昭和二十年(一九四五)八月十五日正午に天皇の玉音放送を聞いた人びとは、わが国のポツダム宣言の受諾、無条件降伏を知った。
天皇陛下が直々に放送で敗戦を告げられたため、陸海軍の一部にこれに反対する動きもあったが、あまり大きな事件にはならずに、比較的平穏のうちに数日が過ぎていった。
当町域における当時の様子を伝えるものは、瑞穂小学校の『瑞穂教育のあゆみ』の中にある「終戦とその直後」が印象的であるので次に引用する。
昭和二十年八月二十一日
一億必勝の信念に燃えての戦いが無条件降伏となり、国民は虚脱状態、さまざまのデマが飛ぶ中で、学校長は四百の児童を集めて陛下の御言葉を伝えた。われわれの前に拡がるものは激しく困難なる暗き運命の道である。ひたすらに全身の熱情を傾けて己の道を進み、切り開いてゆかねばならぬ。諸君に期待しなければならないことを諄々として諭した。
○学校備品の焼却
日本占領軍司令官マッカーサー将軍、今後すべてがマッカーサー司令部より発せられる。戦々恐々として神国思想、国体明徴、戦争に関係あるもの、歴史書物等々貴重な書類や図書に至るまで焼却した。いまここに至り沿革史の編集についても資料を失い惜しみてもあまりある。
○御真影の奉納
現人神たる天皇の御写真と国民教育の根幹として明治以来日本人の生活を規制した教育勅語を、各学校(長脱カ)は一斉に山武地方事務所に白手袋とモーニングの魏々しい姿で持参した。
なお「増穂小学校沿革誌」によれば次のようなことが記されている。
(昭和二十年)
十二月卅日本日御真影奉還ス
御真影奉還式
一、一同着席、 二、楽音ニヨリ一同敬礼、 三、開式ノ辞、 四、国歌斉唱
五、一同奉拝、 六、式辞、 七、来賓奉拝、終了後各学級別奉拝
奉拝終了後役場前道路上ニ整列奉送ス、
(昭和二十一年)
一月十七日削除教材抹消、
二月七日「公民ノ集ヒ」(主とシテ婦人参政権ニツキ)開催、本日ヨリ各部落別ニ開催、校長、教頭出張、
三月二日学芸会開催、各学級共熱演、又熱演、観衆会場ニ溢レ立錐ノ余地ナシ、爆笑ト感涙ノ中ニ午後四時終了セリ、
三月七日英霊写真各家庭ニ返還、
また「山辺小学校沿革誌」によれば、昭和二十二年の項に「戦時中校舎を兵舎に併用し、その破損甚だしきため全村民の寄附金によって校舎の大修繕をなし、校舎と宿直室との中間に応接室兼衛生室を増築す。」とあり、戦時中の影響が残っている様子がわかる。
前掲の「増穂小学校沿革誌」一月十七日の記事にある「削除教材抹消」は、戦時中に使用した国定教抖書を墨でぬりつぶしたことを示している。今は「墨塗り教科書」として知られている。
戦後の当町域の学校がすべて『瑞穂教育のあゆみ』にみられるように、終戦時にそれまで保有していた教材や資料を、米軍が来て調べられては大変だということで、焼却してしまったことは町史編纂事業の上でも大変残念なことであったといえよう。
この外、終戦後の混乱は外地に行っていた人びとの引揚問題であった。一日も早く帰ってきてほしい、また敗戦後の混乱で生死もよくわからないことも親族の心配のたねであった。そうした人びとに時おり伝えられるのが、次のような先に帰還した人の情報であった。
事務連絡
昭和二十年十二月二十二日
各町役場御中 山武地方事務所
左記写ノ通船橋市本町四ノ一八〇一吉原吉弥ヨリ通知有之ニ付、該当者有之候ハバ父兄ニ御通知相成度、
[写]
拝啓小生此程比島より帰還せし者に御座候、小生と同一天幕村に生活せし左記之者は極めて元気にて帰国を待居候、何卒父兄に此の旨御伝へ被致度候、
山武郡 高橋徳二
〃 山本督
〃 瀬川豊
〃 土屋喜八郎
小生持参せし名簿は、村が雨と汗との為不明と相成、各自留守宅に通知する能はざるによる。
これをみると、外地にあって故郷のことを思い、先に帰還する者へ通知を依頼したものであろうが、比島(現・フリッピン)より帰る途中で雨と汗で住所が読めなくなってしまったという後の文は、当時の生々しい様子を伝えてあまりあるものがあろう。
また戦後の調査で、次のようなものもある。山武地方事務所よりの調査依頼で、「貴管内ニ於ケル満州事変以後ノ戦歿遺族戸数左記欄内ヘ適宜記入ノ上、一月六日迄ニ当事務所ニ報告相成度」という要請に対し、大網町役場の調査結果は次の通りであった。
区分 遺族戸数
軍人 二四戸
軍属 一戸
計 二五戸
備考 一家族内ニ弐名ノ戦死者一戸アリ
なお、「在外地外国邦人引揚者調査」昭和二十一年二月五日ヨリ三月末日までの結果は次のようになっている。
大網町役場
1、引揚者総数 男七名・女六名計十三名
2、年齢別
十五歳未満 男三名・女二名
十五歳以上五十五歳未満
男二名・女二名
五十五歳以上 男二名・女二名
3、原在留地別
朝鮮 男四名 女四名
満州 男三名 女二名
4、職業別
無職 男五名 女六名
技術者 男一名
銀行会社員 男一名
計 男七名 女六名
こうして続々と外地から引揚げて来る人びとの様子をみると、帰還後の生活も決して楽なものではなかった。国や県も市町村に実態把握の調査はするが、実数が把握できても、それらの人びとに対してほとんど対処する方法はなかった。国家自体が敗戦により大きな打撃をうけているのであるから、大変な苦労をして内地に引き揚げて来た人々に対しても、また大切な家族や働き手を戦争で失った遺族に対しても、ほとんど「雀の涙」程度の交付金を与える程度で、それで生活を維持することなどほとんど不可能であった。
戦時中の財政的な無理が、敗戦と同時にインフレとなって国民生活を苦しめた。人びとが戦時中の苦しい生活の中から無理をして預けた貯金や預金もまったくの無価値なものになってしまった。その上政府は昭和二十一年二月十六日「金融緊急措置令」を発して預貯金の支払い停止、五円以上の日銀券をすべて三月二日までに金融機関に預け入れ、新紙幣(新円)を発行し、旧紙幣は証紙を貼付してないもの以外は無効とする。封鎖された預貯金からの引出しは世帯主は三百円、世帯員一人に付き百円にかぎり認めるという非常措置をとって、インフレの進行を抑えようとした。事実この方法はかなり効果的ではあったが、一般の人びとの生活はより以上に苦しいものになった。このような経済面の影響を最も直接に受けたのは、海外からの引揚者や戦没者の遺家族であった。
こうしたなかで、当時の日本人の多くはアメリカ軍が日本に進駐して来れば、どんなひどい目にあわされるかと内心大きな不安をもっていた。しかし一般のアメリカ軍人は意外に紳士的であった。占領政策もきびしい一面も当然あったが、日中戦争以来、ずっと軍国主義の規律万能の生活を体験した当時の人びとからみるとともかく自由であった。
そのため有史以来体験したことのない敗戦と、他国の統治支配をうけることに精神的打撃をうけていた人びとも次第に自信をとりもどし、日本再建のための意欲をわきたたせていった。
連合軍最高司令部(GHQ)は、日本の民主化という目標のもとに次々と新しい方針を政府に指示してきた。