五 両総用水と農業の発展

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 房総の穀倉地帯のひとつとされている大網白里町を含む九十九里平野も、つい半世紀ほど以前は旱害に悩まされて、十年間に満足に豊年を祝うことのできる年は半分もなかった。
 台風で大雨が降れば水はけの悪い低地は水害、反対に雨が降らなければ旱害ということで、当地の人びとの農業は天災との苦闘という一語に尽きていた。
 昭和八年、九年の旱害は特にひどく、地域の人びとは植え変える苗もろくにない状況で、これはなんとかしなければならないと真剣に考えられるようになった。
 千葉県の北には坂東太郎の異名をもつ大河「利根川」が満々と水をたたえて流れ、大雨が降れば洪水となって流域の人びとを悩ませていた。原理的に言うならば、この利根川の水を九十九里浜平野に運んでくればよいのであるが、現実にはそう簡単にはいかない。それは、この利根川低地と九十九里浜平野の間に下総台地という高い土地があるからである。水は高い所から低い所に流れるのは当然であるが、四~五十メートルもある台地を飛び越させるわけにはいかない。それができれば人びとはとうの昔にこうした用水路を作っていたであろう。
 昭和も十年になれば土木技術水準もかなり高くなり、それまで不可能であったことが可能になったことも沢山あった。
 当地の人びとも旱害にあい、一番原始的ともいえる雨乞いの祈禱をしながら「神仏に祈ることも大切だが、人間の知恵でこの天災を克服する方法を見出さなければだめだ」と考え始めていた。
 旱害地の用水を補給し、低湿地の水害を防ぐため排水機構をも兼ねるというものである。まさしく一挙両得の事業であるが、実際はそう簡単に右から左へ計画をすすめることはできなかった。戦争がはじまり、国の財政が戦費の方へ向けられていったからである。
 しかし、いくら戦争中であっても食糧増産も国としては大切なことである。そこで、県から国へ問題は取りつがれ、農民の請願の熱意が認められて、工事を開始することになった。これはきわめて異例のことで、昭和恐慌の下で米価の安値に農村は悩まされてきた。過剰米の処分、台湾や朝鮮からの植民地米の移入も制限されていた。しかし戦争の進展により食糧不足が顕著になってきたため、昭和十四年、米の統制・配給制が実施されたが、米の増産はかけ声と指令のみで、増産に必要な天災から米作りを守る対策や施設に対して国は財政的なめんどうをみないという時代であった。その中でこうした大規模な事業のゴーサインが出たのであるから人びとは驚くと同時に、そのしごとの重要さも認識した。また昭和十七年七月知事会議の席上、藤原千葉県知事は天皇陛下に両総用排水事業のことについて上奏し、翌十八年、工事を手がける農地開発営団が設立され、昭和十九年七月佐原で起工式が挙行された。工事が開始されると学徒勤労隊員などが参加した。工事の進展は表100に示したとおりである。
表100 両総用排水工事の進展概要
    事項
年度
事     項
昭和8~14年 旱害のため当町域を含む北総、東総の農民苦しむ
昭和16年 両総地域用排水改良事業実施決議(千葉県会)
昭和17年7月 知事会議の席上、藤原知事天皇陛下に両総用排水事業のこと上奏
昭和18年4月 両総地域農地開発計画決定、農地開発営団に事業の代行の委任(国会)
昭和19年7月 佐原において起工式挙行
昭和23年 この事業を国営事業とする陳情はじまる
昭和24年 アメリカ軍千葉軍政部司令官視察
昭和25年12月 第一排水機場の一部竣工
昭和26年2月 排水機場完成
   
昭和33年 昭和34年3月事業完成の予定となる。
(『両総土地改良区史』上・中)


図27 両総用排水事業特報
 
 この経過を新聞報道記事でみると、昭和十六年一月二十五日付の読売新聞(当時読売報知)は、次のように伝えている(『両総土地改良区史』中)。
 
  両総用水改良工事来年度着手を言明待望の四郡農民歓喜
 香取、長生、山武、匝瑳四郡下、大須賀川、小野川の洪水地帯六千町歩と九十九里沿岸に至る大旱害地帯二万二千町歩の洪水旱害の両者惨禍を根本的に救う国営大利根揚水機設置は、四郡下農村の熱心な要望と化し、農林、大蔵両省と企画院に幾度となく陳情が重ねられ、政府、県共に実地調査をつづけ、目下その設計を急いでいるのであるが、過般更に四郡下代表は、同工事の促進のため宇賀、小高、今井、吉植の四代議士の賛成紹介で請願書を議会に提出中のところ、二十五日同請願は委員会に上程され、今井健彦代議士は熱心な論調で、「旱害と水害を根本的に除き、荒廃の既耕地を改善するは、時局下食糧増産上、一日も捨ておくことができない。政府は英断を以ってこれが国営工事を敢行すべきではないか。」と請願の要旨を述べ、これに対し、農林省総務局長周東英雄氏は、「現下の食糧事情からみて、千葉四郡下の旱害、洪水を除く農業水利工事は最も緊要である。出来るだけ早く着手いたしたい。目下設計中で、未だ具体的の(な)設計計画が完成しませんので、本年から直ちに着手は困難とは思うが、出来るだけ急ぎまして、県、国共に協力、来年度から必ず着手いたしたい。斯様に只今計画を進めている次第であります。又農地開発法が議会で協賛を得ますれば、其の規定に基いて設立される開発営団が国に代って実行いたすことになっております。」との四郡下民に耳よりな答弁があって、同佐原地先に設置の両総用水改良事業促進の同工事案は、請願委員一人の異議なく加藤委員長から採決を宣告され、四郡下民陳情代表を喜ばせた。殊に去る十九日、十枝(山武)、脇田(長生)、坂本(香取)の三県議と共に議会に請願せる県市橋耕地課長は、請願委員会における同速記録を見て、喜悦にあふれて語る。「全く不眠不休で計画要望した両総用水改良工事に政府が大きな関心と理解を持ち、設計計画を急ぎつつあり、晩くも来年度着工するとの農林省当局の議会における答弁を得て、県下食糧大増産上、この画期的な耕地大改革の機会が来たことは国のために喜びに堪へない次第である。」
 
 こうした国会の状況や県の見解をみると、この計画がいかに関係地域の農民に期待されていたかが理解できる。ではこの工事計画は立案の段階で、どの程度の見とおしがもたれていたか、『両総土地改良区史』上巻の記述からみてみよう。
 第一は、当町を含む山武地域の必要水量の問題であるが、同書に次のように算出されている。
 
表101 両総用水設立当時における山武地区の計画資料(昭和十六年)
町村名
地区名
水田総面積 単位用水量
(秒立方尺)
総水量
(秒立方尺)
現在水源ニ依ルモノ 必要面積及水量 備 考
水田面積 水  量 面  積 水  量
東部連合地整理組合 町       
一四二七・九六
 
〇・〇三八八
 
五五・四〇五
町       
一〇五二・一六
 
四〇・八二四
町    
三七五・八
 
一四・五八一
緑海村 四〇三・五     〇・〇四三八 一七・六七三 一一八・六     五・一九四 二八四・九 一二・四七九
鳴浜村 一七三・八二 〇・〇四三八 七・六一四 六〇・八三 二・六六四 一一三・〇 四・九五     作田川組合地積除ク
南郷村 二六九・八     〇・〇四三八 一一・八一七 九六・三     四・四六三 一六七・九 七・三五四 同上
作田川連合耕地整理組合 一〇七五・七     〇・〇三六 三八・七二五 八八八・五     三一・七八四 一九二・八 六・九四一
横芝町 二四・九     〇・〇四三八 一・〇九     二四・九 一・〇九    
公平村 一九・〇     〇・〇三六 〇・六八四 一〇・一     〇・三六四 八・九 〇・三二    
豊成村 四三九・五     〇・〇四三八 一九・二五     一一一・〇     四・八六二 三二八・五 一四・三八八 作田川組合地区除ク
正気村 四〇二・七     〇・〇五 二〇・一三五 四〇二・七 二〇・一三五
片貝町 二八〇・二     〇・〇五 一四・〇一     一五・二     〇・七六     二六五・〇 一三・二五     作田川組合地区除ク
東金町 三二一・〇     〇・〇四三八 一四・〇六     二〇・一〇 八・八〇四 一二〇・〇 五・二五六
豊海町 二八一・七     〇・〇五 一四・〇八五 二八一・七 一四・〇八五
白里町 四六八・〇     〇・〇五 二三・四          一〇・〇     〇・五         四五八・〇 二二・九         
福岡村 五〇六・八     〇・〇四三八 二二・一九八 四二・〇     一・八四     四六四・八 二〇・三五八
大網町 一六一・〇     〇・〇四三八 七・〇五二 二三・〇     一・〇〇七 一三八・〇 六・〇四五
増穂村 二五二・九     〇・〇四三八 一一・〇七七 二五二・九 一一・〇七七
山辺村 三五・〇     〇・〇四三八 一・五三三 一五・〇     〇・六五七 二〇・〇 〇・八七六
小中川普通水利組合 六六七・五     一五〇・〇 六・一一二 将来二毛作ヲ行フ予定ヲ見込ム
 計 七二一〇・九九 二七九・八〇八 三一六一・一九 一〇三・七二三 四〇四九・八 一八六・四三八
(『両総土地改良区史』上)

 この表101中にある必要量の水を供給しているのは、次の図28に示したような郡内を流れる小河川と、郡内に散在する四十七の溜池や堰である。図中の番号は次に示した表102中の番号で、これを見ると、郡内町村の台地に近いところに溜池、堰を設けて、必要時に低地の水田にまわるようにしているか、小河川の中・下流域の途中に溜池を作っていることがわかる。

図28 山武郡用水系統図
 
表102 用水系統調査表(溜池河水其の他)
図面
対照
番号
用 水 源 貯水面積、流量
貯水量(秒立方尺)
灌漑区域 灌漑面積 用水不足ノ状況 備 考
位 置 名 称 面 積 水 量
 
1
 
横芝町、横芝栗山川筋
 
揚水機
 
二一・七八四  
横芝町、上堺村、大
平村、蓮沼村、松尾町
町    
一四二・四  
町    
二七〇・六 
 
八・四五六 
 
〇・〇三一二五
2 緑海村木戸 木戸堰 〇・六九八   緑海村木戸 二八・六   一〇・〇  〇・三七五 
3 緑海村木戸 木戸堰 〇・八二五   緑海村木戸 三一・一   九・一  〇・三四一 
4 大平村折戸 折戸堰 五・一〇    蓮沼村、大平村、折戸松ケ谷 一三六・〇  
5 大平村借毛本郷 小松堰 三・〇三三   緑海村、小松、大平村借毛本郷 一四八・九   六八・〇  二・五五   緑海村一二・八
大平村一〇・九
6 大平村借毛本郷 小郷堰 〇・三三八   南郷村上横地ノ一部 一五・〇   六・〇  〇・二二五 
7 大平村高富 中台堰 〇・七一八   大平村高富、南郷村横地ノ一部 二〇・六   一・五  〇・〇五六 
8 南郷村 松合堰 二・七三三   南郷村、上横地、下横地、五木田、草深 二四七・八   一七四・九  六・五五九 
9 松尾町田越 田越堰 八・二八七   大平村借毛本郷、下野、広根、下之郷、高富、松尾町田越 二三一・〇   一〇・〇  〇・三七五 
10 睦岡村戸田 戸田堰 七・五一一   大富村、富田、寺崎、早船、成東町津辺 二四〇・三   四〇・〇  一・五〇  
11 睦岡村戸田 戸田堰 一・一一四   成東町 二九・七  
12 成東町成東 成東堰 一五・一四    作田川連合耕地整理組合 一九三・〇  
13 成東町津辺 銚子口堰 作田川連合組合 二八六・〇   三九・〇  一・四〇四 
14 豊成村上武射田 武射田堰 一二・六〇    作田川連合組合 一八五・六  
15 鳴浜村白幡 白幡溜池 〇・九五町  
四・五〇五町尺
作田川連合組合 四一・七   一三・八  〇・四九七 
16 豊成村東中 大中堰 九・〇三    作田川連合組合 鳴浜村作田、本須賀組合、南郷村 一九六・〇  
17 片貝町小関 鶴巻堰 八・二一    作田川連合組合片貝町片貝 一二九・三一  四〇・〇  一・七五二 
18 成東町根蔵 根蔵池 一・七六町  
四・〇五町尺 
成東町根蔵 一九・〇   八・九  〇・三三四 
19 公平村姫島 東池 〇・七〇町  
二・八七町尺 
作田川連合組合姫島二区 三〇・〇   一八・六  〇・六七  
20 公平村姫島家ノ子 熊ノ池 〇・九八一五町
三・五一九町尺
同上 一八・〇   四・〇  〇・一四四 
21 公平村家ノ子 丑池 四・八一一七町
二七・三七町尺 
公平村家ノ子 八六・〇  
22 公平村道庭 十文字川用水 三・二二    豊成村、菱沼、関宿堀之内、中野、殿廻、宮、御門、前の内、二又 四一四・四   三二八・五  一・二三一九 〇・〇五七五
23 東金町田間 野川用水 七・八七五   東金町田間 二一〇・〇  
24 公平村道庭 置上堰 三・二一七   公平村道庭 八五・八  
25 公平村松郷 田間池 〇・三町   
〇・六一町尺 
東金町田間 二・〇  
26 東金町東金 岩川池 一・一一町  
二・九七町尺 
東金町東金 東金町田間 三〇・〇  
27 東金町東金 八鶴湖 四・五八町  
二四・二八町尺 
東金町東金 三三・六五一
28 丘山村油井 滝川用水 三・五四二   雄蛇ケ池用水改良事業地区 六七八・五   九六・八  三・六一五  二毛作見込
29 丘山村小野 小野川用水 五・〇〇二   六七八・五   九六・八  三・六一五 
30 大和村 雄蛇ケ池 二五・〇一二町 
二二四・四〇三町尺
六七八・五   九六・八  三・六一五 
31 片貝町田中、荒生 宮島池 三・八六町  
一五・四六町尺 
片貝町宮島普通水利組合 三七・〇   三七・〇  一・六二〇  苗代用水
32 大網町大網 道塚池 二・一五二七町
五・七〇四町尺
大網町大網 三〇・九   二五・九  〇・九七一 
33 大網町大網 前島池 一・〇七一四町
四・八七五町尺
大網町大網 一五・五   一二・五  〇・四六九 
34 大網町大網 山中池 〇・九四一五町
三・九四七町尺
大網町大網 一三・四   一一・九  〇・四四六 
35 正気村 西野堰 豊海村西野不動堂 七四・八   七四・八  三・二七六  旱魃時ニハ水量ナシ
36 豊海町 小沼田水門 福岡村小沼田大沼田、一ノ袋、二ノ袋 一六四・七六  一六四・七六 七・二一六 
37 豊海町真亀 真亀水門 〇・三七二   豊海町真亀、不動堂 一〇九・二   一〇〇・七  四・四一一 
38 東金町北幸谷 北幸谷池 二・八一町  
八・四三町尺 
東金町北幸谷 一二〇・〇   一二〇・〇   四・五〇〇  主トシテ苗代用水
39 白里町四天木 四天木池 二・六五町  
一五・九町尺  
白里町四天木、南今泉、北今泉 二五八・〇   二五三・〇  九・四八七 
40 白里町細草 細草池 〇・三町   
一・五町尺  
白里町細草 三九・〇   三九・〇  一・四六三 
41 福岡村九十根 九十根堰 福岡村九十根、東中島 五七・〇   二九・二  一・〇九五 
42 増穂村柳橋 柳橋堰 福岡村桂山、増穂村柳僑 七四・〇   七〇・〇  二・六二五 
43 福岡村長国 長国堰 一・四七四   福岡村長国 三五・〇   二三・〇  〇・八六二 
44 福岡村桂山 桂山池 二・八八町  
七・二一二町尺
福岡村桂山 四二・〇   三七・〇  一・三八七
45 福岡村二ノ袋 二ノ袋揚水機 〇・四一三   福岡村二ノ袋 三四・〇   二三・〇  〇・八六三 
46 白里町北今泉 北今泉池 一・二町   
五・二町尺  
白里町北今泉 一九・九   一九・九  〇・七四六  主トシテ苗代用水
47 瑞穂村小中 溜池 一一・五九町  
三四〇・九一九町尺
小中川沿岸用排水改良事業地区 六六七・五   一三九・五  五・二三一  〇・三七五
二毛作ヲ見込ミ計上ス
(『両総土地改良区史』上)

 しかし九十九里浜の名称が示すように、当郡内は大方砂地であり、「保水能力」がきわめて悪いことや、川も流路が単調でしかも短かいため、大雨がふれば水びたし、雨がなければ旱害に見舞われるという結果になりやすかった。このため江戸時代以来ずっと「用水出入」とか「水争い」が絶えなかった。
 昭和十八年七月十二日の読売報知は、「両総農業水利改良事業の起工式、待望の第一期工事へ」と題して、起工式の様子を次のように伝えている。「香取、匝瑳、山武、長生四郡関係農民待望の農地開発営団の両総農業水利改良事業起工祭並に起工式は、十二日午前十時から佐原町粉名口地先利根川堤で挙行された。内田農商相(代理江村後吉技師)、川村知事、今井・成島両代議士、横田県会議長はじめ十五県議並びに関係町村有志、約三百名列席、香取神宮沢田宮司以下神職奉仕の起工祭は、型の如く行われ、米田営団佐原出張所長の敷祓の儀、村上営団東京本部理事長の鍬入れの儀あり、続いて起工式に移り、村上理事長の式辞、農商相、知事外多数の祝辞があって午後一時終了した。」これにより人間が自然を克服する第一歩がスタートしたのである。しかし、戦争は激化の傾向がみられ、次第に敗色の濃くなる中で、工事の前途そのものも決してあかるいとは言えなかった。
 昭和二十年八月十五日終戦の日をむかえて学徒勤労動員で工事に参加していたものも、千葉師範学校生徒をはじめ次々と学業にもどっていき、地元農民に一まつの不安を与えたが、依然として食糧不足は続き、この事業は、昭和二十一年九月公共事業として認められ、工事は再び施行された。しかし昭和二十二年農地開発営団は閉鎖され、農林省直轄事業に移管された。この時点における工事進捗状況は『両総土地改良区史』上巻によれば、表103のとおりである。
表103 工事進捗状況(昭和二十二年)
工事進捗
  状況
請負者名
請負地域 進 捗 状 況 就労実
人員
(一日当)
摘     要
熊谷組 大総村
 自 取立
 至 長倉
 二、四三八米
      延 長   出来高
取立隧道  二三五米  二三五米
長倉隧道  一六〇米  二六〇米
鶴峰隧道   九〇米    〇米
高砂隧道   六〇米   六〇米
 計    五四五米  四五五米
切土盛土 七〇、九二〇立米 四五%
一六八 責任者  荒木勇
一、隧道ノ出来ハ導坑ノミ
西松組 自 松尾町八田
至 豊岡村蕪木
 三、〇八〇米
      延 長   出来高
新堀隧道 二三五米 一五一・一米
平台隧道  九〇米  九〇  米
道員塚隧道 四五米  二八・七米
押辺隧道 一四五米 一四五  米
中田隧道 五七〇米 一三六・七米
蕪木隧道  八〇米   〇  米
 計 一、一六五米 五五一・五米
切土盛土 四六、六一四立米 三五%
一八四 責任者  池沢憲夫
一、隧道ノ出来形ハ導坑ノミ
一、切土盛土ハ人力ニヨルモノ六割 機械力(ブルドーザー)ニヨルモノ四割ニシテ目下機械力ヲ利用シ工事中ナリ
大成建設 自 公平村松之郷
至 東金町大豆谷
  二、八一四米
東金隧道工事
 三ケ所斜坑掘鑿中
       延 長   出来高
    二、八一四米  二〇〇米
             八〇%
一〇九 責任者  内藤保吉
一、隧道掘鑿及掘崩、捲揚設備ト機械力ニヨル掘鑿及送風設備トニ分レ動力ハ電気ニヨルモノニシテ動力線及針坑捲揚設備等完了シ隧道掘鑿ニヨル掘崩ヲ引上ゲ隧道工事進捗中ナリ
松井組 自 大網町竹の下
至 山辺村金谷郷
    七三〇米
大網隧道
       延 長   出来高
      七三〇米  二三〇米
 一ケ所竪坑掘鑿中
     三一〇米    六〇%
一二二 責任者  三滝常
一、隧道掘鑿ハ掘崩捲揚設備ト送付設備トシテ動力電気ニヨリ動力線架設シタリ
山武土建 瑞穂村駒込
    一八七米
駒込隧道
       延 長   出来高
      一八七米  一八七米
 切拡ケ掘鑿中      九〇%
三一 責任者  内山常次郎
協和工業 大総村小堤
煉瓦工場設備工事
登窯建築造中
附属建物建設中
             二〇%
三二 責任者  桜井友一郎
日興土木 大和村田中
煉瓦工場設備工事
現場詰所外建築物建築中
登窯築造中
             一八%
五〇 責任者  今西長次
(『両総土地改良区史』上)

 昭和二十二年八月より農林省直轄事業として、国営事業となった両総用水農業水利事業は、昭和二十九年三月迄に完成の予定で、これが完成すると佐原市を中心とする利根川沿岸低湿地一、八〇〇余町歩の排水改良と九十九里浜沿岸を主とする一市四郡、四十三か町村の耕地二一、〇〇〇余町歩に用水を補給して、単作地帯も二毛作可能地帯として、米、麦、甘藷の増産を図り、年々五七一、九〇〇余石の生産が確保できるという見通しがたった。
 昭和二十五年に一般会計による事業費の外に五億円の米国対日援助見返資金の投入がはかられた。このため同工事はさらに進捗した。
 事業費は当初一千九百八十六万円であったが、昭和二十七年には三十八億八千万円となった。
 しかし、国営事業といってもこの水利事業に関し、地元にも負担金が課せられた。一例を第一期工事の例でみると、福岡村の場合百十五万六千円負担金が課せられた。かりにこれを十五か年賦で試算すると、福岡村の一反当り平均約十四円四十銭となった。
 地元はこうした負担を受け入れ工事の進捗がはかられていった。こうしてできあがっていった両総用排水の諸施設は次の表104に示したとおりである。
 
表104 灌漑施設の種類、名称、位置、規模、構造、維持管理の方法
名 称 位置 規   模 構造 維  持  管  理  の  方  法
利根川樋門 佐原町利根川右岸 巾 三・〇m
高三・三m二門
巾 三・〇m
高四・〇m二門
鉄筋コンクリート 第一排水機場の運転者をして操作せしむ。
導水路 佐原町第一揚水機場 底巾 二〇・〇m
水深  一・三m
延長九九〇・〇m
土堀 破損箇所の修理、河中堆積土砂浚渫をなし、引入水量に支障なからしむることに努む。
制水門 佐原町排水路右岸 巾  四・〇m
高四・〇m四門
水深 一・二m
鉄筋コンクリート 出水時機及び引水時機の門扉開閉時機については、第一排水機場の運転者をして当らしむ。
佐原町専用変電所 佐原町 六〇kV 保守四人を常置し、昼夜三交代としてその任務に当らしめ、なお役職員をして時々監督をなす。
第一揚水機場 佐原町 一、二〇〇mm五台 渦巻 毎年五月より八月下旬まで揚水するものにして、運転者六名を操作に当らしめ、役職員をして毎日監督をなす。用水路監視人詰所との連絡のため、専用電話を架設し、突発事故の際における運転停止等臨機の処置をなすものとす。
用水幹線(開渠隧道サイホン) 佐原町香西村栗山川合流点迄 底巾   五・四m
延長 三、一三八m
水深   二・〇m
断面  一二・六m
延長三四、五七五m
水深   二・〇m
開渠、隧道、逆サイホン工、暗渠等総延長七、五九三米にして、用水時期となれば、監視人三名を常置し水路の監視に当らしめ降雨の際における山崩その他突発事故を揚水場に急報し、災害を未然に防がしむると共に分水門の開閉操作を行なわしむ。なお灌漑期前には毎年破壊箇所の修理、流入土砂の除去をなす。
栗山川開渠 香西村 
 
 
栗源町 
 
 
久賀村 
 
 
常盤村 
 
中 村 
 
多古町 
 
 
日吉村
底巾   〇・四m
延長 三、九〇〇m
水深   二・六m
底巾   七・〇m
延長 二、〇三五m
水深   二・二m
底巾   八・〇m
延長 二、〇三五m
水深   二・二m
底巾  一五・〇m
延長   二・七m
底巾  一六・二m
延長 二、一〇〇m
底巾  一七・二m
延長 一、一五〇m
水深   二・四m
底巾   二・〇m
延長 一、七五〇m
コンクリート舗装土掘 
 
 
同 
 
 
同 
 
同 
 
同 
 
 
栗山川改修線は用排水用にして、総延長一四、七〇〇米内舗装部分三、九〇〇米あり、他は何れも土堀水路にして、毎年灌漑期前に水路破損箇所の修理、土砂の浚渫、藻刈等をなし、灌漑期間中は監視人四名を常置し、制水門の操作並びに水路の監視を行なわしむ。
栗山川北 大総村 巾  二・四m
    一〇門
鉄筋コンクリート 洪水期及び灌漑期における開閉操作は監視人を常置して出水の際における臨機の処置をなさしむ。
準水路 大総村 一、三〇〇mm四台
揚程 一八・六m
渦巻 灌漑期前河中の藻刈、流入土砂の浚渫をなす。
第二揚水機場 大総村 一、三〇〇mm四台
揚程 一八・六m
渦巻 揚水期間は大体において、第一揚水機場と併行して揚水をなすものにして、運転者六名栗山川北の開閉運転者と兼務運転に当らしめ、第一揚水機場並びに揚水路監視人詰所に専用電話線を架設し、突発事故に備え、各分水門との密接なる連絡をなす。
開渠 
 
隧道
大総村
松尾町
豊岡村
大総村
松尾町
豊岡村
底巾   二・五m
延長 四、〇一〇m
水深  二・五五m
コンクリート舗装
コンクリート巻
第二揚水機場吐出水槽以下第二分水点迄にして、開渠隧道合せて五、七〇〇米にして用水時期となれば監視人二名を常置し、水路の監視に当らしめ、降雨の際における山崩その他突発事故を揚水機場に急報し、災害を未然に防がしむると共に分水門の開閉操作をなさしむ。なお、灌漑期前には毎年破損箇所の修理、流入土砂の除去をなす。
開 渠 
 
 
 
 
サイホン 
 
 
隧 道
豊岡村 
大富村 
成東町 
公平村 
 
豊岡村 
成東町 
 
豊岡村 
成東町 
東金町
底巾  二・二〇m 
延長 五、六五七m 
水深  二・五五m 
 
長  五、二五〇m 
断面 一、〇〇〇m 
断面   八三六m 
長   三八・〇m 
断面 七、六七四m 
延長 三、一八〇m 
水深  二・五五m
 
 
 
 
鉄筋コンクリート 
 
コンクリート巻
第二分水点以下第三分水点迄にして、開渠、隧道、サイホン工等、延長一〇、七〇〇米あり、用水時期となれば監視人三人を常置し水路の監視に当らしめ、降雨の際における山崩その他の突発事故を揚水場に急報し、災害を未然に防がしむると共に、分水門の開閉操作をなさしむ。なお、通水門には毎年破損箇所の修理、流入土砂の除去をなす。
隧 道 東金町 
 
大和村 
 
 
東金町
底巾  一・九〇m 
延長   六〇〇m 
底巾  一・八〇m 
延長 二、三四八m
水深  二・三五m
 
断面  八・〇七m 
延長 二、八一四m 
水深  三・三五m
コンクリート舗装 
 
 
コンクリート巻
第三分水点以下第五分水点迄、開渠、トンネル、サイホン工等、延長四、六〇〇米にして、通水時期となれば、監視人二名を常置し、水路の監視に当らしめ、降雨の際における山崩その他の事故を連絡し、通水に支障なからしむと共に、分水門の開閉操作をなさしむ。なお、灌漑期前に破損箇所の修理、流入土砂の除去をなす。
隧 道 
 
 
 
 
サイホン工
大網町 
瑞穂村 
 
山辺村 
 
大網町
断面 四、一九八m 
水深  一・八〇m 
延長 一、一二〇m 
断面  三・四七m
長    四〇〇m 
断面  三・五五m 
長    七〇〇m
第五分水点以下第七分水点迄の間にして、灌漑期間に用水路の浚渫をなし、通水期となれば監視人一名を置き分水門の操作をなさしむ。
本納町 
 
 
東郷村 
 
 
茂原町 
 
 
同 町
底巾   四・〇m 
延長 一、六〇〇m 
水深  一・六〇m 
水深  一・二〇m 
底巾  四・〇〇m 
延長   六〇〇m 
底巾  三・〇〇m 
延長 二、四〇〇m 
水深  〇・二〇m 
底巾   二・〇m 
延長 二、四〇〇m 
水深  一・二〇m
土堀 灌漑期前に、用水の浚渫をなし、通水に支障なきよう努むると共に、通水期となれば、監視人一名を置き、分水門の操作等をなさしむ。
第三揚水機場 豊田村 六〇〇mm一台 
揚程 八・〇m
渦 巻 揚水期間は、大体において、第一揚水機場と併行して揚水をなすものにして運転士一名を置き、運転に当らしめ第二揚水機場とは専用の電話にて連絡をなす。
開 渠 
 
 
隧 道
本納町 
豊田村 
茂原町 
豊田村 
茂原町
底巾  二・八〇m 
延長 一、〇二〇m 
水深  一・一〇m 
断面  二・三九m 
水深  一・一〇m
土 堀 灌漑期前に、用水路の浚渫をなし、通水に支障なきよう努むると共に、通水期となれば監視人二名を置き通水路の監視に当らしむ。

 

写真 大網町内の両総用水路
 
 この両総用排水工事の特色のひとつとして、低い所から台地の高い所へ水を揚げるのにサイフォン管の原理を用いたことが挙げられる。これ自体はさして珍しいものではないが、このような大がかりな工事で、広範囲に用いられた例はあまりない。
 また幹線水路の完成と共に、用水の受益地を広くするためいろいろな請願が出された。当町関係の例でみると、「引水困難につき分水口の設置」を求めたものがあるので、次に掲載する。
 
           請願書
                                           山武郡大網町一九二〇番地
                                           前島実行組合長 桜井昌三
                                                外 八十二名
 右は両総用水土地改良事業の施設設計に関する局部的請願をする。
     理由
 目下進捗中の両総用水土地改良事業は吾々関係区農民の斉しく鶴首待望の事業にして、之が完成の暁は農業開発増産の上に影響する福利の如何に至大なるものあるかは、今より期して疑うべからざるは言を俟たず。而して吾々は其の実現をみるや直ちに之が受入態勢を整えて、速かに国家の農業生産計画に副い増産に寄与すべく、幹線水路沿線四百町歩にわたる農地区画整理を実施すべく、急遽其の計画を遂行中である。然るに幹線の施設を仄聞するに、左記の区域が既設計画中の支線取入口にては地形の関係上、引水甚だ困難を生じ、玆に於て僅かなる分水孔の設置にて完全に之が目的を達成でき得るものにして、事業其のものが千古万代の未来に到る福利計画なる故に、この際技術面に於て是非共次の計画を至急採択せられ、現地踏査の上、世紀の大事業に永劫の未来に悔を残さぬよう、ひいては現在同地域が費用負担の納入を危惧して居り、其の解決促進方にも直ちに好結果をもたらすべく、万全の考慮を払い玆に実現方を請願する。
     記
 一、大網町前島地域  面積 十八町歩余
 一、大網町竹ノ下地域 〃   三町歩余
 一、大網町北ノ谷地域 〃   四町歩余
 以上三カ所の引水孔設置の件
   昭和二十七年九月一日
    両総土地改良組合管理者
       能勢剛殿
 
 この請願は直ちに現地調査の結果、趣旨が認められ、三か所に引水孔が設置されることになった(『両総土地改良区史』上)。
 また、一方ではこの事業に当初加入していなかったが、後に加入した例もある。次にあげる大和村の例がそれである。
 
    加入申込書
 当部落は元来其の地形上貯水池の設備もなく、昔から灌漑の便に苦しみつつありましたが、去る昭和十七年度におきまして県の絶大なる御援助によりまして、耕地の中央に小用排水の設備を施しましてから、それ以来多少の増産を持続して参り居りましたが、最近国は食糧事情の不足の結果、農民に増産を呼びかけ、剰え供出制度を創設しまして、然かもその供出量は年々高まり、現在部落民はこの難関をきりぬけるため、或は土地田畑を売り払い、山木をきって供出完納に充当しつつある非常な難局に直面しつつあります。誠に部落民は現在何等自然の天恵に浴し得ないのであります。最早今日に至っては、部落民は一人より二人よると我々は何とかして増産の道をきりひらくよりは他に道はないのであると言う話合いのみでありまして、このままにして進まんか、我々部落民は日々にその生活は衰退し貴重なる農業も捨てて、他に生くるの道を講ぜざるを得ない現況下にあります。幸いにして此の度県は両総水利組合を設置されまして、この国家的大事業の下に大利根の水源を利用して両総に灌水して農民の増産を呼びかけ、農家経済の安定を計らんとしつつあります。我々はこの偉業に対し誠に感謝に絶えない次第であります。然かもこの水路は当部落内の東南端を流通する御計画でありまして、部落民はこの際に、国並びに県に御願いして、この恩恵に浴し其の寛大なる処置と援助に基づきまして増産に励み国家に貢献し、只管各自の生活の安定を計り、以って子孫の繁栄を期したい所存であります。
 何卒格別なる御詮議の上、水利組合加入の御許可願度別紙部落内耕地面積(略)を添付懇願致します。
  昭和二十七年三月二十四日
                                             養安寺部落民代表
                                              山武郡大和村養安寺四一五
                                                   高橋操
 
 この加入申込みは、ちょうど余裕の水量があったので、地元養安寺地区の希望が認められて昭和二十七年四月の組合通常総会で加入が承認された。
 ここにあげられているように、国営事業の北部幹線用水路と南部幹線用水路等の幹線事業の進展にともない、早急に支線計画の樹立の必要に迫られて、昭和二十五年、二十六年の二か年間に全地域の調査を実施し約三百町歩以上の地域十五か所に用水支線を新設し、灌漑用水を円滑にして経済的に配水すると共に、大須賀線(排水)、栗山川の支流である常盤線(排水)の改修を含む用水十五支線と排水二支線の延長一四三、八二四メートル、総事業費十四億一千百万円の計画を県営事業として国に提出した。この事業は昭和二十七年度に採択され事務所を東金に開設し、昭和二十八年度より着工した。
 この県営事業は、幹線事業(国営)より十年遅れて着工したため、幹線に通水できても支線事業が完成されないため、水利用が著しく阻害された。県では地元からの強い要望もあり、国・県営同時完了を目標として、跛行調整を農林省に要望し、昭和三十四年度以降予算は年間二~三億となって全線にわたり工事は著しく進捗の度を増した。
 昭和三十八年度末までに次の九支線が完成した。
大須賀線 (用・排水)
常盤線 (用・排水)
多古線 (用水)
南条線 (用水)
松尾線 (用水)
増穂線 (用水)
大網線 (用水)

昭和三十九年度では次の三支線が完成した。
本納線 (用水)
東郷線 (用水)
茂原線 (用水)

次に支線計画の概要をまとめてみると表105のようになる。
 
表105 支線計画の概要
            受益地域    4郡4市12町1村
都市郡 町   村   名 摘   要
香取郡 佐原市,神崎町,大栄町,栗源町,多古町,山田町,
匝瑳郡 八日市場市,光町
山武郡 東金市,横芝町,松尾町,成東町,九十九里町,大網白里町 中部排水受益地区は東金市,九十九里町に重複する。
長生郡 茂原市,白子町,長生村
総面積 19,884.86ha 内訳
13,539.95ha
6,344.91ha
 
国営直接受益面積 6,250.49ha 内訳
3,867.15ha
2,383.34ha
県営直接受益面積 13,634,37ha 内訳
9,672.80ha
3,961.57ha
(両総用水パンフレット)

 両総用排水事業は、旱害に苦しむ九十九里浜平野の農民を救済した世紀の大事業のひとつであったといっても過言ではないであろう(表106・107)。
表106 事業による効果
1) 農業経営の合理化を図る基盤の整備
2) 農産物の増収
7,853t              
麦(小麦) 4,597t(米換算)
甘  藷 12,284t              
飼料作物 14,506t              
そ  菜 498t              
  事業の着手及び完了予定時期
着  手 昭和27年4月
完了予定 昭和44年3月
(両総用水パンフレット)

表107 各市町村別受益面積
市町村名 面  積
田(ha) 畑(ha)
佐原市 875.50 21.81 897.31
八日市場市 90.54 90.54
東金市 2,331.12 791.30 3,122.42
茂原市 480.62 183.57 664.19
香取郡
神崎町
32.13 32.13

大栄町
212.42 0.29 212.71

栗源町
16.85 16.85

多古町
908.52 908.52

山田町
99.17 99.17
匝瑳郡
光 町
341.85 341.85
山武郡
横芝町
206.18 70.90 277.08

松尾町
113.05 113.05

成東町
668.03 46.44 1,137.47

九十九里町
526.62 369.02 895.64

大網白里町
1,227.57 721.38 1,948.95
長生郡
本納町
452.03 516.09 968.12

白子町
568.36 384.19 952.55

長生村
522.24 433.58 955.82
9,672.80 3,961.957 13,634.37
(両総用水パンフレット)

 ではこうした大事業の事業計画が、いつ頃どのようにして作成されたのであろうか。
 大網白里町の名誉町民十枝雄三が本計画に深くかかわりをもっていて功労者のひとりにあげられている。十枝雄三は昭和八年六十歳のときに福岡村村長、昭和十四年から県会議員になっている。両総用水の問題がおこり十枝雄三が活躍するのはこの頃のことである。
 十枝と当時の県会議長で現九十九里町出身の伊藤博愛は、昭和十四年十二月鳥取県知事より千葉県知事に転任してきた立田知事に、直接九十九里の旱害地を視察してもらって実情を知ってもらうことが第一であると考えた。しかし当時は官選知事の時代、視察は重要な意味をもっていた。十枝雄三が後に『土地改良新聞』昭和二十九年二月一日号「両総用水に関する座談会」の中で、当時(昭和十五年六月)のことを回想して次のように語っている。
 
  どうやったら県および政府にお願いしてまとまりがつくか見通しがなかった。そこで一意専心、この亀裂しておる旱害地を見せるより他にない……県会議長の伊藤君と相談して知事に見せることにした。ところが、当時の事情は現地を見て事業にかかわることを知事はきらって、なかなか出て来ない。幸い、ちょうど、砂鉄を官費でもって作る事業の起工式があり、出席した知事の出てくるのを、警察署長の車を借りて、無理往生に現場に案内した。
 
 この記事によれば、立田知事は旱害地視察にあまり乗り気ではなかったようである。一方、十枝雄三と行動を共にした当時の県会議長伊藤博愛は次のように述べている(『両総土地改良区史』上)。
 
  昭和十五年、重ねて、旱害に襲われた。当時私は県会議長の職にあり(同年二月から)大利根用水事業を見学するに及んで、もう少し大仕掛な揚水機を佐原にしかけて栗山川の上流に落し、下流で揚げるならば、山武、長生の九十九里沿岸にかんがいすることは可能だというヒントを得た。そこで時の立田知事に進言すると、知事も共鳴し、市橋耕地課長に調査を命じた。耕地課長は東奔西走極めて熱心に調査研究の結果、具体案をたてたので、両総の名は、この時私宅でつけられた。知事はこれを農林省に持って行ったが、農林省では新潟県の蒲原と併行して工事は起こせないと難色を示した。そこで十五年十一月県会に提案実施を決議した。
 
 伊藤博愛千葉県会議長、十枝雄三、渡辺脩三らの呼びかけで、昭和十五年八月農林省に対して、現状の旱害に対する応急救済対策と、恒久対策事業の両方を併せて陳情することになり、その内容は「旱害地二万町歩救済を目的とする両総用水改良事業を国営を以て昭和十六年度より実施してほしい」という趣旨のものであり、両総用水の名をもって国営事業実施の陳情が昭和十五年から開始されていることがわかる。しかも、大利根用水事業を発想の原点にしていることも伊藤博愛県会議長のはなしの中にあるが、これはあくまでも個人としてはそうであったかも知れないが、事業そのものが大利根用水事業を手本にしたとは言えない。
 また今井健彦代議士は次のように語っている(『両総土地改良区史』上)。
 
  元来、今日の両総用排水事業の原案は現地でできたもので、昭和十五年に十枝雄三、小川正義、それに県の耕地課長(市橋友次郎)が見えて具体案を示され、議会、政府方面に運動してくれと、熱心な陳情であった。そこで三氏と同道して、井野農林大臣、溝口農地部長を訪問して話すと、先ず県の態勢を固めよということであったので、現地、県当局は勿論、県選出の土屋清三郎、小高長三郎両代議士を加えて、三人で協力して中央工作をするよう申し合わせた。
 
 中央でこうした「根まわし」の作業がすすんでいる一方、専門的技術者のこの事業に対する具体的構想があった。当時の香取耕地出張所長の曳野賀重技師のプランに着目する必要があろう。香取郡日吉村(現・匝瑳郡光町)助役(後に村長)の鈴木伊平の談話が入っているのでここに引用する(『両総土地改良区史』上)。
 
  昭和十五年は又々大旱魃、九十九里一帯は植付け不能、私は六月十日、山村県会議員先導で、南条、東条各町村長出県して織田経済部長と懇談、水利問題の基本解決につき、利根川より揚水設備について、曳野賀重技師の腹案についてその実現を懇請した。立田知事も、このことについて内々承諾の旨、織田部長より伝えられるに至った。これが現在工事中である両総水利事業に蒔きつけた一粒の種であった。
  曳野君は私の区の耕地整理事業及びその後いろいろの耕地改良事業の指導者であって、年々名物になった水げんかも要するに栗山川の水量が不足の原因だからとて、栗山川上流の調査を行なってみたが、方法がないから、むしろ利根川揚水を根本として研究、香取郡久賀村(現多古町)から日吉まで、匝瑳郡南条村及び山武郡の一部を区域としての計画をたてて、私がこれら町村の同意を求めて、立田知事の内意により陳情して、昭和十五年の県会で議決した処、山武、長生もこれに割り込んで来るようになり国営事業に発展してきたのである。
 
 また、この事業の発足する契機を鈴木は次のように述べている。
 
  (昭和十四、五年の頃のこと、)私が香取耕地出張所に立寄ると、曳野さんは五万分の一の地図を拡げて、利根川から水を揚げて沿岸各町村及び南条と、できうれば両国新田まで通ずる仮計画を研究したものであった。その時、付け加えて一身上の話もせられた。「私も永い間、千葉県の飯を食って居たが、モウ遠くないうちにお暇も出るだろう。私は鳥取県から来ているのだよ。東葛方面では、処々揚水施設もして来たが、一生の記念に大事業を残して行きたい。君の方の水げんかも要するに栗山川の水不足のためだ、私は先年栗山川の調査をして水源の乏しいのを知った。他から持って来る方が得策だ。利根川という無限の水が流れているではないか。」と計画の一端を語られ、一つ君の手で関係町村に説きつけてくれまいか、と言うから、しからば私が多古に各町村長を集めるから御出張を願いましょうといって、久賀、多古、中、吉田、南条、東条の各町村長を集め、かくて各町村長の調印を採り、出県し課長に提出した。現在行なっている日本一の大水利事業運動の始めがこれである。
 一方、曳野賀重の書状(両総用排水事業着工に関する)も残され、概略は次のとおりである(『両総土地改良区史』中)。
   (前略)
  出来上がった概説書をとりまとめて県に出頭、当時の主席立花益三属に概要を説明し、調査費約二十万円位を申出ましたところ、君、こんな尨大な仕事、大体追加は今時県会に出せないよと一蹴され、そこで耕地課長(市橋友次郎)に申出て原了、桜井彦三両技師共に集まっていただき、概要を説明いたしました。すると、明日から二日で、佐原の利根川から栗山川まで一応踏査しようということになり、一回目は、利根川の取入口から栗山川までの約三分の一を踏査し、その夜木内楼に一泊、夕食の折、事業の名称を何んとするかと、課長にいわれ、その時私は課長の名前を採って友次郎用水としてはと言った。それはおかしい。今夜一晩皆で考えようと、翌朝になって関係地域が下総と上総の両国にまたがるから両総としようと一決した訳です。これが両総の初まりです。
   (中略)
  その発表の日の正午前、佐原町の治水委員等を務められていた町の有力者故人大野省三氏と、坂本斉一氏(現土地改連会長 東京日々新聞記者)両氏から電話にて会談したいと申込があったので、大野氏宅で会見。両氏から今朝の新聞で見ると、山武・長生の方にまで水を送るそうだがと、驚き顔で、それよりも地元の大須賀川、小野川の治水が先決ではないかと、一寸不満そうでありました。そこで私は、排水も考えないではない、実は三千町歩以上でないと、国営として認められないので、用水一本立で行ったが、大須賀川、小野川沿岸地帯も用水不足地として受益地になってはいるが、排水地域は二千町歩しかない。これをどう結びつけるか、それを苦慮し、私としても勿論加えなければ、地元にすまないと考えていると答え、両氏は排水は是非共この計画に組入れてもらいたいといわれ、充分考えてみることで別れました。
  この日まで所(佐原出張所)の職員連中は、曳野所長は気でも狂ったのではないかと思っていたが、今日はじめて訳がわかりましたと言われたので、自分も驚きました。
   (中略)
  その後両総の起源について、色々な異様な事実が生まれつつありまして、農林省では、事業所で、両総(用排水事業)のはじまりからの映画を作り、それには山武郡の十枝雄三が、先祖の御墓に御参りし、御祈りし、空を仰いでいて考え付いたのが、この両総用水の始まりで、計画路線は技師が説明し、工事の現場が出てくる、さもまことしやかに作り上げられた映画で、実に私としては、驚き入りました。十枝氏は印旛沼から引水することで、また県の桜井技師も一時その意見であったのです。
  それとまた坂本斉一県土改連会長が、県の大須賀川支線計画概要(竣功記念)、昭和三十八年三月発行に回顧として次のごとく記載されています。「昭和十一年、私は県会に席を置く。……困っていたのは独り大須賀川のみでなく、九十九里地帯が大変な旱魃地帯であるので、これを広い視野から、両方を総合しようという方向になり、……私はこの問題は、利根の水害地から水をもって来るのであるから、水害をそのままにしておいて、つまり大須賀川をそのままにしておいて、九十九里沿岸の灌漑対策ばかり、(中略)名称を、……総合事業だから両総がいいじゃないか。」と以上まことしやかに述べられ、いかにも坂本氏によって両総が生まれたかのようですが、かかる意見一致を見たとすれば、吾々の耳に直接、間接に直ちに入るべきでありましょう(下略)。
 
 こうしてみると両総用水の事業は各地でいろいろな人びとの活動が集約されてひとつにまとまったもので、特定個人の尽力によってこうした大事業は成功するものではないことを証明しているといってよいであろう。それは名称を「両総」とする一事のみでも、いろいろあることがわかる。手記としてとりあげた人びとが各自みんな自分のところでこの事業がひとつの形を成したと思っているのであるが、広域的なこの大事業がそう簡単に実現するものではないことをこの引用資料をとおして、知ることができよう。
 
表108 用水計画
栗山川沿岸の常磐第1(用水),第2(用水),多古線(用水),南条線(用水)の4支線は国営幹線が排水河川を利用するのでポンプ揚水による外,最末端の茂原線(用水)を含め5支線の揚水機による分水で他の10支線はすべて自然取水による。
各支線別関係面積,取水量並に規模を示せば次表のとおりである。
支線名 支配面積 必要水量 利用水量 補給水量 取水量
ha
 
大須賀線
 
966.01
m3/S
0.76128
m3/S
0.39430
m3/S
0.36698
m3/S
0.553
常磐線 419.39 0.35973 0.09760 0.26213 0.395
多古線 389.24 0.34476 0.15920 0.18556 0.280
南条線 417.53 0.31839 0.08017 0.23822 0.359
松尾線 319.23 0.30204 0.07500 0.22704 0.342
南郷線 668.01 0.84981 0.08700 0.762810 1.150
東金線 1,600.22 1.99361 0.26548 1.72813 2.604
福岡線 1,732.03 1.80497 0.46166 1.34331 2.024
増穂線 170.57 0.15132 0.01050 0.14082 0.212
大網線 579.25 0.58370 0.28524 0.29846 0.449
本納線 582.72 0.72602 0.05947 0.66656 1.004
東郷線 499.41 0.65422 0.65422 0.988
高根線 568.77 0.60674 0.60674 0.914
茂原線 188.92 0.22950 0.22950 0.344
五郷線 186.44 0.17528 0.02580 0.14148 0.225
9,287.75 9.86137 2.00142 7.85995 11.843

 事業量
 
用水支線  15支線
      m
延長 153,772.66
 
排水支線  7支線
      m
 〃  31,533.20
      m
合計 185,305.86
 事業費(昭和39.8現在)
総  額  2,854,000,000円
負担区分 国庫補助金 1,427,000,000円 事業費の50%
県   費  713,500,000円  〃  25%
地元負担金  713,500,000円  〃  25%
(両総用水パンフレット)

表109 両総支線用排水改良事業事業量及び事業費年度割表(39.9現在)
     年度別
線名
総    量 37年度迄 38 年 度
事業量(m) 事業費(円) 事業量(m) 事業費(円) 事業量(m) 事業費(円)
用排水路工 185,305.86 2,541,304,733 116,907.33 1,337,710,838 18,993.17 226,309,000
大須賀線(排水) 5,858.20 92,757,912 5,858.20 90,258,112 暗渠・橋梁 2,499,800
大須賀線(用水) 5,396.44 73,263,206 5,396.44 73,263,206
常磐線(排水) 5,753.00 68,065,656 5,753.00 68,065,656
常磐線(用水) 8,532.06 86,246,639 8,532.06 86,246,639
多古線(用水) 4,654.55 39,755,189 4,654.55 39,746,479 用地費のみ 8,710
南条線(用水) 6,851.57 70,582,077 6,851.57 70,582,077
松尾線(用水) 3,874.26 33,573,121 3,874.26 33,573,121
南郷線(用水) 13,360.45 131,668,950 11,153.53 114,262,771 用地費のみ 82,741
東金線(用水) 22,692.07 332,661,530 18,842.78 212,215,531 1,470.00 13,125,366
福岡線(用水) 22,784.19 317,183,123 10,523.29 177,387,179 3,916.30 49,410,988
増増線(用水) 2,961.23 15,444,333 2,961.23 15,443,333
大網線(用水) 12,646.65 76,026,470 12,646.65 76,025,470
本納線(用水) 14,099.16 176,220,081 9,084.03 125,038,816 3,809.14 36,781,265
東郷線(用水) 13,699.73 148,024,785 3,899.92 56,025,674 4,388.81 46,216,111
高根線(用水) 12,109.95 161,518,637 3,448.97 61,196,637 3,169.32 42,891,081
茂原線(用水) 5,784.70 68,590,024 3,426.85 36,378,127 1,375.85 24,511,897
五郷線(用水) 3,305.00 37,018,000 859.75 10,781,041
小   計 165,383.86 1,928,599,773 116,907.33 1,337,710,828 18,993.17 226,309,000
 
真亀川上流(排水) 3,689.00 108,105,000
高倉川(排水) 5,203.00 163,208,000
北幸谷川(排水) 5,626.00 214,539,000
細屋敷川(排水) 2,992.00 72,388,000
浜 川(排水) 2,412.00 54,465,000
小   計 19,922.00 612,705,000
 
測量及試験費 11,599,495 3,904,900
施設費 33,122,000 14,807,500
試験用費 1,721,600 1,721,600
実施設計費 12,999,747 12,099,752 899,995
機械器具費 4,900,000
小   計 64,342,842 32,533,752 899,995
 
工事雑費 112,140,605 52,774,622 10,846,983
事務費 136,183,111 62,131,289 13,270,822
不要額 28,709 28,509 200
 
 
合   計 185,305.86 2,854,000,000 1,485,179,000 251,327,000

 
     年度別
線名
39 年 度 40年度以降 摘 要
事業量(m) 事業費(円) 事業量(m) 事業費(円)
用排水路工 17,314.76 224,083,000 31,069.95 753,201,905
大須賀線(排水) 34年完了
大須賀線(用水) 35年完了
常磐線(排水) 33年完了
常磐線(用水) 35年完了
多古線(用水) 34年完了
南条線(用水) 31年完了
松尾線(用水) 35年完了
南郷線(用水) 2,206.92 17,323,438
東金線(用水) 722.80 54,920,000 1,654.49 52,400,633
福岡線(用水) 5,263.70 56,159,000 3,089.90 34,225,956
増増線(用水) 35年完了
大網線(用水) 36年完了
本納線(用水) 1,205.99 14,400,000 39年完了予定
東郷線(用水) 5,411.00 45,783,000 39年完了予定
高根線(用水) 3,226.27 33,558,000 2,265.39 23,872,919
茂原線(用水) 982.00 5,700,000 39年完了予定
五郷線(用水) 503.00 9,094,000 1,942.25 17,142,959
小   計 17,314.76 219,614,000 11,147.95 144,965,905
 
真亀川上流(排水) 3,689.00 108,105,000
高倉川(排水) 用地費のみ 4,469,000 5,203.00 158,739,000
北幸谷川(排水) 5,626.00 214,539,000
細屋敷川(排水) 2,992.00 72,388,000
浜 川(排水) 2,412.00 54,465,000
小   計 4,469,000 19,922.00 608,236,000
 
測量及試験費 612,000 7,082,595
施設費 2,965,000 15,349,500
試験用費
実施設計費
機械器具費 4,900,000
小   計 3,577,000 27,332,095
 
工事雑費 11,130,000 37,389,000
事務費 13,730,000 47,051,000
不要額
 
 
合   計 252,520,000 864,974,000
(両総用水パンフレット)


図29 両総用水概要図
 
 当町出身でこの事業のリーダー的役割を果した十枝雄三が、昭和十五年から昭和二十七年七月八日までの手記を残されている。これは大変貴重なものである。『両総土地改良区史』上巻には年表形式で次のように掲載されている。本来全文を掲載すべきであるが、その余地はないので、ごく一部を掲載する。
    十枝雄三氏記録(『両総土地改良区史』上)
 昭和十五年六月二十日 山武郡南部六か村長集合旱害対策協議会を開く。
   〃  六月二十五日 伊藤博愛県会議員と同行し立田知事と会見、現地旱害状況の視察を強要す。
   〃  六月二十八日 立田知事、海岸線の旱害地帯を視察す。十枝同行。
   〃  七月三日 立田知事再度視察、被害の激甚な大網、増穂地区を十枝、石野同行。匝瑳郡をぬけ旭に至る。
   〃  七月五日 白里に南部町村長会合し、対策を協議す。
   〃  七月二十五日 大利根用水の施設工事を十枝外視察す。
   〃  七月二十七日 山武町村長会を東金役場に招集。農林省案である利根川引水案支持に決し、委員に左の五名を挙ぐ。中村汎愛、石野操一郎、小川正義、秋葉谷太郎。
   〃  八月十六日 政友会支部解党式の後、加納屋での懇談会席上、偶々、坂本、小堀(晃三)両氏と十枝会見し、排水工事と用水事業とを一本化して実施することを申し合わせ、急進展す。
   〃  八月二十四日 農林、大蔵、内務の意見整わず難行の由なれば、近衛文麿公の側近白鳥敏夫氏の親友石和田氏を幸治(筆者注、現長生郡白子町)の宅に訪ね、快諾を得る。この旨渡辺脩三氏に報告。
 昭和十六年二月十日 七十六議会請願委員会に附託する。
   〃  五月二十三日 立田知事送別会(後任事務引継を了す)。
   〃  六月三日 藤原孝夫知事新任早々現地視察す。
   〃  七月二日 千葉県両総用水改良事業期成同盟会成る。東金に事務所。会長十枝、副小堀、渡辺、常任委員坂本、鈴木(昇)、小川、石野、加瀬、脇田、千葉
   〃  七月二十八日 知事会の席上藤原知事、陛下に奏上。
   〃  八月二十一日 内務省で異議を唱へる中心人物、鈴木雅次技監に陳情す。
 昭和十七年二月十八日 県臨時議会に於て、地元負担金百六十三万六千円に対し、起債二十七万二千円を議決す。
 昭和十八年七月十二日 開発営団起工式。
 昭和十九年七月十二日 佐原粉名口取入口に於て起工式を行う。川村知事、農林大臣、今井・成島代議士、県議、各組合幹部、県吏員等出席。
 昭和二十一年二月十九日 組合連合の初総会、管理者に小川、坂本、石野外。
   〃  六月六日 天皇佐原に行幸、御下問あり。
 昭和二十二年二月四日 松之郷地先に於て起工式。東金高等女学校に於て祝宴。熊谷、西松、大成各建設、松井、山武各土建と連合。小野知事、農地部長、青木代議士、その他出席。
   〃  八月十五日 営団解散内令の報。
   〃  九月二日 営団解散に伴い、農林省に事業移管の勅令。これがため十月一日以降事務空白となり現場休業状態となる。
 昭和二十三年二月三日 国会に大蔵大臣、竹田大臣、農林大臣と会談、約なる。
   〃  八月二十九日 開拓局長の案内で、司令部整理課長と国営のことで懇談会。
     (以下略)
 
 両総用排水事業は十枝雄三の手記によっても戦時中の困難をのりこえ更に戦後のインフレの中で、地域住民とその代表の熱心なはたらきかけのもとに完成し、世紀の大事業といわれるようになった。
 この事業の完成により、当町域を含む九十九里一帯の農民の不安は解消した。しかし、その後農業をとりまく諸事情は大きく変わり、米はあまり作らなくてもよいという政策がとられるようになり、両総用排水も水を使用しない時期には京葉臨海工業地帯の工業用水に、あるいは生活用水に使用できるよう「房総導水路」の建設がすすめられているのが現況である。