、これをみると当時の様子がよくわかるので次に引用する。手帳は昭和十四年五月十日からはじまっている。(紙面の都合で、かなりの記載省略)片岡宗作はこの日、下士官候補の下命を受けた。
 
 史料        片岡宗作の手記
 昭和14・5・10 水 晴 午前聯隊長殿 営内巡視 内務實施
      夜間演習、西練兵場より松戸迄延線一時間廿分、撤収一時間廿分、帰営十時
 昭和14・5・13 土 曇 午前数学、国語試験、九十点位ノ見込、午後内務書ノ学科、中隊長殿申告、人格ヲ作レ、
     5・14 日 雨 九時父面会ニ来タル、午後面会終了後毛筆ニテ御勅諭ヲ写ス、
     5・29 月 軍紀教練、分隊射撃正確、午後分隊射撃、操作不充分、照準点ノ方向へ眼鏡ヲ向ケル、
     6・24 土 動員下令 郵便物厳禁
     6・26 月 曇 被服返納全部終ル、
      軍馬徴発、自動車徴発、
      感想、戦地ヘ行ク気持トテ割ニ変ラヌ、富士ヘ演習ニデモ行ク気持デアル、
     7・2 日 晴 朝六時父来タル裏門ヨリ入ル、十時頃帰ル、午後東京ノ兄小石川ノ兄来ル、五、〇〇 二、〇〇 門ニテ行合ウ、一時半寝タ、
     7・3 月 晴 軍装検査十二時半終ル師団長閣下、旅団長閣下 三時半ヨリ聯隊長殿訓詞、大隊長訓詞(ママ)、軍紀ノ厳正、飲食物ニ注意、
 昭和14・7・4 火 八時半呼集、九時出発、松戸駅ニテ積込、四時五十分出発、九時箱根、国府津、十時熱海、沼津、
     7・8 土 晴 五時釜山着、七時五十分着陸、十三時半手荷下シ終リ、
     7・9 日 晴 四時起床、五時半集合、火砲貨車搭載、八時半終リ、三時ヨリ執銃教練、五時ヨリ引率外出、
     7・13 木 晴後雨 四平街四時半大平原、名モシレヌ花、華、車内九十度六時洮南、七時白城子、十時半ニテ暮レル、
     7・14 金 晴 四時半日出、八時迄寝タ、十時ヨリ興安嶺白樺ノ木、博克図、十二時興安トンネル、一時半伊列克得(イレクテ)、中村大尉ノ碑、六時五十分ハイラル着、
     7・15 土 晴 ハイラル九時十五分発、病院ヘ負傷者飛行機輸送、七時半平原ニ露営、海拉爾(ハイラル)市外ヨリ大平原放牧の羊、牛、衛兵
     7・16 日 晴 四時半起床、五時半出発 行軍、ガソリン[ ]イ水、午後四時半照河(テルカ)ニテ水浴、十時照河ヨリ十粁ノ地ニ露営、水ガ呑タイ、蚊ガヒドイ、
     7・17 月 晴 五時起床、六時半出発、二里バカリ林アリ、一時半将軍廟、兵タン部(第三線)、四時四十分発、第一線迄三十粁、六時半空襲サル被害ナシ、
 昭和14・7・18 火 晴 六時起床 射撃準備、水ノ保給、午後休養、蚊ガヒドイ、砲弾ノ音キコエル、十一時ヨリ掩体壕ニ出ルモ砲弾ノ落下激シキ為中止、帰途夕立アリ、
     7・19 水 晴 七時起床、敵射撃盛ナリ、十五時半出発ス、満州軍ノ駐屯地迄、十九時ヨリ掩体掘ル、雨デビショビショ、朝六時帰ル、寒サ甚シイ、始メテ月ヲ見タ、
     7・21 金 晴 本日射撃開始ノ予定ナルモ、外ノ中隊準備完了セヌ為中止、精密準備、衛兵、
     7・23 日 晴 四時半起床、戦闘開始七時半(第一回総攻撃)一番砲手、敵ノ砲弾雨ノ如シ、味方負傷者ナシ、
 昭和14・7・23 日 (続き)
      飛行機ノ空襲アリ、四十発位ニテ耳ガ、ガンガンシテ後方ニ居タ、今日ハ七日目頃ダ、装薬弾ニテ発射セル為火熱ニテ薬莢取レズ発射中止二時迄、此ノ頃ヨリ毎日一回水ノ保給(ママ)アリ、
     7・24 月 晴 七時大空中戦ヲ見ル、敵機ノ落サルヲ見ル、九時空襲セルモ高射砲ニテ撃退サル、敵機落ツ、落下傘敵飛行士捕虜、敵弾雨ノ如落ツ、相当近クナッタ、
     7・31 月 晴 六時半起床、流行歌ノ本ヲ見タ、十時ヨリ掩体掘、一片ノ雲モナシ、射撃ナシ、店ハ八月末ト避暑客デ忙シイダロー、午後三時半頃、敵騎兵二百騎襲撃トノ報ニ接シ直ニ出動セルモ段列方面ニテ撃退ス、七時頃敵爆撃機廿機位空襲セルモ、我高射砲ニテ二機落下焼失セリ、此ノ時落下傘ニテ降リタルモ開カズ、衛兵、今夜ハ十五夜頃ダ月ハ真丸デ光々ト輝キ渡ル、十一時頃ヨリ気温下リ立哨モ寒シ、北満ニテハホトンド雨ヲ知ラヌ状態ナリ、今日頭髪ヲ刈ツタ、気持ガトテモ良イ、
     8・1 火 晴 六時朝食ヲシ砲車移動準備、砲車左側方ノ新陣地ヘ移動セルモ旧位置ニ復ス、段列ヘ米ヲ取リニ行ク、戦友元気ナリ、午睡、三時頃通信ヲ許可セラレテ四通書イタ、大空中戦アリ、
     8・2 水 晴 六時起床、段列ヘ行ク、戦友ノインキヲモラッタ、行ク途中ソ連戦車ノ破壊サレタルヲ見ル、ゴム輪体ニテ機関部ハガソリンニテ焼カレテ居タ、中ニ兵隊二名焼死して白骨化シテヰタ、小銃、機関銃其ノ他ノ砲弾ノアトアリ、昼食後書簡ヲ書ク、三時半頃ヨリ夕立アリ、雨ハ少シカ降ラナイ、段列ヘ飯高准尉殿ノトランクヲトリニ行ッタ、先ニ出シタ書簡ハナヲサレテ返サレタ、グリコ支給サル
 昭和14・8・5 土 曇 五時起床、スグ射撃準備、朝食ハ砲車ヘ腰掛ケテ食ベタ、敵モ今日ハ非常ニ射撃シテヰル、弾丸が自分達ノスグ近クヘ落下スル、鉄帽デモカブロー、八時ヨリ射撃開始、今朝ハ非常ニネムイ、少シ寝ヨー、午睡、分隊長ノ壕ヲ掘ル(七時)、夕食ノ時敵機ノ空襲(砲車ノ下デ食事中)機関銃掃射、爆撃今日始メテ、砲列ハ空襲ヲ受ケ四、二、一分隊ニハ相当機関銃ノアトアリ(下略)、
     8・18 金 霧 五時半起床、六時食事、八時戦闘開始、第三次総攻撃、気球観測目標十五加(中略)、中隊段列ヘ敵弾落下、鬼島上ト(等)兵腕ニ負傷、
     8・20 日 晴 起床六時、六時半頃ヨリ敵機重爆、戦闘機合セテ七十機位空襲セリ、段列方面爆撃サル、真黒ナ煙ガ上ッタ、砲列機銃掃射サル、被害ナシ、九時頃ヨリ友軍機モ敵陣地爆撃、敵砲弾非常ニ飛ンデ来ル、何レモ近キ地点ニ落ツ、壕ノ中ハ煙ト砂ガ飛ンデクル(店、家、岩崎幸三郎、小川周治)書簡ヲ出ス、敵ノ総攻撃ナリ、朝ヨリ休ミナシ、飛行機モ飛ビキリダ、敵ハ左側方ヘ移動シ、ホーイ(包囲)サレタ形ナリ、夕方小隊長ヨリ敵戦車前線千米ノ地点ニ来タトノ報アリ、二中隊ハソーグー(遭遇)戦ニ出発シタ故、決戦ヲ覚悟セヨト言渡サレタ、
     8・21 月 晴 起床六時半、敵今日モ総攻撃ナリ、右翼方面ハ砲煙デ真黒デアル、自分達ノ壕ノ二米位ノ地点ニ十五榴ノ弾丸落チタルモ被害ナシ、昼食後段列ヘ戦車及歩兵ノ乗ッタ貨車、騎兵約六百位襲撃シ、段列ハ引上ル、自分達ハ火砲ヲ千五百位左ヘ移動ス、第一ハ右ヘ千位移動シ襲撃ニ準備ス、六時頃元東部隊騎兵斥候一名来ル、タバコヲ一個ヤッタラ非常ニ喜ンダ、情況ハ敵ハ左[ ]ハ戦車砲ヲカマエ居ルトノ報、衛兵、(夕食十一時半カンパン)、二番立ナリ、十時半頃迄曳光弾盛飛ブ、三時半頃敵戦車壱台段列ヘ来ル、始メテ戦車襲撃ス、此戦車ハ道ヲ迷ッテヰタラシイ、二分隊ノ壕ノ上ヲ通リ一寸止リ、ソシテ又走リ出シテ薬筒置場ニ落チテエンジン止ッタ、衛兵司令ヲ始メ衛兵ハ皆ガソリンビンヲ持ッテ出掛ケタ、ソシテ発砲シテ誰可セルモ返事ナシ、自分ハガソリンビンニ火ヲ着ケテ投ゲツケタルモ途中ニテ消エテ効果ナシ、燈火ニテ上ヲ見ルニソゲキ(狙撃)兵一名死亡シアリ、中ニハ未ダ二名居ル、戦車砲ヲ射ッタ後、手留弾ニテ自殺セリ、手首ハ飛ビ顔及胸ハ血デ一杯デアル、中ニ乗ツテヰタモノハ裸デアル、縄ヲ着ケテ引出シテ砲列ノ前方ニ埋ム、戦車ハ機関銃二ヲ有シ居ルモ一ハ破壊セリ、索引車二台ニテ引キ出シテ観測ノ後方ノ凹地ニ置ク、十一時ヨリ射撃開始、近クハ、二千六百、四千五百、六千、方向ハ中隊段列ノ方向、首線ト反対方向デアル、朝食、昼食ナシ、中隊段列近ヨリ右ヘ右ヘト千位ニ渡リ射撃ス、三時頃聯隊本部附近ニ敵戦車来ル、約二十台位、我歩兵ニ撃退サル、敵飛行機盛ニ飛来セリ、戦車ホトンド帰ラヌノデ検査中ナリ、五時一装食分(二食分)食事来ル、旦半食分位梅干、七時夕食乾パン、グリコ、タバコ二、七時十五分頃ヨリ陣地変換ノ準備、十一時出発、行路北進シテホルステイン河ニ出テ軍橋ヲ渡リ右翼ニ出ル、四時軍橋ヲ渡ル、此ノ際水ヲ貰ウ、目的地到着七時、
     8・26 土 晴 今日ハ少シ風ガアル、起床九時、十時射撃開始、敵十加及戦車、今朝ノ空襲ニテ中隊段列ニテ戦死二名、負傷九名、十一時五十分朝飯ノ残シテ置イタノヲ食ベテ昼食トスル、夕立アリ、一時二十分頃、安藤正市拾ッタ[ ]銃ニテ自分左ノ足ヲ内側ヨリ足ノ裏ニ向ツテ貫通銃創ヲシタ(全治迄十日位)、友軍歩兵ノ援護射撃榴霰弾、夕方ヨリ歩兵右翼方面ニ廻リ夜襲トノ事、衛兵、食事十一時、羊カン、
     8・28 月 曇 寒イノデ五時ニ起キテ焚火ヲセリ、梅干ト目刺ニテ食事ヲシタ、梅干ハ良イ味ダガ、目刺ハ非常ニ塩ガキイテヰル、昼食ヲ待ッテヰタガ遂ニ来ズ、三時頃三島部隊兵二名前線ヨリ来リテ、三島部隊及鷹令部隊第二大隊ハ全滅ト報シ、我々モ良ク此処迄来タト言ッテヰタ、願ハクバコレガ事実デナケレバ良イト思ッタ、夕食ハ福神漬、タバコ三、羊カン、夜間雨降リ寒イノデ一日外套ヲ離サズ、三時頃葛湯ヲ呑ム、
 昭和14・8・29 火 晴 起床六時、朝食後小隊長ノ壕ヲ掘ル、帰ッテ来タラ伊勢部隊ノ兵二名来リ、ノロ高地及前線ハ戦車ト十五榴ニテ全滅、火砲モ全部破壊サレタ、三・四中隊ハ全滅ラシイ、ハルハ河畔ノ歩兵ハ全部後退シタル様子、三方ヨリ取リカコマレテ戦車ニテ襲撃サレタトノ報、九時半頃鷹司部隊本部ノ軍[ ]壱名ト聯隊長付運転手ガ来テ聯隊本部全滅、聯隊長ハ健在ナリトテ聯隊長ノ刀ヲ持ッテ来タノデ、一分隊ニテ食事ヲ与ヘテ前線ノ様子ヲ聞イタラ、伊勢部隊ノ兵ノ言フ如ク三・四中隊全滅デ、我々ノ前方ハ歩兵モ居ナイトノ報ナリ、砲弾ノ破片ニテ右顔面ヲ負傷シ居レリ、伊勢部隊モヤット負傷ノ軽イ人ダケガ来タノデアル、見ルモアワレナ姿デアル、唯一人トシテ負傷セヌ者ナシ、二大隊ノ生延ビタ人達ハ一人二人トバラバラニ帰ッテ来タ、六時半頃後方ノ観測所ガ引上ゲタノデ、其処カラ炭・米・鮭・梅干・馬鈴薯・干馬鈴薯等ヲ持ッテ来テ分ケタ、干白菜、干ホーレン草ハ段列ヘヤリ調理シテモラウ、官給品キャラメル、箇(個)人壕ヲ掘ル、
        (中略)
      9・16 土 晴 (前略)野崎軍曹殿来リ、日ソ停戦協定ガ結バレタラシイトノ報アリ、(中略)停戦協定結バル、
 
写真 北京城外で冬季演習をする佐倉57連隊の兵士
写真 北京城外で冬季演習をする
佐倉57連隊の兵士
写真 高梁(こうりゃん)畑の中から射撃する佐倉57連隊の兵士
写真 高梁(こうりゃん)畑の中から射撃する
佐倉57連隊の兵士
 
図14 ノモンハン附近地形概要図
図14 ノモンハン附近地形概要図
 
図15 第二十三師団攻撃展開要図
図15 第二十三師団攻撃展開要図
『太平洋戦争戦史叢書』
図16 第二十三師団攻撃展開要図
図16 第二十三師団攻撃展開要図
『太平洋戦争戦史叢書』

 この記録は比較的恵まれた位置に配置された砲兵部隊の一兵士のものであるが、それでもかなり冷静に戦況を記録している。ノモンハンの激戦は八月十九日以降のソ連軍の大攻勢が開始された以降のことであり、この片岡宗作の記録もそれまでは比較的のんびりした雰囲気を伝えているが、八月二十日以降は、きびしい雰囲気を良く伝えている。特に八月二十六日以降は戦場から一人、二人と撤退して来る悲惨な兵士の姿をよくとらえている。国民が、もしこの頃真実を知っていたらどうなっていたであろうか。おそらくこの次におこった太平洋戦争も、勃発しなかったか、別の形になっていたであろう。
 ノモンハンの局地戦争は停戦という形で終了した。しかし、日中戦争はなんの見とおしもなく長びくだけであった。内地の人びとは中国大陸で戦っている兵隊さんにということで、子どもも、大人も慰問文を書いて送ったり、慰問袋を作って送ったりしている。片岡宗作の所属した野戦重砲連隊はこの後、満州国東安省斐徳に駐屯していた。そこへ故郷からいろいろな「便り」が寄せられた。
 次に片岡宗作が受けとった、故郷からの慰問文がそのまま同氏によって保存されているので、これを紹介しておこう。

 
 
     白里町婦人会便り
   大君のためになるべき子供等を
       強く育てん 銃取らぬ身は
一、私達の国防婦人会と愛国婦人会は本年三月三日附を以って解消し、新しく大日本婦人会白里支部が生れました。会員は兵役の義務に準ずるので、廿歳以上の女子全部が入会するのであります。
 そして政府の方針に対し婦人の手で出来ることは何でもこれに協力、実行することを使命とするのであります。
 各区には班を作り其の下に組を作り、増産作業、奉仕作業、防空訓練、草刈りなどにモンペ姿で身をかため、老ひも若きも働く様子は我が婦人会銃後風景の一つであります。
   大勢で勤労奉仕や兵の家
二、本年は春から雨次ぎがよく、田は今一番草の真盛りで、すげ笠の群がそちこちに隠見している。
 田や畑の作物は近年に見られぬ豊作の見込みで、人々の意気は非常なものであります。
   大漁の旗おし立てゝ帰る船
 不漁勝ちであった浜は、夏に入り昨日も今日も大漁だといふかけ声ですばらしい活気を呈して居ります。
 朝は早くから夜おそくまで生売りは体も綿になるほど忙しく働いて居ります。
   お神こしも野戦帰りがかついでる
 七月十九日八坂神社の祭礼も戦時下らしく賑やかに行ひました。
 これらの資料は、片岡宗作が太平洋戦争の勃発により、昭和十七年十一月にラバウルへ出動命令を受けたとき、日中戦争当時満州へ送られてきたものを、故郷へまとめて送付したものの一部である。
 日中戦争は昭和十二年以来続いたまま、昭和十六年十二月八日ついに太平洋戦争に突入した。