それは軍国主義的色彩の払拭(ふっしょく)と民主主義路線に沿って児童期から徹底した教育を実施するというものであった。このため昭和二十年(一九四五)十二月GHQは国家と神道を分離すべく指令を出し、教育面では修身や地理・歴史の授業が停止された。
昭和二十一年一月、天皇の神格否定宣言が発せられた。国民は敗戦後の混乱から少しずつ「おちつき」をとりもどして来ていたが、物価高、食糧難など身近な生活問題で苦しんだ。こうしたなかへ戦後の新しい教育の方向をさぐるべく、この年三月(第一次)米国教育使節団が来日した。瑞穂小学校の『瑞穂教育のあゆみ』によれば、「米国教育使節団は、日本の最大の希望は児童だ、子どもたちは残虐な戦争によって、友情と有能さを損われていない。」と報告した。さらに、「日本の民主化は今の大人の手では到底ほんものにはならぬ。子どもによって成しとげられる。」とも記していて、六三制の教育制度がアメリカの指導の下に発足していく経過を伝えている。
一方「増穂小学校沿革誌」には、昭和二十二年度のところに次のように記されている。
四月一日始業式、六三制の実施に伴う新制中学の発足も五月となる模様にして、三月末に行わるべき定期異動も中・小に分れる為、複雑を極め行われず、四月末となる予定、従って受持、教室等前年通りのまゝで一カ月を過す案をもって進む。
四月九日新制中学校設立協議会、於役場 村独立校設立か組合立設立かにつき学務委員、村会議員、準備委員出席の上協議、独立校設置に傾く。
(中略)
五月四、五、六日開校準備の為休業、
五月九日前校長結城武氏は増穂中学校長に、教官鎌田弘毅、鵜沢芳松、三枝せい、四之宮芳郎先生も共に中学校に転出す、
五月十日新校長新任式
入学式九時より、国民学校を改めて小学校とし、ここに新学制第一回の入学式挙行せらる。
一方『瑞穂教育のあゆみ』には、五月十日に、瑞穂小学校と瑞穂中学校が発足し、小・中同居の新学制がスタートした。
これより校舎を仕切り、中学校と小学校が同居し、それぞれ教育基本法の趣旨を実現する努力をつくした。
瑞穂中学校は昭和二十三年四月より組合立大山中学校(現・大網中学校)に合併した。
戦後の混乱はさまざまなかたちで小・中学校にも残り、殺風景な兵舎くさい教室をいかに学習の場としての学園らしい学校にするか大きな努力が続いた。
行政はすべて、マッカーサー司令部指令、学校には県の公文書綴の外に、マ司令部綴があったのもこの頃のことであったと『瑞穂教育のあゆみ』に記されている。
一方、新制中学校の校舎難も地域の大きな課題であった。『瑞穂教育のあゆみ』をみると、小学校併用校舎、軍兵舎の払下げ校舎、養蚕試験場の払下げ校舎と各町村ともども新学制の理想を実現するために苦心した。
しかし、小学校の校舎のいたみも長い戦争の後のことであるから大変であった。
「増穂小沿革誌」昭和二十二年度末の記事に「昨年度(昭和二十一年)より継続の校舎修理も四月半ばにして資金なく中止のやむなきに至り、全ど(ママ)土台を取替へたるのみ、このまま春、夏、秋を越え再び寒風の吹きすさぶ冬を迎へ、ガラス無き教室を如何にせんと役場に交渉せしも資金を得られず、結局、中・小学校長、後援会長の名を以て、児童一人当り二十円の寄付を仰ぎ緊急越冬対策の修理にかかる。十二月十三日より一月六日迄その後二月ガラスの配給あり、二月二十二日には小学校全ど(ママ)ガラスも入り戸締りもできる様になり一応修理も完了せり。来年度は机、腰掛の修理を是非とも行はねばならぬ」と記されている。
これをみると戦後の物資不足はまだ続いており、ガラスが割れても「配給」があるまで、どんなに寒くても子どもはがまんしていなければならないという生活があったことを改めて思い出させられる記事である。こうした苦労は単に瑞穂小や増穂小のみではなく、当町域のどの小・中学校でも同様であったといってよいであろう。
当町域の旧町村の予算の中で教育費の占める割合いは一割から三割程度を占めていることなどからみて、この新学制の発足は町村財政にとって、かなりの負担となっていたであろうことも推察できる。また当町域の旧町村が児童、生徒一人あたりに支出している金額は表71のとおりである。
24年度 | 25年度 | 26年度 | |
県平均 | 円 679 | 円 929 | 円 814 |
郡平均 | 610 | 1,070 | 845 |
増穂村 | 1,272 | 2,074 | 2,072 |
山辺村 | 1,152 | 2,007 | ― |
白里町 | 650 | 706 | 1,158 |
瑞穂村 | 489 | 1,232 | ― |
大網町 | 426 | 918 | ― |
昭和三十年に山武郡町村会が刊行した『山武地方誌』の第十一章教育のところには、戦後十年の山武地方の教育について次のように記されている。
由来山武地方の教育界は活気があるといわれている。教育施策を樹立するにも、一つの行事を決定するにも名論卓説、諤々なるものがある。この気風は山武地方の民性にもよるであろうが先輩各位が真剣に教育を考え、この道に精進して築き上げた、尊い伝統の賜であるといえる。しかし見方によっては、その反面、永続性、持続性に乏しい点もあって、新しい教育が不断に推進していくため時に潮流に乗り過ぎるという傾向がないともいえない。
終戦後民主主義教育を確立すべく教育会を解消し(中略)
小学校は、長い伝統をもって居り、家庭や社会の人々にも比較的理解されているので、戦争による痛手を脱け出すことも、はやかったとも言える。又教師も一つの軌道の下に方向づけられて活動ができるので、年若い未経験者が採用されたり、その外いろいろの悪条件が重っていたにも拘らず、くずれを最小限度に止めることが出来たといってもよいであろう。
ただ建築、設備などの面では各市町村とも一斉に中学校を設置しなければならなかったために、相当困難が伴って未解決の点が、未だ多分に残されている。
その教育内容をみるに著しい傾向として、
(1)それぞれの教科の本質を生かした学習指導法の研究によって指導の改善をはかろう。
(2)落ちのない力強い学級経営をして、学校の経営方針が毎日すみずみまで一貫して流れるようにし、又教師の独自の好みによって、指導が偏ることのないよう、教育のあらゆる面が調和的に発展するようにしよう。
(3)一斉指導にかたよりすぎることなく、児童の個々をよく見つめて、個人個人にあった教育をしよう。
(4)教科の基礎力を伸ばすばかりでなく、日常生活を秩序だてるよう、児童が自主的に自分の行為を律していくようにしよう。
(5)常に校内生活ばかりでなく、地域社会の人々の協力を得て、校外生活の指導にまで手をのばそう。
(6)単なる思いつきや、勘で教育するようなことを止め、調査や測定の結果を資料にして正しい評価の上に立って、改善や進歩をはかって行こう。
このような傾向が強くなって来て研究会なども自主的に盛になって来ていることは喜ばしいことであるが一面、教師が実際教壇上ですることや、其の他職場ですることと研究会に臨んで主張することとが一致していない傾向が強くなっている。口には態度の真剣を叫んでいながら実際職場では、異った方向に力を奪われて、先に述べたような点での運営に遠ざかる傾向が段々現われている。(下略)
大変にきびしい見方をしていると共に、これをみると教育にも「古くて新しい問題」というものがあることを知らされる。現在でも教師として、ここにあげられた(1)から(6)の問題は大切なことではないかと思われる。
次に中学校教育に関する問題をとりあげてみよう。
一、現状はどうか。
幾多の障碍につき当りつつも一応の安定性を確立したと言えよう。過去数年間は建築と設備の最低限整備のために町村を挙げて苦心と努力とが払われたのであった。その町村の熱意に応える意味で学校でも学校経営に新教育のレールを敷くために学校長を中心に教職員の一致協力した精進を続けた涙ぐましい姿も忘れてはならない。新教育のレールを敷くことは、ない資料と、手不足と、混乱を続ける社会との間に立っての努力であって、あたかも山路へのレール布設作用(業カ)に等しい困難があった。しかし現段階は教育による学校経営が地域社会の実情に即して、各学校ともその持つ特色を生かしつつ進展の一路を辿っていると見てよかろう。レールが敷かれて軌道に乗ってすべり出すと、問題は生徒の幸福に直結した切実な問題となり、その研究は教育の本質に即したものとなって来た。中学校の教職員の中によい研究をもったり、ひたすら研究と取り組んでいる人数の激増しているのも、この辺の空気を反映している証拠だと考えている。
二、どんなことに努力しているか。
○学力の向上についての苦心
中学校の性格のうちで中心をなしているものは、やはり進路指導であろう。進学の問題が新制中学の頭痛の種であり就職の問題も亦大きい。これらにからんで学力の問題が抬頭してくるのは必然的なことである。しかも世論がひしひしと学力の低下をうったえているという現状では、学校は内外からの要求に応える意味での学力の向上に努力する重点を見ることになる。人間教育という立場からすると、学力の向上にのみ努力が払われる跛行的なあり方は、危険なことであるけれども致しかたのない立場ではある。
○全生活に教育の目が向けられている
学力の向上についての努力がなされると同時に、それから来る欠陥を是正する意味で、特別教育活動に、生徒指導に努力が向けられているということである。特にホームルーム経営に着眼して地道な努力を払っている学校の多いことは事実である。特別教育活動に努力の重点を置いた学校が学習活動を活発化し、学校生活の民主化に成功している例もある。
○産業教育の振興(下略)
○理科教育の振興(下略)
○生徒指導への関心が高まってきた(下略)
○地域社会が学校教育への正しい理解(下略)
中学校教育は、六三制教育の発足時から、いろいろな問題があった。ここにあげられているように当初は学校、校舎の問題であった。次はカリキュラムの問題であるが、当初はなにをどの程度教えるのか、学習指導要領が出ても、現場の先生方の不安をゼロにすることにはならず、「六三制野球ばかりがうまくなり」と川柳にうたわれ、義務教育は一年延長されたが実効はさっぱりみられず、前に記したとおり「学力低下」をいかに防止し、さらに「学力向上」をはかっていくかということは県内に限らず日本中の問題であった。
また戦後の学校制度の中から生まれたものにP・T・Aがある。これもアメリカの制度にならったものであるが、父母と教師が会員となり、児童生徒の教育についてはなし合ったり、学校の教育活動を側面から援助する組織である。しかし日本の場合戦後の混乱という特殊事情もあり、専ら学校の教育活動を経済面から援助する組織になっていった。
当町域にも各小・中学校にP・T・Aが組織され、それが町や村、あるいは郡内が数ブロックに分かれて活動を展開した。
写真 大網中学校
写真 増穂中学校
写真 白里中学校
次に郡内の高等学校についてみると、『山武地方誌』は次のように記している。
一、通常課程
さきに、山武郡下には、県立中等学校として、成東中学校、東金、松尾の両高等女学校及び山武農学校の四校がそれぞれ古い歴史と伝統とを以て、多くの卒業生を世に送ったが、戦後の学制改革に伴って、昭和二十三年四月いずれも県立の高等学校となった。更に昭和二十五年県下高等学校の再編成の機に際会して、東金町立東金商業高等学校が県立に移管となり、これと同時に東金高等学校の商業課程の校舎となり、次いで昭和二十八年独立学校として認可され東金商業高等学校となった。従って現在県立においては高等学校は五校の多きを数えるに至ったのである。これらの各学校は、或は普通、家庭、農業、商業の諸課程の学校として、それぞれ独特の特色を発揮して地方教育文化の進展に貢献するところが多く(下略)
なお、当町域には県立山武農業高等学校と県立白里高等学校があるので、その概要を次にあげる。
山武農業高等学校は、大正九年十二月一日、千葉県山武郡立山武農学校設立の認可を得て発足し、大正十二年四月一日から県立に移管された。又昭和十九年三月三十一日、女子部を設けることを認可された。同二十三年四月一日新学制実施によって千葉県立山武農業高等学校として認可され今日に至った。また、白里高等学校は昭和二十六年四月七日、東金高等学校定時制白里分校として設置され、昭和三十七年四月一日、同校白里校舎となる。翌三十八年四月一日、東金商業高等学校白里校舎となり、昭和四十六年、白里高等学校と改称され現在に至っている。
戦後の新教育は「六・三・三・四制」と正式に言われ、旧教育との大きな差は教育の課題が「単線型」であるところに特色があるといわれている。小学校六か年、中学校三か年、高等学校三か年、大学四か年(短期大学二か年)、大学院というコースである。
当町域を含む山武郡は、教育に熱心な地域のひとつであったことは、ここに述べたとおりであり、その歴史と伝統は戦後の新教育制度下にあっても継承され、さらに今日にも続いている。
写真 県立山武農業高等学校
写真 実習の様子(山武農高)
写真 県立白里高等学校