六 交通通信の発達

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 私たちの住む大網白里町は、むかしから山武郡の南の玄関的機能を果たした。同時にそれは上総国への出入口でもあった。
 近代になってからも、この交通上の重要性は変わらず県内でも比較的早く鉄道が開通し、当町に大網駅が開業している。
 太平洋戦争(第二次世界大戦)の末期には、県内の交通、特に鉄道は米軍機の空襲の被害を受け損傷が甚だしかった。
 写真にみられるように昭和二十五年一月十日付の『千葉新聞』は「南北郷土自慢くらべ」という欄の中に、五十年の古参者という題で「土気のトンネル」のことを紹介している。

写真 南北郷土自慢くらべ
(『千葉新聞』昭和25年1月10日付)
 
自慢というには気のひける代物だが、レンガ巻きの障壁には水こけが生え、せまくて低く頭のてっぺんに河童の如く水さらをいただき、古色そう然たる容ぼうの土気トンネル。
そもそもこのトンネルが出来たのは明治廿七、八年日清戦争の頃、鉄道線路の上を馬車でかけまわる馬車鉄道会社というのが最初千葉を起点として大網に向って計画された。測量も買収も大体終ったころ馬車馬よりもジョウキ車の方がよかろうというわけで房総鉄道会社が買取った。それで破天荒の事業(その頃では)である土気トンネルの工事に着手したのだがこれを請負ったのが夷隅郡東海村の大野丈雄さんと言われている。その頃は技術もあまり進んでいないので、カンでブチ抜いたというのだから驚く、しかも一方から掘り進んだのではなく東西両方から掘りはじめピタリとまん中で合わせたものだと言われている。カンの力もここに至ると大したものだ。もっとも大野さんという人の頭はズバ抜けてよく数字でかたまっていたというから、あの曲りくねった三百六十メートルをまん中で合わせる位、カンの力で平チャラであったのかも知れない。とにかく汽車ポッポが途方もなく珍らしい頃だったからあの穴の中へ汽車がもぐり込む偉観には、みんな眼をむいてびっくりしたものだ。いま時のように、うなぎの寝床のような長いボギー車や(中略)トロッコに毛の生えたような車三つばかりを軽便機関車が引っぱっていた。(中略)戦時中に堀を掘ったりしたのでそれに輪をかけて水はたまる、水はしみこんで、トンネルの中に川ができる(現在はコンクリートで固めて排水)……(下略)

 
 土気のトンネルはかなり損傷がはげしかった。
 しかも土気と大網駅間は、急カーブのうえ勾配二・五パーセントという運転上の難所で、大網駅には県下では珍しいスイッチバック方式が採用されていた。
 昭和二十六年十二月一日よりこのいたみの甚だしいトンネルを撤去し、切通しの「裸のトンネル」にする工事が開始された。国土地理院の二万五千分の一の地形図(東金・昭和五十一年修正図)には、土気―大網間の旧線路図が破線で示されており、現在はどこを旧鉄道が通っていたかもわからないが、この地図があるため改修以前の様子がわかる貴重なものとなっている。
図30 改修前の鉄道路線のあとが残る地形
図30 改修前の鉄道路線のあとが残る地形
 
写真 工事中の様子
写真 工事中の様子(1952.10.2写)
上の方が大網方面(『鉄道ファン』1982.1)
写真 「裸のトンネル時代」
写真 「裸のトンネル時代」(1962.8.15写)
(『鉄道ファン』1982.1)

 工事は、運転継続のまますすめられた。中間点に四十メートルの小トンネルを残し(土気第二トンネル)、昭和二十九年(一九五四)三月三十一日に完成した。
『山武地方誌』によれば、このトンネルの工事に三年の歳月と一億円の工費がかかったと記されている。
 しかし、こうした工事はそれまでのトンネルの不便や危険を一挙に解決した。hb
 
一、房総東線(現在の外房線)
 日本国有鉄道房総東線は本郡土気及び大網の二駅を経由して、安房郡鴨川町に至る路線であって、客車の一日の運転回数は、上り、下りともに十九回である。今主要駅に至る粁程を示せば、大網=両国五九・八粁、大網=鴨川七〇・四粁、大網=土気四・七粁、千葉=土気十八・五粁である。近代科学の発達に伴って、所要時間が短縮され、一般旅客を初め、通学、通勤者の交通機関として重要な役割を果している。此の外貨物列車を運転して地方産業の発展上に又、重大な寄与をしている。
二、東金線
 日本国有鉄道東金線は、総武本線と房総東線を連絡するところの緊要欠くことのできない線路であって、大網=成東間の延長一三・八粁、大網から福俵、東金、求名駅を経て成東に通ずる気動車である。客車の一日運転回数は、大網=成東間十六往復、大網=求名間二往復、東金=大網間三往復であって、最近市制を施行した東金市を中心とする交通は頻繁を極め、乗客数は急に激増した。外に貨車を運転して物資の輸送を担当し、地方産業の振興に大きな役割を果しつつあることはこれ又、多言を要しないところである。
三、大網駅
 1 所在地 山武郡大網町金谷郷四一番地
 2 沿革の概要
  ①明治二十九年一月二十日、房総鉄道株式会社が蘇我=大網間の鉄道を敷設して本駅は開業。
  ②明治三十年四月十七日、大網から上総一宮まで延長。
  ③明治四十年九月一日、法律によって国に買収される。
  ④明治四十四年十一月、東金線が求名まで延長。
  ⑤大正九年五月十五日、鉄道省が新設され、その所管に入る。
  ⑥昭和十八年十一月一日、運輸通信省、同二十年五月十八日、運輸省と改称され、その所管に入る。
  ⑦昭和二十四年六月一日、日本国有鉄道法によって、日本国有鉄道は独立して公共企業体となる。
  ⑧昭和二十五年八月一日、千葉鉄道管理局が新設され、この所管となった。
 
 当時(昭和二十八年)の大網駅の年間乗降客は次のとおりである。
  ①乗車人員一、〇八三、八八三人
  ②降車人員一、〇七〇、〇二三人
  ③旅客収入二九、八一六、八八三円
  ④貨物収入 二、〇一二、四九〇円
 房総東線の名称がついたのは、昭和八年四月房総一周の環状線ができてからであったが、その後鉄道の発達はめざましく、昭和二十三年には気動車化がすすみ、昭和三十三年十一月準急が新宿まで運行されるようになり、昭和四十七年七月全線の電化と共に東京直通の特急と快速が運行され、房総東線から外房線に改称された。
 この間、昭和四十四年八月房総から蒸気機関車が姿を消した。今はSLと言われて大人から子どもまで人気のまとになっている蒸気機関車ではあるが、当時は鉄道の合理化・スピードアップに障害があるといわれ、電気機関車や電車に主役をゆずった。
 
写真 土気トンネルを出て大網駅に入る特急
写真 土気トンネルを出て大網駅に入る特急
(『鉄道ファン』1982.1)
写真 大網駅最後の蒸気機関車
写真 大網駅最後の蒸気機関車
 

 一方新しい鉄道に対応していろいろな鉄道関係施設が建設されていった。
 前述の土気トンネルの改良工事に伴い路線が変更されたあとは、もとの自然にもどり、樹林の谷になった。
写真 路線変更によって樹林の谷となった旧路線
写真 路線変更によって樹林の谷となった旧路線
(『鉄道ファン』1982.1)
写真 房総東線複線電化工事
写真 房総東線複線電化工事
 

 また大網駅も昭和四十八年なつかしい昔の姿を消して、位置を変え、新しい大網駅(橋上駅)となった。もとの大網駅は数条の線路と駅構内の遺構が二、三残るだけで、はるかに面目を一新した新駅舎と駅前広場を望見することができ、新旧の対照が印象的である。
写真 旧大網駅のあと 昭和59年3月
写真 旧大網駅のあと 昭和59年3月
写真 旧大網駅のあとから新駅を望む 昭和59年3月
写真 旧大網駅のあとから新駅を望む 昭和59年3月

 『大網白里町基本計画』(昭和五十九年)は、交通体系の確立の中で次のように当町の交通(鉄道関係)について述べている。
 本町は、雄大な九十九里海岸を有することから、特に夏期における海水浴客の自動車交通の増加が著しく、県道白里大網線を中心とした幹線道路では渋滞をひきおこし、さらに生活道路や農道にまで入りこむことがしばしばあり、住民生活に支障をきたしている。こうしたことからも通過交通への対策及び幹線道路と生活道路との機能を明確にする必要がある。
 また今後、大規模な新市街地形成事業が計画されていることから、それらの市街地から発生する交通への対応、特にそれは通勤、通学、買物等の日常生活的な交通であると思われるので、前記の広域的通過交通との調整あるいは分離が必要である。
 鉄道は、大網駅を中心に、国鉄外房線・東金線の二路線があり、近辺町村に比べれば、比較的利便性は確保されているといえるが、千葉方面への通勤、通学時の混雑がひどく、乗車率が一八八パーセントにものぼっており、今後の課題である。また千葉方面からの最終電車が比較的早い時刻であることから、これへの対応も必要である。
 バスもまた本町の重要な足である。現在、大網駅を中心として五路線が運行されているが、今後の開発動向にあわせた適正なバス路線の確保及び運行本数の増加が必要である。
 交通は、ただ単に人や物、意志の二地点間への移動であるばかりではなく、それによって新たな生活や産業の展開が可能となるため、交通体系の確立をはかることは極めて重要であり、また、これが整備されることにより地域に大きな変化をもたらすことから、現況のみならず、将来的な予測に立った土地利用計画に整合して、整備されるべきである。

図31 鉄道・バス路線図
 
 次に当町域の道路交通の状況についてみることにする。当町域は『山武地方誌』にみられるように地形が比較的平坦で地形的に恵まれているため、道路土木行政の活発なる運営と相まって、近年(昭和二十八年)著しく整備、改善され、地方産業、交通運輸の上に寄与していて、郷土の繁栄のひとつの要因となっていることが述べられている。当時の枢要道路の当町域を含む郡内の状況は、次の表110に示したとおりである。
表110 山武郡内枢要道路現況(昭和三十年度)
種  別路 線 名延   長内     訳橋梁数路   面貫通市町村
道 路橋梁隧道渡船永久橋隧橋舗 装砂利道経過地
 
国   道
 
銚子、千葉

二六、九八四

二六、八四八

一三六
 
 
 
一二
 

七、五六四

一九、二八四
東金市、成東町 松尾町、横芝町
館山、茂原、千葉八、五六三八、五三三三〇六〇二七、九三一東金市、大網町
一般府県道成田、成東線一二、九〇三一二、九〇〇二一、九〇〇松尾町、二川村
八街、東金線八、九〇〇八、八九七八、八九七東金市、八街町
八街、成東線九、三〇一九、二九〇一一九、二九〇成東町、睦岡村
多古、横芝線四、七〇一四、九七九二二四、六七九横芝町、大総村
牛ノ尾、成東停車場線九、五五九九、五三六二三九、五三六成東町、豊岡村 二川村
鳴浜、成東線七、九〇四七、八七二三二七、八七二成東町、鳴浜村
東金停車場一二七一二七一二七東金市
片貝、東金八、五二九八、四九八三一一、七三三六、七六五東金市、片貝町
千葉、大網九、〇四〇九、〇三四九、〇三四大網町、土気町
白里、大網一〇、三〇六一〇、二六八三八一〇、二六八大網町、増穂村 白里町
大網停車場二二七二二七二二七大網町
一宮、飯岡線二一、七〇〇二一、五八二一一八二一、五八二蓮沼村、鳴浜村、緑海村、片貝町、豊海町、白里町
蓮沼、松尾停車場線七、五五八七、五三二二六七、五三二松尾町、大平村 蓮沼村
松尾停車場線三〇一三〇一三〇一松尾町
日向停車場埴谷線三、七六五三、七五五三、七六五日向村、睦岡村
一般府県道白浜、横芝停車場線五七五七五七横芝町
四角、東金線五、七〇六五、六六六四〇五、六六六東金市、鳴浜村
極楽寺、成東線一〇、九一三一〇、八九九一四一〇、八九九成東町、日向村 源村
横芝、八街線一一、一二二一一、一一三一一、一一三横芝町、睦岡村 豊岡村
求名停車場求名線二〇〇二〇〇二〇〇東金市
土気停車場金剛地線三、四七一三、四六六三、四六六土気町
土気停車場中野線四、一九五四、一九一四、一九一 〃
道庭、八街線一三、八三一一三、七九八三三二二、七九八東金市、日向村
上総、片貝停車場片貝線一二四一二四一二四片貝町
萩園、片貝線一二、六三四一二、四三八一九六一二、四三八上堺村、蓮沼村 緑海村
松尾、八街線七、九五四七、九四八七、九四八豊岡村、睦岡村
片貝、長者線七、二八八七、二七四一四七、二七四片貝町、豊海町 白里町
立会、横芝線七、三五〇七、三三〇二〇七、三三〇横芝町、上堺村
豊海、東金線九、〇八〇九、〇五六二四九、〇五六東金市、豊海町
小野、大網線五、三七五五、三七二五、三七二東金市、大網町
山田、大網停車場線七、三九八七、三九八七、三九八八街町、大網町
増穂、東金線四、八一七四、八〇八四、八〇八東金市、増穂村
関、大網線一、一〇二一、〇九一一一一、〇九一増穂村
旭、千葉線八、五〇〇八、四九五八、四九五二川村、八街町
二七一、四八五二七〇、六一三八七二六二三七九、八九九二六〇、七一四
(『山武地方誌』)

 また当町域の道路交通の現況と将来構想として『大網白里町基本計画』は、「交通体系の確立」と題して次のように述べている。
 
  本町は南総と北総、また首都圏と九十九里地域との接点として地域間連絡交通の要衝の地であるため、広域的通過交通が増大している。また千葉新産業三角構想においても、上総研究都市と成田臨空工業地帯とを結ぶ地として位置づけられていることからも、今後の産業の発展に伴い交通量の増加に拍車がかかるものと予想される。こうした交通は、主に自動車交通であるため広域的幹線道路の屈曲解消、拡幅等の整備を進めるとともに、自動車の市街地内の通過を排除し、歩行者の安全対策を図ることが急務である。
 さらに、こうした指針にしたがって、当町では次のような事業計画を立てている。
 1、幹線道路の整備
  (1)通過交通を市街地から排除するため、国・県道等幹線道路の整備促進を働きかける。
  (2)都市計画道路の建設を推進する。
  (3)永田、清水間の通称十メートル道路を海岸に至るまで整備するため、その計画化を図る。
 2、準幹線道路、生活道路の整備
  (1)地域住民の協力を得て、準幹線道路の整備を段階的に図る。
  (2)生活道路について
   ①土地利用及び施設配置の計画との整合性を考慮した生活道路体系を確立し、生活に密着した道路を中心に改良、舗装を促進する。
   ②交通量の激しい道路の歩道整備を推進する。また主要通学道路を指定し、通学の安全性を確保する方策を検討し実施する。
   ③安全施設の整備
    見通しの悪い箇所、幅員の狭い道路等交通安全上支障のある道路の改修、歩道、カーブミラー、ガードレール等交通安全施設の整備を図る。
  (3)生活道路等の快適性、安全性確保のため維持管理の充実を図る。
 

図32 道路網機能図(現況)
 
 現代の交通の課題は多い。特に自動車の普及により産業面でのプラスは数多いが、反面地域住民が排気ガスや騒音に悩まされ、あるいは事故の不安が問題である。どこの家でも自動車を持つことにより、被害者である反面、自動車を利用するときには加害者に変ぼうする。自動車は便利なものであるが、全面的に自動車に依存するのではなく、今後は効果的な鉄道との併用を工夫する必要があろう。
 通信関係についてみると、当町は郵便局が中心であるが、多様化する社会の中で、時間と距離の短縮を図り情報がすばやく伝わるようにするためには、このような通信機構の果す役割は次第に重要になってきた。次に当町内の郵便局の概要を示す。
 
  大網郵便局
 明治五年五月一日 開局業務開始(集配局)
 大正八年二月一日 電信事務受付開始
 同 八年七月二十一日 電話交換事務取扱開始(加入者数一三九人)
 同 八年八月二十一日 電信配達事務開始
 昭和二十八年中の郵便取扱件数
   通常普通、引受、 一五二、二〇〇通
     〃  配達、 二九二、八〇〇通
  増穂郵便局
 昭和十四年十一月一日 開局(無集配)
 昭和二十二年十一月二十五日 電話開設(加入者数二十四人)
  白里郵便局
 明治十三年五月一日 開局(集配局)
 明治二十三年十二月十六日 郵便為替受払事務開始
 明治四十四年三月三十一日 電報の受信配達開始
 昭和九年三月十六日 電話交換事務開始(加入者一二九人)
 昭和二十八年度の郵便取扱件数
  第一種  七五、〇〇〇通
  第二種 二一〇、〇〇〇通
  第三種   三、三〇〇通
  電報 発信 二、一八二件
     受信 九、六三一件
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表111 電話加入台数の変遷
年 度台 数備 考
昭和45年1,973電話自動化
  505,599(公衆電話含)
  557,400
  567,869
  578,283
(『'84町制30周年 大網白里』)

 現在の当町域の郵便局の状況は、集配特定郵便局二か所、無集配特定郵便局一か所で、管内での一日の平均郵便取扱総数は、通常郵便引受総数平均一、五〇〇通~二、〇〇〇通、配達総数平均四、〇〇〇通~四、五〇〇通、小包郵便引受総数平均十個、配達総数平均二十個である(『大網白里町農村総合整備計画書』)。
 電話については、昭和四十五年以来の台数の変遷は前表のとおりであり、前述の郵便局の概要に示された加入者の数と対比すると、如何に電話が日常生活と密着した存在になってきたかがわかる。
 こうして通信機構の発達は著しいものがあるが、日常一般の通信網が発達の中心であり、町の広報無線網の充実が求められている。
 戦後町役場を中心に、有線放送が全盛をきわめた時代があった(当町では昭和三十二年十月一日開設)。各戸に電話兼用の受信機があり、町の行政上の伝達事項などは特定時間をきめて、有線放送で各家々に伝えられた。
写真 有線放送交換室
写真 有線放送交換室
 
写真 有線放送受話機
写真 有線放送受話機
(昭和32年小西 畠山寛成家所蔵)

 しかし、その後電話の著しい普及により、有線放送は当町では昭和四十八年九月三十日に廃止された。このため町の行政上の必要事項を伝達する役割は専ら町の広報に依存することになり広報の内容は充実したが、当町域のように、広大な大海原を目の前にしている地域では、いつ大地震で津波に襲われるか予測は困難である。事実、歴史上では「元禄の大津波」の先例があるのであるから、住民に直ちに危険を伝える放送設備の充実と完備が求められ、町も、こうした事態を想定した無線放送塔を町内各所に図33のように備えているが、今後より一層の充実をめざしている。
写真 広報無線放送室
写真 広報無線放送室
写真 広報無線塔スピーカー
写真 広報無線塔スピーカー

 

図33 広報無線設置図