(3) くるしい生活

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 昭和十二年(一九三七)七月の日中戦争の勃発、昭和十六年(一九四一)十二月の太平洋戦争の勃発と、その頃の日本は戦争につぐ戦争へとおわれていた。『日本経済五十年史』(実業之世界社、土方成美著)第一編財政の項によれば、太平洋戦争はわが国の総力をあげた戦争であった。わが国は工業、農業、信用、貿易、労力など経済のすべてを戦争目的に動員した。

写真 国家総力戦のパンフレット
 
 しかし、戦争の規模は、所詮国の総力をこえていた。国の財政の大半を軍事力に投入したが、昭和十八年には軍事費の支出はその年の国民所得に匹敵し、昭和十九年のそれは国民所得の二倍となり、日中戦争を含む太平洋戦争の戦費は総計七千五百五十九億円で、実に日露戦争当時の戦費十八億円の四百二十倍にも達した。
 これに対する政府の対応策は間接税中心の大増税と赤字公債の発行であった。しかも敗色が濃厚になると航空機や艦船も多く失なわれるので、補充がより多く必要になるのであるが、もはや戦況に応じて必要な数を補充するのは不可能であった。

写真 新しい税金制度の説明「アイド」昭和17年
 
 そのため戦場においては航空機を例にとれば単機で数倍の敵機と空中戦を交えることになり、それが日本軍機の優秀さやパイロットの強さであると誇示された。しかしそれは緒戦の一時期のことであり、相手が日本軍機を研究し、より優秀な航空機を作れば、矢張り数の多い方が勝つことは自明の理である。
 こうした近代戦の特質を、十分に当時の指導者達が理解していたかどうか問題であるが、すくなくとも表面上はこのことを口には出さず、精神力の高揚を国民に求め戦争指導をしていた。しかし今次大戦(太平洋戦争)のように、消耗戦になれば物量を大量に投入できる方が優位になることは事実(戦況)が明白に示しており、戦闘員である兵士のひとりひとりの勇気やがんばりだけではどうにもならないものがあった。しかもアメリカの国民性に対する認識が、一部のアメリカをよく知っている人びと以外はきわめて不正確で、自由主義の国、自分のいいたいことを主張する国民という見解で、戦争でも国民はまとまらないであろうという判断にたっていた。また、アメリカのような大国でしかも多種多様の人種があつまってきた国であるから、これを戦争遂行というひとつの目的にまとめて指導していくことは困難であろうと推測していた。
 ところがアメリカも自国の特色は十分知りぬいており、なんとしても日本に戦争の第一撃を、と望んでいた。日本海軍の「パールハーバー奇襲」は願ったりかなったりで、しかもワシントンの日本大使館の不手際から、アメリカ政府への最後通告が奇襲攻撃開始一時間以上もたっていたため、日本は外交交渉中に「トレチャラス・アタック(だまし討ち)」を行ったといわれ、「リメンバー、パールハーバー」がアメリカ人の太平洋戦争を戦い抜く合言葉となったことなど、日本があまりにもアメリカを知らなかったという一言につきるであろう。アメリカが巨大な資源と工業力にものを言わせ、国内が一丸となって戦争遂行に邁進すれば、飛行機も軍艦も戦車も大砲も、日本の生産力の及ぶところでないことは、当然のことであり、陸海軍の戦争指導者もそうならないうちに勝敗をはっきりさせたいと考えていたようであるが、現実は全く反対の方向へすすんでいった。
 こうした状況は、日本国内に直ちにさまざまな形で反映してきた。当町域の様子に関し瑞穂小学校の『瑞穂教育のあゆみ』に次のように記されている。
 
  戦争の熾烈とともに毎日のように応召があり、出征兵士見送りのため高学年および該当部落生徒、各種団体役員、国防婦人会員、該当部落民多数で、手に手に日の丸の旗をもち、「勝ってくるぞといさましく……。」を歌いながら大網駅まで見送り、駅頭にて萬歳を唱えて出発、
  ○出征家族の労力奉仕。
  つぎつぎに若人は召集令状をうけ、歓呼の声に送られて出征したので、留守家族の手不足を補うため麦刈り、畑の開こん、水田耕作等には五年以上の児童が教師の監督で、各部落に出かけ労力奉仕に精を出した。
  ○校庭も畑となる。
  食糧増産の最後の段階として、学校の正門から玄関までの通路から南側の運動場を掘りおこして甘藷を栽培した。当時かたい土に高学年生徒が鍬を振り汗を流した姿も憶い出される。
  ○松根油
  航空燃料を補充するため生松脂採取が始まり、学校長はその趣旨、方法を説明し、学童に各部落毎、缶を配給し、松の木に大きくきずをつけ生松からしたたる油を集めるまでに、切羽つまった段階になった。児童がこの作業の実施にかかるや間もなく戦に負けた。
 
 こうして戦争協力の名のもとに、国民学校の児童も一生懸命はたらいた。このことは「増穂小学校沿革誌」などのなかにも見られている。
 また一家の台所をあずかる主婦を中心に組織された大日本婦人会も、各家庭の主婦である会員に戦争協力のためのはたらきかけをしている。
 
 史料一
  昭和十九年八月廿四日  大日本婦人会山武支部事務局
  各町村事務主任殿
     事務連絡ニ関スル件
 愈々敵ハ吾本土空襲を計画し来り、時局は全く重大の折から各位益々御清適奉賀候、陳者先般県支部主催東金国民学校に開催の協議会に於て県支部員より、事務整理が県下郡市支部中、山武郡支部が最劣等であるとの注意有之恐縮仕候、斯の如き注意を受くるは全く申訳無之次第、全く責任を痛感致すものに候、
 昨年度は供出米や貯蓄成績等が当事務局に波及の関係も有之候か、本年度は此不名誉をとり返す様努力仕度、事務局としても再び劣等の評を受度なきに付、各位も御用多端とは存じ候へ共、何卒御協力被下度御願い申上候(下略)、
 
 史料二
  山教一三三号
   昭和十九年九月廿七日
                               山武地方事務所長
  各町村長殿
  大日本婦人会員団体訓練実施ニ関スル件
 大日本婦人会ノ団体訓練ニ就テハ、兼ネテ御承知ノ如ク特別ナル時間ニ拠ルコトナク、諸見学、駅頭送迎、其他市町村ニ於ケル諸行事ニ際シ、同会員ノ集合スル機会ヲ捕ヘ、随時団体行動ヲ訓練致ス旨、聯隊区司令部ヨリ指示有之候ニ付、戦局ノ現況ニ鑑ミ、凡ユル機会ニ於テ 此ノ目的ヲ達成スル如ク御指導相成度、猶本件ニ就キテハ貴町村内、町内会長、部落会長等ニ充分徹底方御願申上候、又右訓練指導ノ為町村婦人会、及町内会婦人会班ハ、平素ヨリ同内在郷軍人分会ト密接ナル連絡ヲ取ラシムル如ク、御指導相成度候、
 
 史料三
  千葉県戦時婚礼改善実践事項
                           大日本婦人会 千葉県支部
 一、実践事項
  千葉県民決戦生活実践要綱ノ徹底ヲ図ルタメ左記ノ必行ヲ期ス、
  (一) 相性、年廻リ等ノ迷信ニ捉ハレズ、相互ニ心身ノ健康ヲ重視シ、健康証明書ノ交換ヲ行ヒ、挙式ト同時ニ入籍ノ手続ヲトルコト、
  (二) 式服ノ新調ハ絶対ニ之ヲ廃止シ、持合服又ハ更生服トシ、左ノ標準ニ依リ儀礼章ヲ付スベキコト、
   (イ) 男子ハ国民服、団服又ハ質素ナル通常服トシ、紋服ハ之ヲ着用セザルコト、
   (ロ) 女子ハ婦人標準服、大日本婦人会々服、又ハ乙型標準服ノ上ニ大和袴、又ハ「モンペ」ヲ着ケ、若クハ通常服トシ、広幅帯ハ絶対ニ之ヲ用ヒザルコト、
   (ハ) 参列者モ亦之ニ準ジ簡素ニスルコト、
  (三) 調度品ハ実用ヲ主トシ、新調ヲ見合セ更生品ヲ本体トシ、左ニ拠ルベキコト、
   (イ) 衣類整理用トシテ行李・衣籠又ハ戦時規格簞笥等一個トスルコト、
   (ロ) 寝具ハ一組ヲ限度トスルコト、
 
 戦況の激化に伴って、当町域にもいろいろな指示が出され、貯金が割当てられたり、主婦も団体訓練のために集められたり、結婚式も質素第一に改善するなど、きびしいものであった。
 食料も配給制度の下で、制限された上に予定どおり配給されないことが多かった。当町域は農村地帯が多いので、都市生活者のような苦しみを経験する人は少なかったが、それでも配給だけで生活する人は食料不足に悩まされた。
 酒やタバコも配給制で、特にタバコは当時の記録をみると二日に一本ぐらいの割当てで、タバコ好きの人は野草をとって乾燥させ、英語の辞書を破いてこの紙で巻タバコを作って代用のタバコを吸った。「代用品」はこの時期、本物のないくるしい生活の中から生まれたことばでもあった。
 一方東京・横浜が空襲されると、この地方にあった工場が分散して地方に移った。
 
 史料四
 婦千葉四〇二号
  昭和十九年十二月四日
                     大日本婦人会 千葉県支部
                        事務局長 小倉太一
 各郡市町村支部長殿
 各推進員殿
   家庭工場設置又ハ家庭作業奨励ニ関スル件
  標記ノ件、別記要領ニ基キ万遺憾ナキ様実施方、至急促進相成度此段及通牒候也、
  追而実施ノ向ハ予メ御報告相成度申添候也、
 一、趣旨
  今日出来タ飛行機ハ明後日、もう「レイテ」ノ空ヲ飛ブ。今ヤ戦場ノ一ツ一ツガ、ガッシリト「レイテ」ノ戦場ニ結ビツイテ居ルノデアル、一ツノ手ガ遊ベバ一人ノ敵ガ「レイテ」ニ上陸スル。「レイテ」は断ジテ喪ツテハナラン、レイテノ米軍ハ一人余サズ海中ニ叩キ込マネバナラヌ、ソレニハ銃後ノ職場ガ最高度ノ能率ヲ発揮シテ、味方ノ莫大ナ損耗ノ補給ヲセネバナラヌ。
  今コソ老若男女ヲ問ハズ、一億火ノ玉トナッテ生産ノ増強ニ邁進シ、国内ニ一人ノ遊休者、一人ノ傍観者アルヲ許シマセン、
  日婦ノ皆様、徒ラニ旧来ノ伝統ニ捉ハレルコト無ク、主婦タル務ニイソシミツツ其ノ余力ノ戦力化ヲ計リ、以テ生産戦ノ勇者トナリ一機、一艦ハオロカ一弾デモ多ク決戦場ニ送リ、第一線ニ奮戦中ノ我子我夫ノ要求ニ答ヘテ米英撃滅戦ニ役立テマセウ。
  二、実施要領
  (一) 家庭工場ノ設置ハ家庭生活ヲ基礎トシテ其ノ設置方ヲ促進スルコト、
     家庭生活ニ於ケル主婦ノ創意工夫ガ家庭労力ノ源泉トナリ、家庭工場運営上ノ勤労管理ノ基礎トナルヤウ指導セラレタキコト、
  (二) 家庭工場、家庭作業ノ奨励ハ、家庭労力ノ生産化ト共ニ貯蓄化ヲ目標トシテ行ヒ、貯蓄源ノ涵養ニ資スベキコト、
    (中略)
  (四) 家庭工場設置ハ時局ノ要請、土地ノ状況及各家庭生活状況ニ即応スベキコト、
    イ 作業ノ内容ガ時局ニ即応シ且ツ婦人ニ適当スルモノナルコト、
    ロ 作業ノ種類ハ土地ノ情況ニ依リ藁工品、軍需生産品(航空器部分品、軍用縫製品作業等)、日用生活用品作製(衣料補修工場)等、家庭労力ヲ戦力化スベキ総テヲ包含セシメ、狭義ノ軍需品ニ限定セザルコト、
 
 この史料は「家庭工場」の設置に関するもので、工場地帯の専門工場で生産すれば無駄なく大量に生産できるのであるが、空襲にあえば失うものも大きいので、分散策のひとつとしてこうした計画がたてられたものであろう。実際どの程度実現したか不明であるが、あまり実績はあがらなかったらしいことは、当町域にそのあとがほとんど残っていないことからも推察できる。
 また戦争の激化に伴い各家庭から金属回収が行われ、各家庭にある使用しない鍋や釜から、習字に使用する文鎮に至るまで、実費で回収するということになった。資源のない日本が戦争を遂行していくためにはやむを得ないことであった。そしてこれに代って土釜や土鍋が使用されるようになった。

 
 
 また農村に要求されたことは食料の増産であった。国や県が要求して来る米の供出量は農家にとって、大変な重荷であった。しかも戦況がきびしくなるにつれて割当量も増大し、農家が保有する飯米にまで制限をつけてくるようになった。しかし当町域の人びとは「国のため」ということで、多くの人がこれに協力した。特に農業要員を指定し「農業生産統制令」を発動し、この戦争を勝ち抜く為に食糧、木材、薪炭の増産を命じ、農民は前記の如く芋飯、菜飯を食べても指示された供米を完納した。

写真 米の供出(地挽勝三氏提供)
 
 またこうした農業生産のみではなく、若者を勤労奉仕に半強制的に動員した。次の写真は山辺村青年団員が現在千葉市にある千城療養所建設の整地作業に動員されたときのもので、勤労報国の旗の下に「国の為」といわれ奉仕作業に尽力した。戦争の激化に伴い、此の中にもやがて戦地に赴き、戦死又は戦病死した何人かの人の顔が見られる(地挽勝三氏提供)

写真 山辺青年団の千城療養所整地奉仕作業
 
 米軍機による空襲も、当町域の住民をくるしめた戦時中の忘れることのできないできごとのひとつであろう。
 当町域旧大網町には空襲に備えて防空監視哨がおかれていた。本部は東金におかれていた。昭和十七年四月十八日十二時二十四分、ドウリットル中佐(当時)を指揮官とするアメリカ陸軍機B25による東京初空襲のときに、九十九里方面より侵入した一機を発見し通報したのは、この大網監視哨であった。この時旭方面から侵入したB25を発見した旭監視哨の発見報告は、銚子本部がこれを信用しなかったため誤報を流してしまった(『旭防空監視哨の記録』・福原勤著・昭和五十四年)。大網監視哨の場合は東金本部へ直ちに伝えられた。なお、大日本婦人会千葉県支部は空襲に備えきびしい勤務を続ける監視哨の人びとを慰問した。

写真 監視哨(大網 小関祐次家所蔵)
 
  昭和十九年十一月八日
     大日本婦人会千葉県支部
      副支部長 目賀田光
 大網町長殿
  防空監視哨慰問ニ付御依頼ノ件
 空襲必至下寒暑風雨ヲ冒シ、日夜寝食ヲ忘レテ防空ノ重任ニ徹シツツアル御地監視哨員ヲ御慰問激励ノ為、県支部役職員数名左記ニ依リ御伺ヒ申上候間、御了知相成度、尚時局柄生産増強ノ為御多忙ノ折、決シテ御構ヒ無之様願上候、
     記
慰問監視哨名 大網
慰問日時 十月二十八日九時三十分本千葉駅発追テ警報発令後前日正午マデ解除セザルトキハ延期ト致シ、更メテ御通知可致候、
 
 この当時は、まだB29による空襲も高々度による爆撃で、当地の人びとも高い空を銀色のスマートな四発爆撃機が、飛行雲をひきながら飛んでいく様子を他人事のように見ていた。しかし、昭和二十年になると事態は急変してきた。三月九日夜半から十日にかけ東京大空襲が行なわれ、東京の下町は火の海と化した。半焼けの紙片や灰が当町まで飛んで来たといわれる。大日本婦人会千葉支部は、右のような空襲罹災者救護を県下市町村支部長宛に発した。

 
 
 しかし、二月に入ると他人事ではなくなった。硫黄島を基地としたアメリカ陸軍の戦闘機P51が九十九里方面から侵入し、我もの顔に地上に機銃掃射をくわえていくようになった、十枝雄三の手記によると昭和二十年二月十六日に「敵小型機襲来、一千機上谷其他に友軍機墜落、宮ノ台主婦死亡」翌十七日にも二十五日にも空襲があったとある。
 こうしたなかで大網駅は八月三日飛来した艦載機に襲われ構内で機関車三台が銃撃で破かいされ、高橋機関士(千葉市誉田出身)が犠牲になった。人びとは田畑に出て農作業をすることもあぶなくてできないありさまで、「増穂小学校沿革誌」中にも当時のこの危険な様子が記されている。
 当郡内では、成東駅で爆薬が塔載されていた貸車が銃撃され火を発したため、駅員・軍人が消火作業にあたっている最中に引火爆発して多くの犠牲者が出た。終戦の日のわずか二日前のできごとであった。
 このようなできごとの中で、人びとはもはや敗戦は時間の問題と思わざるを得なかった。それはいつ、どのような形で現実となるのかが最大の関心であった。それが天皇陛下の玉音放送という形で意外に早くやってきた。もうアメリカ軍の本土上陸作戦を心配することも、爆音を耳にすればハッとして空を見上げる必要もなくなったことを思い、平和のおとずれを喜び合った。