二 占領軍の進駐

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 千葉県に連合国軍が上陸するということは通報されていなかったが、昭和二十年八月二十八日に突如館山へ上陸することが伝えられた。『千葉県警察史・第三巻』によれば、この連絡を受けた内務省は本県警察部に連絡し、警察部は県外から応授を受け六百人の警備隊を編成して館山に赴き旧海軍基地に配置した。八月三十日連合軍の一部約二百人が富津海岸に舟艇で上陸し、九月三日ジュリアン・W・カニンガム准将を指揮官とする米第八軍騎兵第百十二連隊軍約三千人が午前九時半以降館山海軍航空基地と洲崎海軍航空基地に上陸した。この後米軍の指令により一切の学校、劇場、酒場は閉鎖され、市民は午後七時から翌日午前六時まで外出を禁止された。このような制限もその後九月五、六日に行なわれた双方の交渉によって次第に緩和された。
 当町域の近くでは、茂原海軍航空基地に約六三〇名の米兵が館山から進駐して来た程度であった。
 連合軍は当初日本進駐後、直接軍政を実施する構想をもっていたが、予想以上の平穏さと日本人の間に混乱がないことを知り、当初の方針を緩和させた。
 昭和二十年十月二日東京に連合国最高司令部が設置され、日本統治の指揮系統が確立した。これに対応し十月三日連合国軍の軍政組織に対応する形で、千葉県には知事を委員長とする「千葉県渉外連絡委員会」が設置された。また連合国軍進駐地にはその地域を単位とした「渉外連絡地方委員会」が設けられた。その地域は千葉市、木更津市、茂原市、船橋市、松戸市、柏市、下志津の七地区であった。
 連合国軍の県内進駐は十月二十日に大体完了し、同日本県へ軍政機関の先遣隊、第六十三情報部の十人のメンバーが千葉市内にある県農業会事務所に移駐し、さらに十月二十三日館山の第百十二連隊司令部から第八十二軍政中隊が千葉市に移駐し、県庁本館二階の一部を接収し本部とした。昭和二十一年一月この第八十二軍政中隊は、「千葉軍政部」と改称、その後昭和二十四年七月一日従来の軍政局とか軍政部とかいう名称がもはや適当ではないとされ、軍政部を民事部と改称、「千葉民事部」となり米第八軍民事局の直轄となった。こうして本来行政監視の任務をもっていた軍政部(民事部)も指導援助へと方向を変え、やがて二十六年六月その事業のほとんどを日本側に移し、占領統治の行政面の指導に一区切りをつけた(『千葉県警察史』第二巻要約)。
 しかし当町域の白里町を含む九十九里一帯は、昭和二十三年以来九年間米軍の射撃演習場として大きな被害を受けた。
『九十九里町誌』各論編上巻によるとその経過を次のように記している。
 
昭和二十三年(一九四八)三月ごろ片貝町役場の前に一台のジープがとまった。米軍将校と通訳が降りて来て「メイヤー・オブ・カタカイ(片貝町長)に会いたい。」という。戦事中片貝海岸に墜落した米軍飛行士の遺体の処置について厳重な捜索があった後だけに、「また、なにか」と職員は色めき立ったが、町長鈴木五平次が面会すると地図を示して「この場所は貴町の管轄か。」という。地図はこの地域のもので米軍将校の指さしたところは真亀川北側の海岸であった。町長が「いや、ここは隣町豊海町の区域である。」と答えると無言のままジープに飛び乗り、海岸方面へ走り去っていった。職員一同は何事もなかったのでほっと胸をなでおろしたものである。このジープは豊海の役場には立ち寄らなかったようだが、今にして思えばこれが「基地設置」の前触れであったのかも知れない。また同じころ、婦人連れの米軍一将校を乗せた一台の乗用車が現場の一角に停車し、昼食後一時間付近を散歩しつつ辺りの風景を楽しんでいたという。
その後二週間ほどして突如米軍が乗り込んで来る。占領軍の進駐であった。
当時千葉県渉外課に勤務していた須藤定雄はこの時の状況を「県の渉外課にG・H・Qから一方的に通告があった。国内の各米軍基地を守るため九十九里に対空射撃陣地を築くという。占領軍に逆らうことはできないので、えらいことになったと思いましたよ。」と述懐している。
その後昭和二十三年四月九日夜、真亀海岸に十数台の大型ブルドーザーが持ち込まれ、立木もろとも北から南へ整地が始まり夜を徹しての作業が続けられ、翌朝には平坦な一大空地が出現し、真亀川左岸には土堤すら構築されていた。
こうして真亀川左岸の砂浜とこれに隣接する民有地十五万坪を含む二十六万八千坪(約九十ヘクタール)の土地が米軍射場として接収され、基地の周囲には鉄条網がめぐらされて「日本人立入禁止」の立札がたてられた。
まさに「あれよあれよ」という間であったらしい。民有地の松が無残に根ごと押し倒されても占領軍に逆らうわけにもいかず、ただ手を拱(こま)いて眺めているだけであった。つづいてジープやトラック数十台に分乗した米軍部隊約二百人が到着し、わずか一か月で射場を建設した。真亀海岸には一二〇ミリ砲と九〇ミリ砲計八門が設置され、少し離れた場所に二~三十棟のカマボコ兵舎と司令部が設けられ、フラッグポールには星条旗がはためき、基地は「キャンプ・カタカイ」と呼ばれた。
 
 これから当町域の白里海岸から海上郡飯岡町に及ぶ九十九里浜の漁民の苦難の生活がはじまった。
 平凡社刊行の『綴方風土記』第三巻、関東編(昭和二十八年三月発行)の中に、当時のこの地域の子どもの作文が掲載されているので次に引用する。
 
  すこしのあいまもぬすんで                        山武郡 豊海小6  小栗山博子
  わたしたちの海、九十九里は非常に長い砂浜をもった海岸で、日本一です。源頼朝がけらいに、六町ごとに矢をたてさせたら九十九本たったので、六町を一里として九十九里の名がうまれたということです。ことに豊海町は、夏になるとひじょうに地びきがさかんになる。
   だがこの土地は、米軍のしゃげき場のあるため、近ごろあまり魚がとれないのです。ですから、藤下納屋には沖に出たあぐりと連らくするため、無線電信局までつくって、すこしの時間でも、えん習のはじまるまで、船はいさましくあぐりをしています。
 
 こうした米軍の射撃練習は、昭和二十五年六月の朝鮮戦争の勃発とともに一段と強化された(図17・18)。

写真 米軍の射撃演習(『綴方風土記』第三巻 関東編平凡社)
 

図17 九十九里沿岸漁業―漁場と演習地
(『綴方風土記』第三巻 関東編平凡社)
 

図18 米軍の射撃演習時間帯
 
 当時ラジオ東京の「マイクはさぐる」で九十九里の演習場のことを知った東京の小学生は、『綴方風土記』の中に次のように書いている。
 
     浜のえんしゅう          東京都世田谷区代沢小4  吉田一誠
  夜、ラジオ東京の九時四十分の「マイクはさぐる」というとき、九十九里浜のことをいった。
  そこはアメリカの兵たいのえんしゅう地になって、りょうしさんがさかながとれなくなってこまっている。そこのしちやさんは、朝おかあさんがあかんぼうをしょって、子どものふくをもってきて、いくらでもといってくる。その子どもは、みんな学校に行けないのだ、そこのしちやさんは、百円わたしてふくをとらないでかえすそうだ。このしちやさんはしんせつだ。
  学校では、ソロバンをやっていても、てっぽうの音やきかんじゅうの音がするので先生の声がわからないそうだ。(下略)
 
 こうして米軍射撃演習場の問題は次第に社会的な問題となり、国や県も地域住民の陳情などもあり対策の必要性に迫られた。その第一は、こうした射撃演習によって被害を受けないよう漁民に協力を求めることであり、県は次のようなパンフレットを作成して、漁民に呼びかけた(図19)。

図19 旗信号の射撃演習
 

 
 
 ここで実施された射撃演習は主として対空射撃であった。四十ミリ高角砲や高射機関銃を用いて、電波操縦無人機のつけた吹流しを射撃するのである。ほかに飛行機に吹き流しをつけ、高射砲でこれを射撃するのであった。
 『山武地方誌』は「住民はいんいんたる砲撃に明け暮れ、無人機の轟音によって生活の不安と焦慮の裡におかれ、特に教育、風俗の面に及ぼす影響は大きく、小・中学児童生徒の長期欠席も多数に上っている。又漁業方面については、この演習により、あぐり網九十五統、地曳百五十統、雑漁船六百九十余隻が操業制限を受け大打撃を蒙り、生産は激減し出漁制限による生産減は年間二百五十万貫、金額にして三億円と推定されている。その他個人及び公共建物の振動による被害、町村道の毀損等による町村負担の増大、言語の相違による各種のトラブル、電波操縦無人飛行機の不時着等により経済上、精神上に及ぼす影響は極めて大きいものがある、と記している」。
 表65は、この米軍の射撃演習に伴う砲弾の破片や無人操縦飛行機の残骸物によって被害をうけた漁家への保障金の配分比率であるが、当町域の白里もかなりの被害をうけていたことが裏付けられる資料である。

表65 米軍の射撃演習によって被害を受けた漁家への補償金配分案
 
 さらに『山武地方誌』はこうした地域の問題に対しどのような対策がたてられたかを、次のように述べている。
 
  本件対策については、戦後我が国のおかれた立場を認識しながらも、出来得るだけ最小限に精神的、物質的被害を止めるため、地元民の要請と県当局の善政によって、沿岸水中障害物除去作業に対しては、県は補助金を交付して漁業の高度利用化に努め、昭和二十五年四月から漁群探知機を装置した指導船を配置し、新漁場の開拓及び漁船の誘導に当り、又、演習連絡事務所を設置して現地部隊との直接連絡交渉にあたり、昭和二十七年には豊海町に海岸無線局を設置しもって漁場漁況の連絡を図っている。又昭和二十五年四月、九十九里沿岸代表をもって、九十九里漁業対策委員会が設置され、県当局と協力の上演習場の撤去、又は移転その他損害補償を関係方面に要請したため、別表に示すような補償金が交付されたが、一人当りにすれば僅少な額である。講和条約発効後の補償については「日米安全補償条約に基いて駐留する合衆国軍隊に、水面を使用させるための漁船漁業制限等に関する法律」の規定により補償されることになったが、窮迫の度を深めた沿岸対策として片貝漁港の修築或は「海岸砂地地帯開発臨時措置法」に基いて両総用排水事業による農地の造成、繊維工業の導入等、各般の救済対策を急速に推進し、もって当地方住民の福祉を増進しなければならない。
 
 こうして演習地の漁民に対する補償が少しずつ実現されるようになったが、文中に示されているように全体でいかに多くの補償金であっても、漁家個々人への補償金額となると「雀の涙」程度になってしまったことは表65をみると明白である。
 こうした補償金がどのようにして算出されたか、くわしいことはよくわからないが、牧野家に残る関係資料「九十九里海域における特損補償金仮算出表(案)」をみると(あぐり網漁業の例)大体の基準がわかる(表66・67)。
 
表66 駐留軍演習補償金領収金額一覧 昭27.4~12.31
(南今泉 牧野文雄家所蔵 文書)
漁業種経従の別受領金額住   所氏 名
あぐり網大網白里町南今泉牧野文雄
従業員3,734円  〃牧野文吾
3,512      〃  北今泉糸日谷良助
2,780      〃  四天木斎藤勇
3,398      〃  南今泉長島和
3,550      〃  北今泉川嶋鉄夫
2,443      〃  四天木斎藤藤次郎
2,901    長生郡白子町牛込長嶋松夫
3,627    大網白里町四天木斎藤東一
3,627      〃  北今泉糸日谷留三
2,176      〃  南今泉椎名勇
1,071      〃  北今泉並木安次
305      〃  四天木田村芳春
1,718      〃  北今泉山本茂夫
610      〃  南今泉鎌田修
3,280      〃  四天木小川秋三
3,627      〃  四天木中村竹一
3,627      〃  南今泉御園重男
3,168      〃  北今泉中村曻
225      〃  南今泉嶋田政克
3,474      〃  四天木中村庄一
2,138      〃  北今泉糸日谷卯之吉
458      〃  南今泉鈴木四郎
2,481      〃  南今泉内山春夫
496      〃  南今泉牧野清
(以下略)

表67 旋網漁業 九十九里海域における特損補償金仮算出表 (案)
組合名依存度27 年28 年29 年30 年31 年32 年33 年
統数指 数統数指 数統数指 数統数指 数統数指 数統数指 数統数指 数
銚子4018  720  19  760  12  480  13  520  14  560  13  520  10  400  
外川16  640  15.55622  14.84593.6 13.9 556  13  520  13  520  12  480  
海上郡603.43205.8 3.75225  4.09245.4 4.34260.4 4.37262.2 5  300  4  240  
富浦1  60  1  60  1  60  1  60  1  60  1  60  1  60  
匝瑳郡704  280  4  280  5  350  4.32302.44  280  4  280  4  280  
横芝750.6347.250.6 45  0.4332.250.2216.5 
蓮沼1.0780.250.6347.250.8 60  0.5541.25
鳴浜830.6856.440.5848.140.8469.720.1310.79
片貝1007.1 710  6.53653  6.32632  6.2 620  6  600  6  600  6  600  
豊海3.34334  3.53353  3.58358  3.47347  3.43343  3  343  3  300  
白里4.1 410  4.32432  4.75475  4.05405  4  400  4  400  3  300  
南白亀801.95156  2  160  1.1 88  1  80  1  80  1  80  1  80  
白潟1.75140  1.46116.8 1.51120.8 0.8568  0.7560  1  60  
一松0.2217.6 0.1612.8 
大原729  648  9  648  7.21519.127.13513.367.3 525.6 7.3 525.6 7.3 525.6 
御宿483  144  3  144  3  144  3  144  3  144  3  144  3  144  
豊浜1.3 62.4 1  48  1  48  1  48  0.8540.8 1  48  1  48  
天津383  114  3  114  3  114  3  114  3  114  3  114  3  114  
鴨川3.58136.043.78143.643.68139.845.67215.466.08231.046  228  6  228  
 
83.154,961.7882.894,912.6374.154,529.7372.834,322.1671.784,220.6471.3 4,222.6 64.3 3,799.6 
23,428,500
4,721.79 
23,428,500
4,769.03 
23,428,500
5,172.16 
23,428,500
5,420.55 
23,428,500
5,550.94 
23,428,500
5,548.36 
23,429,000
6,166.18 

年度別
組合名
27 年28 年29 年30 年31 年32 年33 年
銚子3,399,6893,624,4642,482,6372,818,6863,108,5262,885,1472,466,47220,785,621
外川3,021,9462,966,3383,070,1943,013,8262,886,4892,885,1472,959,76620,803,706
海上郡971,7441,073,0331,269,2481,411,5121,455,4561,664,5081,479,8839,325,384
富浦283,307286,143310,330325,233333,056332,902369,9712,240,942
匝瑳郡1,322,1021,335,3291,810,2561,639,1741,554,2631,553,5411,726,53010,941,195
横芝223,105214,607166,80289,439693,953
蓮沼378,924225,338310,330223,5981,138,190
鳴浜266,498229,582360,60358,488915,171
片貝3,352,4713,114,1783,268,8053,360,7413,330,5643,329,0163,699,70823,455,483
豊海1,577,0781,683,4691,851,6331,880,7321,903,9721,903,0871,849,85412,650,025
白里1,935,9342,060,2222,456,7762,195,3232,220,3762,219,3441,849,85414,937,829
南白亀736,599763,046455,150433,644444,075443,869493,2943,769,677
白潟661,052557,024624,797368,597333,056332,9022,877,428
一松83,10561,045144,150
大原3,059,7203,090,3322,684,9722,782,6942,917,5742,916,2183,240,94420,692,454
御宿679,938686,741744,791780,559799,335798,964887,9305,378,258
豊浜294,640228,914248,264260,186226,478266,321295,9771,820,780
天津538,284543,669589,626617,943632,807632,513702,9454,257,787
鴨川642,352685,024723,2751,167,9121,282,4891,265,0261,405,8897,171,967
 
合計23,428,48823,428,49823,428,48923,428,48723,428,51623,428,50523,429,017164,000,000
年度別
組合名
漁港寄付金差引手取金額一統平均
%金額寄附ヲ含ム手取り
銚子204,157,12416,628,4971,493,9601,195,168
外川4,160,74116,642,9651,493,9601,195,168
海上郡232,144,8387,180,5462,240,9421,725,525
富浦515,4171,725,5252,240,9421,725,525
匝瑳郡252,735,2998,205,8962,614,4291,960,822
横芝27187,367506,586
蓮沼307,311830,879
鳴浜247,096668,075
片貝307,036,64516,418,8383,734,9012,614,431
豊海3,795,0078,855,0183,734,9012,614,431
白里4,481,34910,456,4803,734,9012,614,431
南白亀281,017,8132,751,8642,987,9212,181,182
白潟27776,9062,100,522
一松38,920105,230
大原255,173,11415,519,3402,689,1302,016,847
御宿221,183,2174,195,0411,792,7531,398,347
豊浜400,5721,420,2081,792,7531,398,347
天津20851,5573,406,2301,419,2621,135,410
鴨川1,434,3935,737,5741,419,2621,135,410
 
合計40,644,686123,355,314

 無論このとおりに補償金が出されたのではないであろうが、表66の牧野文雄家の資料にみられる個人別の補償金と、表67の一統平均の中の手取りをみると、大体近似の補償金を受領していると判断できる。
 このほか地域に対する補償も幾分かなされている。学校や公共建物に関しては表68のとおりである。
 
表68 高射砲の発射音に伴う補償
補償対象豊 海 町白 里 町片 貝 町合   計
昭和二八年度小学校防音装置
中学校  〃
二、一二二、二〇〇円
二、八六八、四六三円
二、一〇六、四八〇円
 
四、二二八、六八〇円
二、八六八、四六三円
四、九九〇、六六三円二、一〇六、四八〇円七、〇九七、一四三円
公共建物に対する屋根瓦の被害八六六、六七九円四一八、〇〇〇円一〇〇、〇〇〇円一、三八四、六七九円
五、八五七、三四二円二、五二四、四八〇円一〇〇、〇〇〇円八、四八一、八二二円
(『山武地方誌』)

 こうして地域住民を悩ました射撃演習場も昭和三十二年五月八日突如演習が中止され、米軍は引き揚げていった。翌年十月十五日基地用地は返還された。『九十九里町誌』によれば、ミサイルの発達で、高射砲で飛行機を撃ちおとすなど、もはや時代遅れとなってしまったためであったと述べられている。
 朝日新聞、昭和五十九年九月二十八日の千葉版は当時の様子を「房総みなと紀行」の中で米軍訓練が漁民を圧迫していたことを報じている。

写真 朝日新聞(昭和59年9月28日付)
 
 今、当町域の白里海岸は海水浴の客でにぎわい、砲音がとどろき人びとがその日の生活にも困ったあとは全くなく、同時にそのことを体験した人も少なくなり、当時のことを町史に記すのに適した人をさがすだけでも容易ではなかった。しかし、これだけは二度とくりかえされてはならない歴史の一頁であろう。