(1) 農地改革

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 昭和二十年(一九四五)十二月九日、連合国総司令部は、日本政府に対して次のような「農地改革についての覚書」を手交した。
 
  民主化促進上経済的障害を排除し、人権の尊重を全からしめ、かつ数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化して来た経済的桎梏(しっこく)を打破するため日本帝国政府はその耕作農民に対し、その労働の成果を享受させるため現状より以上の均等の機会を保証すべきことを指令せられる。
  本指令の目的は全人口の過半が耕作に従事している国土の農業構造を、永きに亘って病的にならしめて来た諸多の根源を芟除(さんじょ)するにある。その病根の主なるものをあげれば左の如し。
  A、極端なる零細農形態、
   日本の過半数の農家が十五エーカー以下の土地を耕作している。
  B、極めて不利なる小作条件下における小作農の夥多、
   日本農地の四分の三以上が小作ないし自小作であり、収穫の半分ないしそれ以上の小作料を支払っている。
  C、極めて高率の農村金利の下における農村負担の重圧、
   全農村在住の半数足らずが、わずかにその農業収入を維持し得ているに過ぎない程度に、農村負債は農村深く食い入っている。
  D、商工業に対比し、格段に農業上に不利なる政府の財政政策、
   農業金融の金利および農業に対する直接税は、商工業におけるよりもはるかに重圧的である。
  E、農民の利害を無視せる農民ないし農民団体に対する政府の権力的統制、
   農民の利害と懸け離れたる統制団体により一方的に割当てられたる供出割当は、往々にして農民を飯米農ないし、供出非協力利己的農家に追込んでいる。日本農民の解放は、この如き農村の基本的禍根が徹底的に芟除せらるるに至るに非ざれば進行を始めないであろう。
 よって日本政府は一九四六年(昭和二十一年)三月十五日までに、次の諸計画を内容とせる農地改革案を本司令部に提出すべし。
  A、不在地主より耕作者に対する土地所有権の移転、
  B、耕作せざる所有者より農地を適正価格を以て買取る制度、
  C、小作者収入に相応せる年賦償還による小作人の農地買収制、
  D、小作人が自作農化したる場合、再び小作人に転落せざるを保証するための制度、
   右保証策は左記事項に亘るべし、
   (1)適正利率による農村長期および短期信用の普及確保、
   (2)加工業者および配給業者の搾取に対する農民の保護手段、
   (3)農産物価格の安定策、
   (4)農民に対する技術上その他の啓発事項普及の計画、
   (5)非農民的利害に支配せられず、かつ日本農民の経済的文化的進歩を目的とせる農村協同運動の醸成並びに奨励計画、
  E、なお日本帝国政府は上記項目以外において、農民の国民経済への寄与に相応したる農民の国民所得分け前の享受を促進するための必要と認められる計画を提出すべし、
 
 これによりかなりきびしい「農地改革」のガイドラインが示されたわけであるが、日本政府側は、この指示の内容をかなりあまく見て、昭和二十一年三月十五日「農地改革についての覚書」への回答を総司令部へ提出した。この反応は直ちにあった。対日理事会英国代表マクマホン・ボールは同年五月二十九日「農地改革に関する提案」として、対日理事会の席上の私見を公表した。その中に「自分は、日本政府の計画は一九四五年十二月九日総司令部指令の意図実行に失敗していると思う。右指令は全人口の半数が農耕に従事している農地の機構を、永遠に汎り毒し来った致命的な病根を絶滅せんとする目的を以って発せられたのである。この病根の(下略)」とかなり、きびしく日本政府の方針を批判している。
 やがて連合国総司令部は、昭和二十一年六月七日「第二次農地改革に対する勧告」を日本政府に示した。それは何の修飾もない十六項目の指示事項であった。こうなっては日本政府も地主を保護し、有利にことをすすめるのは不可能となり、少しでも早く連合国総司令部の指示していることを実行に移すように方向を定め、昭和二十一年七月二十六日に「農地制度改革の徹底に関する措置要綱」を閣議で決定し、これを実行するようにした。
 マッカーサー元帥は「農地改革法の議会通過は、経済的に安定し政治的に民主的な社会を生み出しつつある日本が、これまで到達した里程表のうち最も重要なもののひとつである。……もしその字句と精神とが忠実に実行に移されるならば、日本農民は自分達が長く待望した人権宣言をこの改革案の中に見出すであろう。」と述べ、さらに「健全穏健な民主主義を打ちたてるため、これより確実な根拠はあり得ず、又過激な思想の圧力に対抗するためにこれより確実な防衛はあり得ない。」と結んだ(『日本経済五十年史』第六章)。
 これによって、小作地の約八割にあたる二百万町歩が約二年間で解放され、自作農になった農家は約三百万戸であった。

写真 農地改革のポスターをみる農民(千葉県にて)
(『1億人の昭和史』毎日新聞社)
 

写真 農地改革について調査するGHQ関係者(印旛村)
(『1億人の昭和史』毎日新聞社)
 
 しかし、こうした歴史的な農地改革が連合国最高司令部の指示だけで進展したのではないことを注意する必要がある。
 昭和二十二年三月五日「全国農民大会」が日本国中の農民代表をあつめ、東京神田の共立講堂で開催された。この会合で旧増穂村南飯塚の富塚敏信は委員長に推せんされ、山武郡鳴浜村(現・成東町)の小倉英司は実行委員に選ばれている。

写真 全国農民大会ポスター
(南飯塚 富塚治郎家所蔵)
 
 この大会で決議された事項の中に「農地改革の徹底遂行に関する決議」があり、その内容は次のようなものであった。
 
  第二次農地改革は実行されつつあるが遅々として進展をみせず、尚且つ幾多の不徹底点や欠陥をばくろしてゐ(い)るのは、我等の手によらざる官僚方式の第二次改革の本領を現しているものと言はざるを得ない。
  依ってわれらは、何より第三次農地改革を断行することを要求するものである。
  一、地主一町歩保有の撤廃、
  二、耕作権の完全確立、
  三、農民による土地管理、共同経営への促進、
  四、山林原野の全面的解放、
  五、農地委員会会計完全独立と全額国庫負担、
  六、土地取上げ脱法行為の徹底的取締り、
  七、市町村農地委員会の委員長には、地主委員は認めざること、
 などをスローガンとして、関係官庁に直接交渉している。
 三月七日、農林省農政局長に面接した一行は、次のような回答を得ている。
 一、農地改革
  1、第三次改革をやる意志はない。
  2、地主の一町歩保有は需給調節上必要だと思っている。
  3、山林解放については採草地、堆肥用下草採集等について、入会権を認める利用解放を考えている。
  4、農地委員会の会計独立について、
   自分は知らなかった。十分に研究をとげて通牒を出すことにする。
 
 こうして、全国農民大会の農地改革に対する第三次農地改革の実施や、未解放であった山林に対する解放は実現しなかった。しかし県下全体を見ると、対象となる農民の見方が一律に統一されていたわけではなく、平地林などは、解放されてしまって、後で対象の範囲外であったことがわかって、トラブルが生じた地域も県内にはあったが、当時は旧小作側の勢力が旧地主側の勢力よりはるかに強大であったため、黙認せざるを得ないような事態がしばしば発生した。
 農地改革は地主の土地を適正価格で買いあげて、小作人に解放するというものであったが、この適正価格が「ただ同然」で、一反歩の水田の価格は当時の「さつまいも」一俵の価格にも及ばないと言われ、それを何年間かの年賦で支払うのであるから、地主側にとっては、大変なものであった。不平をいえば「文句があるならマッカーサーに言え」といわれ、口をとざす以外はなかった。
 この反面、農地改革で田畑を手に入れて農民の生産意欲の向上はみるべきものがあった。『日本経済五十年史』によると「反当収穫量」は次の表69に示されるように向上したことが記されている。
表69 反当収穫量の発展
 種別
年度

(水稲)
大 麦小 麦裸 麦
昭和
9~11
年平均

1,879
 

2,015
 

1,404
 

1,428
 
212,2181,0330,7000,723
222,0571,3820,9611,104
232,2591,7191,1771,297
242.1261,9781,2421,317
252.1631,9051,2701,286
262.0422,2961,4681,421
272,2282,4131,5451,478
302,6272,4141,6031,602
(『食糧管理年報』食糧庁)

 また『山武地方誌』によって当町域を含む郡内の農地改革の実施状況をみると次の表70のようになる。『山武地方誌』は農地改革について次のように記している。
表70 農地改革の実施状況
  区分
市町村
農地改革による移転の田畑別面積
水 田
 
東金市
町  畝
1,154 . 00
町  畝
370 . 00
町  畝
1,524 . 00
土気町70 . 37332 . 10402 . 47
大網町184 . 9066 . 60251 . 50
増穂村131 . 0065 . 00196 . 00
白里町72 . 1959 . 88132 . 07
豊海町77 . 9088 . 10166 . 00
片貝町108 . 8171 . 07179 . 88
鳴浜村78 . 7052 . 50131 . 20
成東町196 . 8943 . 39240 . 28
日向村126 . 91203 . 77330 . 68
大富村91 . 6633 . 06124 . 72
南郷村149 . 11110 . 93260 . 04
緑海村96 . 2453 . 90150 . 14
蓮沼村81 . 5054 . 00135 . 50
上堺村63 . 4340 . 93104 . 36
大平村150 . 9099 . 80250 . 70
松尾町146 . 1544 . 14190 . 29
睦岡村101 . 97482 . 87584 . 84
豊岡村78 . 11113 . 60191 . 71
横芝町136 . 60(41 . 70)
40 . 70
178 . 30
大総村158 . 0961 . 22219 . 31
二川村159 . 60340 . 10499 . 70
千代田村164 . 12264 . 81428 . 93
合 計3,779 . 153,093 . 476,872 . 62
(『山武地方誌』)

  農地改革は、我が日本の封建的伝統の土地所有制度を根本からくつがえした戦後の改革中の一大事業である。即ち働く耕作農民が、其の労働の成果を享受し得るという原則的な考え方から、終戦と共に早くも連合軍司令部から農民解放の指令が発せられ、これを動機として自作農創設特別措置法並に農地調整法が実施され自作農が多数出現した。思うにこの土地制度の画期的改革に我が国農業の発展の道程において、必ず経なければならない一段階であったが、斯る重大な土地制度は平時に於ては到底一朝一夕にして改革されるものではないのであるが、たまたま終戦の結果、このような根本問題が瞬時にして解決され、もって農村民主化と農業生産物の増強及び農業経営の合理化に邁進しつつあることは力強い限りである。
 
 農地改革は地主階級にとっては、先祖伝来の土地をとられ、有形無形の多大の犠牲を強制された。戦後の一時期農地改革はほとんど批判の対象とはならず、前記の如く土地の配分、農民の生産意欲の向上という点から評価されていた。しかし、四十年代以降土地ブーム、列島改造論、土地ころがしなどが問題になって、しかも農村の後継者の問題が出てくると農地改革への評価もおのずから変ってきている。
 働き手がなくて農業ができない、高い農業機械は購入できない、そのうえ人も雇えない、調整区域のため住宅地に地目換えして売ることもできない、そうした場合この土地は再び田畑を求めている特定の財力のある人の手許に集まり、会社組織の新地主のもとに集積されるということが、問題となっている。現実におこる身近な問題を安易に解決すれば、後世に大きな禍根を残すことになるであろう。現時点は、この農地改革の業績をよい結果として残すか、不幸な結果として残すか重大な「ヤマ場」に当っているということに注目すべきであろう。