七 町村合併と町政の充実

1113 ~ 1169 / 1367ページ
 地方自治法の施行により、地方住民自身の手により福利を維持増進することが求められるようになった。
 昭和二十二年三月に学校教育法、同十二月に警察法、昭和二十三年七月に地方財政法、さらに新しい地方税法、農地委員会法、農地調整法、漁業法、公職選挙法、地方公務員法など占領下において続々と地方自治に関する立法が実施され、その内容は充実し、市町村の果たす役割がたかめられた。
 しかし、地方分権といって手放しで喜んでばかりはいられなかった。
 たとえば「六・三制」を規定した学校教育法は、小・中学校の経営費を通常市、町、村が負担するように定めていたので、市、町、村に多大な財政的負担を負わせることになった。さらに警察法では市及び五千人以上の人口を有する市街的町村に、原則として自治体警察を設置させることにしたため当該市、町、村は大きな負担となった。これに加えて、民主政治の基本方針に従い生活保護法、社会福祉法、児童福祉法、民生委員法等の一連の厚生行政の施行とともに市、町、村が財政面で負担しなければならないものが多かった。
 こうなると小規模の町村では、とてもこれを実施することはできなくなってしまった。その上敗戦後の復興の問題も加わり、従来のままではとてもなり立っていかなくなってきた。
 昭和二十四年五月十八日付の朝日新聞は、「地方政治を再検討せよ」という標題で次のようなことを主張している。
  今日の地方自治の最大の難関が地方財政の貧困にあることはいうまでもない。国も地方もこの財政難を打開するために、懸命の努力を払うべく義務づけられている。殊に地方自治制を確立した以上、国が地方財政の確立に出来得る限りの援助をあたえなければならないのは当然な話である(以下略)。
 しかし、こうした見解により国が対応策を樹立する以前に早くも各地方で、町村合併の問題が具体的な話題となっていた。これは、六・三制を主因とする町村財政の危機打開のため、むしろ自然発生的に生まれてきたものであった。
 昭和二十四年五月来日したシャウプ博士(カール・S・シャウプ・コロンビア大学商学部教授兼大学院教授)他七名の日本税制調査使節団一行の三か月にわたる調査の結果「シャウプ勧告」が提示され、町村合併は理論的根拠を与えられた。
 千葉県でも、この頃地方事務所に通牒を発し、町村合併の促進方を要請し、長生・安房の二郡に於て活発に合併の気運がもりあがっていった。
 しかし、その反面、明治(あるいはそれ以前の)・大正・昭和戦前に至る長い間に培かわれてきた郷土愛により、あるいは「おらが村」的意識のたかまりの中で、自分たちの代で、町や村の名が合併で消えるということにこだわりをもち合併が実現しないことも多かった。大体は新町村の名称、学校の統廃合、役場の位置などが論議の争点となった。
 町村長のなかには、こうしたゴタゴタにいや気がさして、任期途中で辞職したり、自殺問題までひきおこした例が県内でもいくつか存在した。
 こうしたなかで当町の場合、昭和二十六年四月一日、大網町・山辺村・瑞穂村の一町二村が合併して、新生大網町を発足させた。次に示したのはこのときの通知のハガキであるが「町村合同」といっている。

 
 

写真 大網町役場庁舎(昭和28年)
 
 この合併により新「大網町」は面積二十三、八八平方キロメートル、広さは南北六、五九二メートル、東西五、二五〇メートル、人口密度一平方キロメートル当り四四三人、町の概要は表112に示したとおりである。

表112 大網町の概要(昭和26年)
 
   合併についての参考
一、経費の節減
 1. 昭和二十五年度三ヶ町村の歳出予算の総合計は二千百三十一万一千円であり、この中合併によって節減された主なもの
  議会費 一〇〇千円
  役場費一八八〇〃
  警察消防費 四七五〃
  社会労働施設費一七四一〃
  統計費  六六千円
  選挙費 二四四〃
   計四五〇六〃
 2. 経費利用の有効価値が増加した主なもの
  土木費 三六四千円
  教育費一七九三〃
  諸支出金  六四〃
  財産費三〇六五千円
  産業経済費 四八二〃
   計五七六八〃

二、役場その他
 1. 大網町役場を本庁とし、瑞穂、山辺両役場を出張所とし、戸籍、配給、徴税事務を九月末日迄取扱って居りたるも、十月一日以降総ての事務を本庁で取扱うことゝした。
  但し、徴税は納税者の利便のため、一定期間出張所において出張徴収することゝし、又諸会合(農業委員会等地区的に打合せを要するもの)は民心の融和を図る意味に於て務めて出張所を利用開催す。
 2. 農業協同組合、農業委員会は、そのまゝ地区的に現存す。
 3. 農業共済組合は、工費七十万円余を以て三十五坪(二階建)の事務所を建設、昭和二十七年四月一日より統合す。
 4. 消防団は統合、左の通り組織す。
 5. 各種団体、青年団は統合、婦人会は旧町村に置かれ聯合会が組織さる。

 
 
三、教育文化関係
 1. 小学校三校はそのまゝとし、校名は従来通りとした。
 2. 学区は、地形、通学の利便を図り再編成した。
 3. 中学校は、四ケ町村(合併の結果現在は一町一ケ村となる)の組合立であって敷地一万三千七百十一坪、校舎建坪普通教室五百五十一坪五合、特別教室(割ぽう作法)七十坪三合、工作室二〇坪、合計六百四十一坪にして、設備の改善充実を計りつゝあり。
 4. 幼稚園
  町立幼稚園は、大網小学校附属として、昭和二十六年十一月一日開園、現在園長以下職員四名、園児百余名に達す。
 5. 洋裁学院
  町立洋裁学院は、昭和二十七年四月十日開院、院長外職員六名、現在生徒数三十名なるも、逐次増加の見込である。
 6. 公民館は併用一、分館(専用)八にして本館分館として組織す。
 7. 綜合病院大網町外二町三ケ村組合立山武郡南病院(本館一七〇坪、住家一五坪二合五勺、車庫六坪、便所一坪、守衛所三坪)は本町内に設置され、昭和二十七年十二月一日より事業を開始す。
 8. 授産施設
  社会福祉法人房総福祉協会経営の授産所(建坪四十九坪)は、大網町外七ケ町村(合併により五ケ町村となる)の民生委員会が連合体として、関係地域の身体障害者、引揚者、未亡人、生活困窮者等に民生事業の一端として「うちわ」の製造技術を授け、郷土芸術を加味した「みやさくうちわ」の製造に成功、各方面よりの需要多く、年産二十万本を突破するに至る。
四、農村関係
  本町は農家地帯が大部分なるを以て市街地と農村とは相関的関係が密であるので、当然市街地の発展は、外廓農村の繁栄に俟たなければならないので、まづ産業関発に傾注しつゝあり。
五、土木関係
  道路を良くしなければ、農村の発展はもとより文化生活も出来ない。この意味において合併初年度より道路の完備(環状線、放射線)に力を注ぎつゝあります。他面本年は県並に国庫よりの補助により二百(万)円余を以て失業対策土木工事を施行しつゝあり。
六、その他
 1. 地方税整理組合
  大網町外三ケ村(合併により一町一村となる)地方税整理組合は昭和二十五年設立、事務所を大網町役場に置き、職員二名を配置、税の滞納を処理しつゝあり。
 2. 工場誘致、庶民住宅(現在五戸及び本年申請により許可のもの五戸計十戸等)優先的に取入れられて来た。
   合併後の大網町
一、経費の節減
 1. 昭和二十五年度三ヶ町村の歳出予算の総合計は千七百五十四万七千円であり、この中合併によって節減された主なもの
    議会費  六八千円
    役場費一九五四千円
    警察消防費 四二七千円
    社会及労働施設費一三三五千円
    統計費  七二千円
    選挙費 二〇一千円
     計四〇五七千円
 2. 経費利用の有効価値が増加した主なもの
    土木費一四五六千円
    教育費三六五〇千円
    諸支出金  六四千円
    財産費二九八四千円
    産業経済費 二七六千円
     計八四三〇千円

二、役場その他
 1. 大網町役場を本庁とし、瑞穂、山辺両役場を出張所とし、戸籍、配給、徴税事務を九月末日迄取扱って居りたるも、十月一日以降総ての事務を本庁で取扱うことゝした。
  但し、徴税は納税者の利便のため、一定期間出張所において出張徴収することゝし、又諸会合(農業委員会等地区的に打合せを要するもの)は民心の融和を図る意味に於て務めて出張所を利用開催す。
 2. 農業協同組合、農業委員会は、そのまゝ地区的に現存す。
 3. 農業共済組合は、工費七十万円余を以て三十五坪(二階建)の事務所を建設昭和二十七年四月一日より統合す。
 4. 消防団は統合左の通り組織す。

 
 
三、教育関係
 1. 小学校三校はそのまゝとし、校名は従来通りとした。
 2. 学区は、通学の地形、通学の利便を図り再編成した。
 3. 中学校は、四ケ町村(合併の結果現在は一町一ケ村となる)の組合立であって敷地一万三千七百十一坪、校舎建坪普通教室五百五十一坪五合、特別教室(割ぽう作法)七十坪三合、工作室二〇坪、合計六百四十一坪にして、設備の改善充実を計りつゝあり。
 4. 公民館は併用一、分館(専用)八にして本館分館として組織す。
 5. 綜合病院大網町外二町三ケ村組合立山武郡南病院(本館一七〇坪、住家一五坪二合五勺、車庫六坪、守衛所三坪、便所一坪)は本町内に設置され、既に工事は完了近日中事業開始の運びとなる。
四、農村関係
  本町は、農家地帯が大部分なるを以て市街地と農村とは相関的関係が密であるので当然市街地の発展は、外廓農村の繁栄に俟たなければならないので、まづ産業開発に傾注しつゝあり。
五、土木関係
  道路を良くしなければ農村の発展はもとより文化生活も出来ない。この意味において合併初年度より道路の完備(環状線、放射線)に力を注ぎつゝあり、他面本年は、県並に国庫よりの補助により百万円余を以て失業対策土木工事を施行しつゝあり。
六、その他
  工場誘致、庶民住宅(現在五戸)の建設等優先的に取入れられて来た。
    合同後における事業の概要
一、土木関係
 1. 道路
  イ、山辺地区本金谷隧道(延長四〇間)を拡大、地盤の切下げ、且つコンクリートによる舗装工事
  ロ、瑞穂地区引戸地先道路改修工事
  ハ、瑞穂地区砂田隧道地盤切下げ工事
  ニ、瑞穂地区大城隧道地盤切下げ工事
  ホ、瑞穂地区小学校前隧道開鑿工事
  ヘ、山辺地区停車場真行道路改修工事
  ト、山辺地区南玉道路土盛工事
  チ、山辺地区南玉池田地先道路延長工事
  リ、瑞穂地区宮崎、駒込地先道路改良工事
  ヌ、山辺地区二又道路改修工事
 2. 橋梁
  イ、山辺地区大竹橋(木橋)工事
  ロ、山辺地区長谷川橋(コンクリート)工事
  ハ、山辺地区南玉地先コンクリート管工事
  ニ、大網地区道塚コンクリート管工事
  ホ、大網地区蒲田放水路水門改修工事
  ヘ、瑞穂地区中原コンクリート工事
  ト、瑞穂地区蒲田コンクリート工事
  チ、瑞穂地区永田橋梁兼用コンクリート管放水路工事(二ケ所)
 3. その他
  イ、全地域枢要通路に砂利約四〇〇屯を敷設す
  ロ、失業対策土木事業により、宮谷坂より沓掛に至る約四粁の道路の改修工事を続行中
  ハ、土木工事用として、レール約八〇間の器材を購入
  ニ、大網、山田台線の県道延長工事の促進運動
  ホ、県営住宅五戸の外、町営住宅五戸を県費補助により目下工事中
二、教育関係
 1. 大網小学校関係
  イ、衛生室、炊事室の新設
  ロ、水道工事の完了
  ハ、研究学校の指定
 2. 瑞穂小学校関係
  イ、運動場の拡張工事
  ロ、校舎の修繕並移転工事
  ハ、ピアノ購入
 3. 山辺小学校関係
  イ、小使住宅の新設並使丁の常置
  ロ、放送施設
  ハ、ピアノ購入
 4. その他
  イ、幼稚園の開設
  ロ、洋裁学校の開設
  ハ、青年学級の開設
三、産業関係
 1. 農業委員会
   大網、瑞穂、山辺各委員会単位に目標を樹立活動しつゝあり
 2. 農業共済組合
   三地区共、統合し、町費の補助により工費七十万円余を以て三十五坪(二階建)の事務所を建設
四、減税処置と蓄積
 1. 全区域に納税組合を設け、納税意欲の昻揚と税の軽減を図る意味において、期限内完納者に対し、一〇%の報償金を交付
 2. 新庁舎建設資金として三百万円積立
五、衛生関係
 1. 環境衛生と伝染病撲滅のため、消毒施設としてエンチンタスター購入
 2. 市街地糞尿汲取事業を町営を以て開始
 3. 寄生虫予防対策として、コンクリート大溜を町より補助金を交付、瑞穂地区に新設
六、消防関係
 1. 第二分団(瑞穂地区永田、萱野、駒込)の三分団に対し機械購入費として補助金交付
 2. 第一分団(大網地区)第四分団貯水池コンクリート工事費として補助金交付
 3. 第二分団(瑞穂地区)貯水池工事費に補助金交付
 4. 各部団に部団旗の配付、並全団員に対し制帽を配布す
七、事務関係
  事務の刷新能率向上のため諸機材の購入
 1. タイプライター
 2. 計算器
 3. 戸籍事務用コピー
 
表113 合併前後における財政上の比較
1.町村税に関する事項
 イ 税率
旧町村名町村民税々率固定資産税々率
大網町所得税×18/1001.6/100
瑞穂村
山辺村
新町村名町民税々率固定資産税々率
大網町課税総所得金額に対する累進税率1.6/100

 ロ 町税人口一人当り
旧町村名町民税一人当り固定資産税一人当り
大網町728円556円
瑞穂村587 645 
山辺村606 467 
新町村名
大網町734 747 

2.予算額,決算額について
 歳入
科目合併直前(昭和25年度)決算昭和28年度予定
大網町瑞穂村山辺村(新)大網町


住民税千円   
2,726( 33 )
千円   
1,490( 25 )
千円   
1,503( 25 )
千円
5,719
千円   
5,760( 24 )
固定資産税2,190( 27 )1,602( 27 )1,214( 21 )5,0065,624( 24 )
其の他725( 9 )558( 9 )480( 8 )1,7631,810( 8 )
平衡交付金532( 7 )835( 14 )946( 16 )2,3135,300( 22 )
その他2,001( 24 )1,477( 25 )1,765( 30 )5,2435,204( 22 )
合 計8,174(100%)5,962(100%)5,908(100%)20,04423,698(100%)

 歳出
議会費66( 1 )143( 2 )173( 2 )346188( 1 )
役場費2,772( 35 )2,403( 42 )2,252( 45 )7,4276,185( 26 )
土木費511( 6 )329( 6 )157( 3 )9973,954( 17 )
教育費1,738( 22 )797( 14 )913( 18 )3,4485,972( 25 )
その他2,865( 36 )2,094( 36 )1,592( 32 )6,5517,205( 31 )
合 計7,952(100%)5,766(100%)5,051(100%)18,76923,504(100%)
備考 括弧内は総額に対する100分率を示す。

 こうして新「大網町」が発足した後、昭和二十八年四月一日には大和村の一部、小西・養安寺・山口の内、堀畑が当町に編入された。
 昭和二十八年十月一日、町村規模の適正化を図るべく、三か年の時限法を以って町村合併促進法が施行された。昭和三十年四月全国的に各地方自治体の首長の選挙があるので、それに間に合わせたいというねらいもあったようである。
 しかし、当町域ではすでに大網町を中心に一町二村の合併が実施されている。この頃当町を含み山武郡内における昭和三十年二月までの町村の合併状況は表114に示すとおりである。
 
表114 山武郡内 市・町・村合併の経過
新設市町村名旧 町 村 名合併年月日附     記
大網町大網町・山辺村 瑞穂村昭和26・4・1昭和28・4・1 東金町誕生の際 大和村の一部を吸収合併した。
東金町東金町・公平村(一部を除く)
大和村(一部を除く)丘山村・正気村・豊成村
昭和28・4・1
東金市東金町・源村(大部分)・福岡村(大部分)昭和29・4・1
成東町成東町・大富村・南郷村昭和29・10・1昭和28・4・1 東金町誕生の際、旧成東町は公平村の一部を吸収合併した。
大網白里町大網町・増穂村・白里町昭和29・12・1昭和29・4・1 東金市制施行の際、旧白里町は福岡村の一部を吸収合併した。
山武町日向村・睦岡村昭和30・1・1昭和29・4・1 東金市制施行の際、旧日向村は源村の一部を吸収合併した。
松尾町大平村・豊岡村・松尾町昭和30・2・1
横芝町上堺村・大総村・横芝町昭和30・2・1
(『山武地方誌』)

 これによって、明治二十二年の市制町村制の施行以来約半世紀、山武郡内の町村数は三十二であったものが、この町村合併により、昭和三十年二月一日現在で一市十三か町村に激減した。
 つぎに『千葉県町村合併史』下巻に記述されている大網白里町の項をみると、「合併を必要とした事情」として次のように記されている。
  大網町、山辺村及び増穂村は、大網町の一部商業地区を除き、いずれも農業地帯であって経済上の利益を共通にするばかりでなく、大網町の商業は主として、隣接の農村部落に依存して、有無相通する関係にあり、一つの経済圏をなしていた。また人情、風俗、習慣も略々同様であり、従って三町村の間には公的協力も強力に行われており、組合立大山中学校の設置などは、その主要な現われの一つであった。三か町村の合併が、今回の町村合併の黎明期において実現をみたのは、当地区における相互依存の関係が極めて密接であったことに起因したのである。その後、大網町・増穂村・白里町三町村の合併が繰り上げられたのも、ほぼ同じ事情に基くものであって、その間に組合立国保病院が共同で経営されていたし、大網町・増穂村、山辺村及び瑞穂村の間には町村税整理組合が設置運営されていた。かくて関係町村住民の間には、三か町村を合併して、行財政力を増強し、これに基いた総合的計画の下にこの地方の発展を図ろうとする意向が強かった。
 
    合併の経緯の概要
  当地方には、はやくから合併の動きがあり、昭和六年頃すでに大網町と山辺村の間に合併問題がとり上げられた。昭和十年には合併の交渉が行なわれたが実現をみないで中断、終戦後、大網町及び山辺村の間に組合立中学校が設置され、次いで大和村及び瑞穂村がそれに参加し、後、山辺村、大網町、増穂村及び瑞穂村の間に税整理組合が設置運営される等、合併の基盤がはやくから形成されつつあった。かくて組合立中学校の設置を契機として、昭和二十二年一月先ず山辺村・大網町・増穂村及び瑞穂村合併の問題が一部の人々の間に採り上げられたが、実際問題となると容易に進展を示さずに数年を経過した。
  昭和二十六年三月にいたり、大網町、瑞穂村及び大和村の議会議員、町村助役、各種団体代表者等の協議会がもたれ、その結果、各関係町村から選出された町村長以下六名から成る四ケ町村合併推進委員会が設置された。爾来合併推進委員会を中核として関係町村間の協議が進められたが、同年三月二十五日にいたり、大網町、山辺村及び瑞穂村は合併に賛成であるが、大和村は地理的位置の関係から、全村をあげて本合併案に賛同することが不可能であることが明らかになった。よって合併推進委員会は協議の結果、一先ず大和村を除き、三ケ町村の合併を実現するため協議をすすめることになった。その間山辺村住民の一部に反対があったが大勢に影響するにいたらず各関係町村議会は、同年三月二十六日、それぞれ三ケ町村合併案を議決、四月一日発足の運びとなった。
  その後、大網町、増穂村及び白里町の間に合併の機運が抬頭し、関係町村長、議会議長等の間に協議が進められたが、昭和二十九年二月にいたり、各関係町村の議会議員、各種団体代表、元町村長等をもって組織する町村合併促進協議会が設置されると共に、町村長、助役、議会の正副議長、議員三名から成る合併実行委員を置いて促進を図った。かくて、協議会及び実行委員は二月十七日以来数回にわたって協議を重ね、新町役場の位置、新町の名称、新町建設計画等をはじめ、基本的問題に関する検討協議をすすめ昭和二十九年十月九日各関係議会は、それぞれ満場一致をもって合併案を議決した。
 以上のことを整理してみると、次の沿革図34のようになる(『大網白里町農村総合整備計画書』(昭和五十九年)。

図34 地域沿革図
 

図35 合併前の行政区域図
 
 合併した新町の名称は大変重要な問題で、これひとつが合併を促進する障害になることも珍しくはなかった。『千葉県町村合併史』下巻をみると、当町の場合はそんなに大きな問題にはならず順調にことが運ばれたようで、同書に、次のように記されている。
 
   新町の名称
  新町の名称については、慎重な審議が遂げられたが、「大網」は古来、大網宿として知られ歴史的に有名であるばかりでなく、交通の要衝として県内外に周知されている地名であり、一方白里町は九十九里沿岸漁業上重要な地名であり、且つ避暑地としても有名であるので容易に結論が得られず、その決定を知事に一任した結果両町名を活かした「大網白里町」の案が示され、そのとおり決定した。
   新町の役場は大網町役場庁舎に置き、白里・増穂村役場は出張所とするものとした。
   大網白里町役場所在地は、地理的には稍々中央を外れているが、鉄道及び道路を併せての交通上の利便及びその他の事情を考慮した結果、ここが新町の役場所在地として比較的適当と考えられたからである。
 
 合併当時の大網白里町旧町村の人口には次の表115に示したとおりであり、当町は一挙に人口二五、七三一人の町となった。町域のひとつの判断基準となるものに人口がある。
表115 合併時における旧町村の人口,戸数
町村名人   口戸数男女計 
大網町人
5,348人
5,691人
11,039戸
2,035増穂村1,8862,0613,947668白里町5,1325,61310,7451,864計12,36613,36525,7314,567(『千葉県町村合併史』下巻)

 合併以来の人口の推移に関しては当町が発表した『大網白里町農村総合整備計画書』に記述されている。これによれば当町の人口は合併後昭和三十五年から四十五年まで人口が減少したが、昭和四十七年に完成した外房線の複線電化により京葉工業地帯のベッドタウンとしての需要が急増し、住宅団地の造成など都市化の進展で、混住化の進行、農業構造の変化等、町の様相が大きく変化した、とある。
 これを同書の掲げるデータでもう少しくわしくみると次のようになる。
図36は当町域の人口及び世帯の動向であり、図37は人口動態の推移である。この二つの図をみると、昭和四十五年から五十五年にかけて当町の人口は次第に増加し、現在(昭和六十一年七月)は三万人を突破している。しかし一世帯当りの人員は次第に低下し核家族化の方向へ進んでいる。

図36 人口及び世帯の動向
 

図37 人口動態の推移
 
 また人口動態の方でみると当町の人口増が自然増よりも社会増であることがわかる。これは当町が合併後、町政面でいろいろ努力を払った結果が実を結んだことを意味しよう。人は住む価値が存在しないところには集まって来ないというのが、人口集中のひとつの基礎理論である。首都東京のようなところはなにもしなくても人口は集中するかも知れないが、地方の市町村にあっては、交通、住宅、環境、産業などの条件が町政面からの努力で、適宜にバランスよく構成されなければ人は集まってこない。こうしたことから合併後の町の発展をみるひとつの視点として人口をとりあげたのである。しかし、こうした人口増も全く問題点がないわけではない。図38に示した年齢階層別男女人口の推移(人ロピラミッド)をみると、二十歳代からゼロ歳までの、将来当町産業の後継者となるべき階層の人口が少ないことである。今後こうした現実をふまえた上での町政面の努力が求められるであろう。

図38 年齢階層(5歳区分)別男女別人口の推移
 
 当町の特色としては、従来の農業中心の地方都市から、外房線の電化、特急・快速の停車駅となり急速に住宅都市としての特色を顕著に示すようになり、合併後の当町は町としての行政、文化、教育などの諸施設の充足を示しつつある。当町域の諸施設の分布は図39に示したとおりである。

図39 町概要図
 
 次に当町域の人びとの就業構造をみると、昭和四十年代から図40の産業別就業人口の推移にみられるように変化を示しはじめている。これによると、農業などの第一次産業の就業人口が減少しているのに対し、第二次産業、第三次産業の就業人口が次第に増加している。この内容を従業地別(町内・町外に大別)してみると表116のようになる。

図40 産業別就業人口の推移
 
表116 従業地(町内・町外)別就業者数
 項目
年次
就業者総数町内就業数町外就業数備 考
4512,046人3,152人
(26.2%)
8,894人
(73.8%)
5011,729人3,856人
(32.9%)
7,873人
(67.1%)
5512,784人5,110人
(40.0%)
7,674人
(60.0%)
(『大網白里町農村総合整備計画書』)

 この表によると全体として町外に従業地をもつ人びとが多いのは住宅都市の特色として、当然のことかと思われるが、昭和四十五年以来五十年、五十五年と町外就業数が実数の上でも比率の上でも次第に低下していく傾向がある。このことは当町にとっては望ましいことであるといってよいであろう。
 次に産業別に当町域の特色と、そのしごとに従事する人びとのもっている問題点などについてみていくことにする。
 まず当町域では主産業は農業であるので、農業についてしらべてみると、最近は後継者の農業ばなれという問題が当町にも存在するようである。それは次の表117に示した自家農業に主として従事した世帯員の年齢別・男女別構成をみると、その問題点が把握できよう。『農林業センサス』の集計結果をみると農業従事者の総数は昭和四十五年は五、二〇二人、昭和五十年は四、二一六人、昭和五十五年、三、七三六人と減少傾向を示している。しかも労働力の中核的存在となるべき三十代から四十代の占める構成比が低下していき、反面六十五歳以上の人びとの占める構成比が増加している。しかも農家の二十歳代の女子の占める比率は極端に少なく、農家の嫁不足を裏付けるデータでもある。『大網白里町農村総合整備計画書』は「農家の花嫁問題について」として次のような図41を掲載している。これは当町が町内各地区住民に実施したアンケート調査結果であるが、実に八十パーセントちかくが「農家は嫁不足」と回答している。またその内容(理由)としては「職業的魅力がない」、「労働がきつい」、「経済的安定がない」、というのが三大理由である。これは農業のもつ零細性や収益性の低さということになるのであろうが、「農業の魅力」をもう少し角度を変えてみる必要があるかと思う。さらに嫁不足の問題も「家対家のつり合い」とか、その他農村に存在する先例や慣習の中に阻外要因がありはしないか、このデータをみてよく問題にされる。「嫁と姑」―農家の家族関係が意外に低いのは、時代の移り変りであろうか。
表117 自家農業に主として従事した世帯員の年齢別・男女別構成
(単位:人・%)

    年齢区分
男女区分
総 数16~
 19才
20~
 29才
30~
 39才
40~
 49才
50~
 59才
60~
 64才
65才
 以上


45
 

(構成比)

2,200
(100)

93
(4.2)

232
(10.5)

338
(15.4)

498
(22.6)

402
(18.3)

195
(8.9)

442
(20.1)

(構成比)
3,002
(100)
59
(2.0)
270
(9.0)
558
(18.6)
752
(25.0)
694
(23.1)
253
(8.4)
416
(13.9)

(構成比)
5,202
(100)
152
(2.9)
502
(9.7)
896
(17.2)
1,250
(24.0)
1,096
(21.1)
448
(8.6)
858
(16.5)
男女
比率
42.361.246.237.739.836.743.551.5
57.738.853.862.360.263.356.548.5


50

(構成比)
1,777
(100)
45
(2.5)
581
(8.9)
207
(11.6)
410
(23.1)
401
(22.6)
191
(10.7)
365
(20.6)

(構成比)
2,439
(100)
37
(1.5)
190
(7.8)
359
(14.7)
627
(25.7)
645
(26.4)
247
(10.1)
334
(13.8)

(構成比)
4,216
(100)
82
(1.9)
348
(8.3)
566
(13.4)
1,037
(24.6)
1,046
(24.8)
438
(10.4)
699
(16.6)
男女
比率
42.154.945.436.639.538.343.652.2
57.945.154.663.460.561.756.447.8


55

(構成比)
〈県構成比〉
1,554
(100)
〈100〉
44
(2.8)
〈1.4〉
85
(5.5)
〈8.7〉
167
(10.7)
〈12.1〉
253
(16.3)
〈19.0〉
416
(26.8)
〈25.4〉
195
(12.5)
〈11.5〉
394
(25.4)
〈21.9〉

(構成比)
〈県構成比〉
2,182
(100)
〈100〉
21
(1.0)
〈0.5〉
123
(5.6)
〈7.4〉
303
(13.9)
〈14.0〉
424
(19.4)
〈21.9〉
622
(28.5)
〈29.6〉
296
(13.6)
〈11.2〉
393
(18.0)
〈15.4〉

(構成比)
〈県構成比〉
3,736
(100)
〈100〉
65
(1.7)
〈0.9〉
208
(5.6)
〈8.0〉
470
(12.6)
〈13.2〉
677
(18.1)
〈20.7〉
1,038
(27.8)
〈27.9〉
491
(13.1)
〈11.3〉
787
(21.1)
〈18.0〉




〈県比率〉
41.6
〈40.6〉
67.7
〈68.8〉
40.9
〈44.7〉
35.5
〈36.9〉
37.4
〈37.1〉
40.1
〈37.0〉
39.7
〈41.2〉
50.1
〈49.3〉

〈県比率〉
58.4
〈59.4〉
32.3
〈31.2〉
59.1
〈55.3〉
64.5
〈63.1〉
62.6
〈62.9〉
59.9
〈63.0〉
60.3
〈58.8〉
49.9
〈50.7〉
『大網白里町農村総合整備計画書』


図41 「農家の花嫁問題」について
 
 当町域は、住宅都市化がすすみ、その基本原型が混住化型で、旧来の農家集落の中へ移住して来た人びとが住宅を建て生活をしているというプロットである。その現況は図42に示した混住化程度にみられるとおりである。

図42 混住化程度
 
 こうした特色を農業のような地域の課題を解決する上で工夫活用することも、今後の当町に住む人びとの大きな課題であろう。
 なお、商、工業等の問題は別項に記したのでここでは省略する。
 次に当町行政機構についてみることにする。現在の大網白里町の行政機構は図43に示したとおりである。

図43 大網白里町行政構成図
 
 現在当町役場の機構を整理すると表118のようになる、即ち、十一課(十課一室)、二十九係によって構成され町民へのサービス向上に努めている。
表118 大網白里町役場の機構
      数
名称
係の数備 考
町長公室3
総務課3
企画財政課4
都市整備課3
下水道課2
町民サービス課3
保健福祉課2
税務課3
農政課2
商工観光課1
建設課3
小 計29
備考  当町役場は11課(10課1室)29係で構成されている
(『昭和60年度版 市町村資料集』千葉県地方課)

 現行の機構に改められたのは、昭和五十九年四月一日からである。
 また当町の職員数は三三二人で人口千人当りの職員数は十一・八人である。詳細は表119に示したとおりである。
表119 大網白里町の職員数
         人員
区分
員 数備 考
人口千人当り職員数11.18人
職員総数332〃
一般行政職175〃
税務職14〃
医師、歯科医師6〃
薬剤師、医療技術職12〃
看護、保健職32〃
消防職0〃
企業職11〃
技能労務職58〃
教育職(小・中・幼稚園)23〃
その他の教育職1〃
(『昭和60年度版 市町村資料集』千葉県地方課)

 さらに町村行政上一市町村単位で実施するのは財政的に無駄な面が多くさらに負担も過大になるようなしごとに関しては表120・図44に示したように広域市町村圏で、相互に協力して、住民へのサービス向上に努めている。
表120 広域処理している事業名及び事業内容
組 織 の 名 称構 成 市 町 村内     容
山武郡市広域行政組合東金市、大網白里町、九十九里町、成東町、山武町、蓮沼村、松尾町、横芝町、芝山町市町村圏計画
住民登録管理事務
税務計算・給与計算
その他計算
し尿収集及び処理
霊柩車・火葬場・消防
東金市外二町清掃組合東金市、大網白里町、九十九里町塵芥焼却処理
不燃物処理
国民健康保険山武郡南病院大網白里町、千葉市(圏域外)内科・外科・放射線科
山武郡市広域水道企業団東金市、大網白里町、九十九里町、松尾町、成東町、横芝町、蓮沼村上水道事業
(『大網白里町農村総合整備計画書』)
注  国保山武郡南病院は昭和60年4月1日大網白里町立国保山武郡南病院となる。


図44 広域市町村圏域図
 
 次に当町の財政面についてみると、町の発展とともに年々その規模は増大して昭和五十七年度には約四十億円、昭和六十年度当初約四十二億二千万円となっている。その主たる構成は町税が最も多く、次いで地方交付税、国・県支出金等である。
 これに対しては歳出は図45に示したとおりである。

図45 歳出決算額の推移
 
 県内各市町村は「まち」の将来のためにどのような町政を推進していったらよいかを策定している。千葉県下におけるこうした「構想」は、千葉県地方課の発刊する『市町村資料集』に次のようにまとめられている(表121)。
表121 市町村行政関係
(1)市町村計画の策定状況
 ア 総括表
昭和60年5月1日現在
市町村数
昭和60年
5月1日
基本構想の策定状況基本計画の策定状況
策定済の市町村数60年度中に策
定(改定)予定
の市町村数
策定済の市町村60年度中に策
定(改定)予定
の市町村数
うちS59.5.2
~S60.5.1に
策定した市町
村数
うちS59.5.2
~S60.5.1に
策定した市町
村数
市 282841225213
町 474661740616
村  5501411
計 8079103069930

 イ 当町の策定状況
   区分

市町村名
基本構想基本計画実施計画基本構想の目標
(スローガン)
議 決
年月日
期 間作 成
年月日
期 間作 成
年月日
期 間
大網白里町55.4.755~6559.459~6559.459~61明るく,豊かな,住みよい田園文化都市

 前掲の各年度の予算もこうした「基本計画」をふまえて、どんなしごとに重点をおくか町議会に於て町長が十分説明して、議決を経て執行されるのである。
 これをみると、昭和五十七年度の歳出は三十九億九千五百万円である。昭和六十年度の場合は四十億一千六百万円である。山武郡内市町村の中では、東金市、成東町に次いで当町が第三位である。
 当町では「広報大網白里」などを通して町の歳入、歳出の状況に関してくわしく町民に伝えている。次にその事例を掲載しておく。
 
59年度町の予算
 
昭和60年度大網白里町一般会計予算補正状況
 
 
大網白里町財政事情
 
昭和60年4月号広報
 

 また町は町民のために各種行事を主催する。最近の例では、昭和五十九年十二月一日に大網白里町町制三十周年を迎えて記念行事を実施した。
昭和59年10月号広報昭和59年11月号広報

 なお記念行事ではないが、当町の合併二十五周年を記念して、「大網白里町町民憲章」が昭和五十四年十月五日に制定されている。
「広報大網白里」によれば「町民憲章は町民自らがきめるもので『町民像』として社会生活、日常生活の目標となるもので、この憲章の基本となった草案は広報(六月一日、七月一日号)で町民の皆さんから募集したもので、応募されたみなさんの作品をもとに、町民憲章制定委員会で、出来るだけ応募者の意志を反映させるよう慎重に協議し、草案を作成、更に専門家の意見を聞いて決定したものである。」と制定の経過を伝えている。これは当町の基本計画の中にも十分にとり入れられて、当町の将来構想の重要な指針ともなっている。

 
 
 このほか、当町に住む人びとに県外他地域の人との交流を通じ見聞を広めたり、よその土地のようすを知る機会を少しでも多くするため、自然、環境が当町と対照的な町である、群馬県中之条町と友好姉妹町提携を結ぶことが昭和五十四年二月二十三日に決定し、調印式が行なわれた。上信越高原国立公園にかかえられるようにして、四万温泉や沢渡(さわたり)温泉をひかえた中之条町は大網白里町とは対照的な山の町である。当町では姉妹町になることにより両町民が親しく交わればお互いの視野も広がり、町の発展にも寄与できると考え、町内の各種団体による人的交流や産業文化の交換行事などをさかんにしようと企図している。

 
 
 昭和六十年八月十七日、十八日には中之条町の合併三十周年を記念し、宮崎太一郎町長、吉田明春収入役、高橋芳之助町議会議長外一行約二百五十人が当町を訪れ、また当町からは子どもたち五十八人が八月五日から七日にかけて中之条町を訪れ「子ども交流会」を開催したりしている。
 また当町では町民の健康、医療に早くから着目し、昭和二十七年十二月一日に、組合立国民健康保険山武郡南病院を設置した。
 
  国保山武郡南病院
 当初は大網町・増穂村・福岡村・大和村・白里町・土気町の三町三村の組合立で国民健康保険直営診療施設であった。発足当初は大網二六四の旧富塚病院の施設百七十坪(木造平屋)を買収、翌二十八年八月結核病棟五十七坪を新築し、その後次第に拡張していった。診療科目は内科、外科、耳鼻咽喉科、眼科、放射線科をもつ総合病院で、病床数は三十九であった。

写真 旧病院の病棟
 

写真 開院当時の玄関
 
 病院は昭和四十七年に現在地に移転し、病院跡地は宅地造成されたため、今となっては当時を偲ぶことはできないが、木造平家建てで、廊下を歩くと独特のキシミ音がした。
 開院当初の組合管理者は大網町長島田正邦、病院長は千葉大学医学部第一外科出身の川越不二男が就任。医師は院長のほか一人、看護婦は二人。
 開院して間もなく盲腸の手術があったが、手術用の器材を消毒するものがなく、仕方なくナベで消毒して無事終了したことがあったというエピソードが残っている。
 昭和二十九年十二月一日に、大網町・増穂村・白里町が合併して大網白里町が誕生したため、大網白里町と土気町の組合立病院となる。組合管理者に大網白里町長内山仲が就任。
 昭和三十年十一月三十日付けで事務長糸日谷徳一が退職、後任として十二月一日付けで前町議会議員の加藤岡誠一(現大網白里町長)が発令される。
 昭和三十一年十一月一日に病院長川越不二男が退職、後任の病院長に千葉大学医学部第一内科から派遣されていた関秀一内科医長が就任。
 昭和三十九年四月一日付けで事務長加藤岡誠一が大網白里町(総務課長)に転出、後任として大網白里町から加養謙之助が派遣され就任。
 昭和三十九年八月七日に組合管理者内山仲が国立千葉病院で逝去、後任に九月二十二日に行われた大網白里町長選挙で当選した富田直恵が就任。
 昭和四十年十二月三十一日付けで事務長加養謙之助が退職、後任に四十一年一月一日付けで大網白里町から鳥居昶が派遣され就任。
 昭和四十三年四月一日から地方公営企業法の財務規定を適用実施。
 昭和四十四年四月一日付けで事務長鳥居昶が派遣を解かれ大網白里町へ、後任に事務吏員多田泰三が就任。
 昭和四十四年七月一日に土気町が千葉市と合併したため、大網白里町と千葉市の組合立病院となる。
 昭和四十五年十二月四日に組合管理者(大網白里町長)富田直恵が千葉大学附属病院で逝去。
 昭和四十六年二月十日組合管理者に大網白里町長土屋轍正が就任。
 昭和四十六年四月一日付けで事務長多田泰三病気のため退任、後任に大網白里町から嘉須利信夫が派遣され就任。
 病院の狭小、そのうえ老朽化のため早くから新病院の建設について検討していたが、昭和四十六年七月に用地(富田二三の二=現在地)を取得、昭和四十七年八月に着工し翌四十八年六月に完成、移転、病床数六十二。
 昭和五十年一月十六日付けで、組合管理者の大網白里町長土屋轍正が任期満了で退任、後任の組合管理者に一月十七日付けで大網白里町長に就任した加藤岡誠一が就任。
 昭和五十年九月一日付けで副院長に千葉大学医学部第一外科から今留淳が派遣され就任、常勤医師の確保により診療体制が若干充実した。
 昭和五十二年四月一日付けで事務長嘉須利信夫が退職、後任に大網白里町から大野博国が派遣され就任。
 同年八月第二次増築工事完了、病床数八十二に増床。
 昭和五十六年四月一日付けで事務長大野博国が派遣を解かれ大網白里町へ、後任に大網白里町から小泉哲夫が派遣され就任。
 昭和五十七年十二月一日に病院創立三十周年の記念式典を大網白里町中央公民館で行う。
 昭和五十九年四月一日付けで事務長小泉哲夫が派遣を解かれ大網白里町へ、後任に大網白里町から北田雅俊が派遣され就任。
 昭和五十七年度から三か年計画で実施していた病室の冷房工事が同年六月に完了。
 同年八月一日から看護婦の勤務形態を当直制から三交替制に改め基準看護を実施。
 同年八月二十日に、千葉市から市長の代理として成田市民センター部長が来町、加藤岡町長不在のため土屋助役に「千葉市は、五十九年度限りで一部事務組合から脱退したい」との申し入れがある。
 同年九月三日に千葉市長室で松井千葉市長と加藤岡町長が一部事務組合の解散について会談。その結果、①国民健康保健山武郡南病院組合を昭和六十年三月三十一日をもって解散、②財産は大網白里町が継承、③地方自治法第二百九十条の規定にもとづく解散の議決を両市町の十二月定例議会で求めることで合意した。
 一部事務組合の解散について両市町の事務レベルで協議をかさね、さらに県地方課の指導を得て内容を整え十二月定例議会に提案可決された。
 昭和六十年一月に開催された大網白里町臨時町議会で、国保山武郡南病院を町立で開設するための「大網白里町病院事業設置等に関する条例の制定について」が可決され、四月一日から町立病院として大網白里町が開設、運営することになった。
 同年四月一日に「大網白里町立国保山武郡南病院」として発足。
 発足と同時に給食業務の一部を民間に委託(県内の公立病院で四番目)。
 病院の診療体制は従来から常勤の医師及び看護婦の不足が指摘されていたが、医師は常勤の確保につとめた結果、昭和六十年四月から二人ふえ六人になった。常勤の医師を科目別にみると内科三人(うち一人が整形外科を兼ねる)、外科三人である。このほか千葉大学医学部等からそれぞれ専門分野の医師を非常勤で派遣を得て診療を行っているが、常勤の医師がふえたことにより診療体制が充実した。
 しかしながら一層の患者サービスを行うためには看護体制が十分とはいえないので、早急に整備をはかる必要がある。
 六十年度の医業収益は、診療体制が充実したことによって前年度と比較すると二十パーセント以上伸びる見込みである。

写真 国保郡南病院(昭和61年)
 

写真 最新の医療器機を備えた新病院
 
 さらに、当町が社会保障制度の一環として精神障害者の福祉のため当町南横川に、土地九、九〇〇平方メートルと医療設備等の個人寄附を受け、国庫及び県費補助事業として、町立救護施設房総平和園を設置している。その概要は、次に示すとおりである。
 
   救護施設房総平和園
 国鉄外房線永田駅から二キロメートル、大網白里町の南端、茂原市との郡境南横川の農村地帯の一角、白里海岸へ通じる十メートル道路近く、松林に囲まれた広いグランド、美しい芝生、昭和三十二年に設置されて以来、二十八年の年輪を刻まれた静かなたたずまい、陽あたりのよい木造平家建の建物が並んでいる。ここが当町の社会福祉施設「房総平和園」である。
 ここには、千葉県内各地から入所した十八才以上の様々な重い心身の障害をもった七十五人の人達が、二十四人の職員に守られ、それぞれの障害をのりこえ、人間としての希望と勇気をもって、お互いに励まし合い助け合いながら生活している。
 この施設は、生活保護法第三十八条に基づいて「身体上又は精神上著しい欠陥があるために、独りでは日常生活の用を弁ずることのできない要保護者を収容して、生活扶助を行うことを目的とする施設」と規定されているが、他の施設で受け入れられない種々の障害をもった人達をも含めて受け入れ、社会情勢の変化に対応できる幅広い目的をもっている施設である。
施設の種類生活保護法による救護施設(第一種・社会福祉事業)
名称房総平和園
設置主体大網白里町
経営主体大網白里町
所在地南横川一、七四八番地
開設年月日昭和三十三年五月一日
管理者大網白里町長加藤岡誠一
房総平和園長内山茂春
収容定員七十五人
施設の用地一〇、〇九五平方メートル
建物面積一、五七三平方メートル
施設建物内訳(表122)
職員の配置状況(表123)
房総平和園学習状況科目別講師一覧(表124)

表122 建物内訳
(61.1.1現在)
棟 別面 積内   訳
管理棟m2
189.515
事務室・面接室・医務室・静養室・当直室・霊安室
食堂棟203.81 食堂・調理室・食品倉庫・食器洗場・浴室
第1収容棟307.06 居室・洗面所・寮母室・便所等
第2収容棟234.30 居室・洗面所・当直室・便所等
第3収容棟279.42 居室・洗面所・作業室・理容室・療母室・浴室
訓練棟66.02 機能回復訓練室
その他293.00 作業室・洗濯場・衣料倉庫・物品倉庫・雨天物干場等
1573.025

表123 職員の配置状況
(61.1.1現在)
    性別
職種別
園 長1  1  
事務員1  2(1)3(1)
指導員1  1  
看護婦1  1  
寮 母2  11(1)13(1)
栄養士1  1  
調理員1  3(1)4(1)
介助員
小 計5  19  24(3)
嘱託医精神科(1)(1)
 〃 内 科(1)(1)
小 計(2)(2)
合 計7(2)19  26(5)
( )  嘱託 臨時
       事務(1) (2)
       嘱託医 (2)

表124 房総平和園学習科目別状況
No.学習科目講師名学習日
1絵 画吉田雄司毎週金曜日
2民 謡内山正弘第2,第4水曜日
3民 踊藤堂一子第2,第4水曜日
4音 楽今井久美子毎週木曜日
5編 物橋村辰子毎週火曜日
6彫 刻
(クリアート)
大橋清毎週水曜日
7三味線藤堂一子個人指導水曜日
8ピアノ今井久美子個人指導木曜日
9大正琴石橋てる個人指導月曜日
10書 道施設職員毎週土曜日
生 花
手 芸
茶 道
施設職員毎週日,木午後

   房総平和園のあゆみ
 房総平和園は、昭和三十三年五月一日、心身障害者に「生涯の幸の場を」と本町南横川小倉利良、きん兄妹の念願で、同家の山林三〇〇〇坪の土地の提供を受け、時の内山仲町長の英断により、全国で四番目の緊急救護施設として誕生した。
 戦後十三年、大網白里町は、町村合併四年後の極めて困難な町財政再建に必死の構えで取り組んでいる時代であった。凡そ社会福祉事業を行える余裕はなかったが一貫して、住民の福祉と人の和をもって行政を貫こうとする町長は、小倉兄妹の心身障害者の生きる道の険しさと、これをとりまく家庭での悲惨さ、社会環境の厳しいこと、障害者救済の必要性を力説する熱意にいたく心を動かされ、なお千葉県衛生民生部厚生課からも県内の実情を聞かれ時代の趨勢時機を得たものと判断し決意された。
 昭和三十二年九月定例町議会に提案、議会議員万場一致で建設事業が可決される。
総事業費五百三十五万一千円
東金市川上工務店へ一三五坪の建設工事入札、工事費四百五十五万円
 施設の名称は、「房総平和園」と決定する。昭和三十三年四月一日、大網白里町緊急救護施設設置条例が公布され、同日から施行
同年四月一日大網白里町立緊急救護施設管理規程制定
 房総平和園落成式並びに開園式挙行
千葉県加藤衛生民生部長外来賓多数の祝福を受け開園式が挙行された。小倉きんは、事務主任となり、「ほんとうに感激です。この仕事に力の限り努力していきたい」と感謝と決意が述べられた。
 入園者は迎えられた居室の青畳の匂い、温かい布団の感触、水道の水に驚き、螢光灯の明るさにまぶしみ、手をさしのべてくれる職員や仲間たちとの新しい生活の始まりに胸をおどらせた。
 創設当初の事業方針、(一)先ず園生の健康づくり、(二)健全な施設運営の基礎づくり、(三)明るい楽しい環境づくり、(四)円満な地域との交流を図ること、を目標とした。
 第一の仕事は、南横川各戸を廻って開設へのお礼と、施設のありのままの姿を説明し、協力をお願いした。みんなよい施設ができたと喜んでくれた。
 園内では、病人の看護・診療の補助、入園当初は殆んどねたきりの人、重い精神障害の者が多く、食事・洗面・排尿排便すべてに介護が必要な毎日であった。職員は、職種に関係なく処遇に重点を置き、園生の看護に徹底した。
 又知恵おくれの人達には日常の基本的な生活習慣訓練を行いながら、運動・レクリェーション・庭の整地・花壇づくりに園生も職員も一体となって働いた。こうしてほのぼのとする人間関係が生れていった。
 地元の人達から善意の植木や野菜が届けられた。平和園の名前に因んでと桜の苗木五十本を植樹し寄贈された岡本氏、町中の婦人会が町職員組合との提唱で「平和園に愛の手を」と全地区毎のリレー式の慰問が続いた。新鮮な野菜・日用品・衣類等が山になって届けられ、財政の乏しい施設運営にどんなに助けられたことであろう。当初人見知りをしていた園生たちも温かい訪問者の激励に勇気づけられた。
 しかし、一方、園生の中には過去長年の放浪生活から抜けきれず、しばしば無断外出をし、職員は、夜昼なく無事を祈りながら探し歩いた。園には電話もなく有線放送を通して地域の皆さんの協力を願った。知らない土地をさ迷い歩くこの人達は、自らの身を守ることを知らない人達である。二日、三日行方が分らず消防団の応援で山刈り捜査をし無事発見された時の感動は忘れることのできないドラマであった。
 この頃、社会福祉の気運も昻まり施設の視察見学が多くなった。なお続く入所申込者も多く、県下各地からの強い要望で、町長は、収容定員四十五人増の施設拡張を計画。昭和三十五年から三十六年にわたる、施設整備事業として二〇二・五坪の増設工事着工。東金市、坂梨工務店へ六、〇一〇、〇〇〇円で工事を入札、昭和三十六年九月工事完成。
 園長専任となり、加養謙之助就任、職員は十四名の配置、嘱託医としては、開設時の内科医師山武郡南病院中村武先生に加えて、千葉市の精神科医師木村薫先生に委嘱される。
 収容定員を、同年十二月七十五名に変更、千葉県知事へ届出し認可を受ける。
 建物、設備も増設整備され、一層の施設運営の基盤を固め、処遇全般の向上、地域との交流、非常災害対策の充実を図る。
 昭和三十六年六月、園生の機能回復、情操教育を目的とし、絵画学習が始まる。町内医師増田喬先生の紹介で東京美術高等学校出身、山武農業高校教頭、福岡中学校長であった夷隅郡岬町、吉田雄司先生が来園され、ボランティアとして絵画の指導に当る。
 毎週金曜日が学習日となった。かつて学校経験のなかった園生達は、当初、絵にも形にもならないものだったが、画用紙を手にし、先生に習う喜びがあった。勉強するんだという純粋な気構えがあった。そしていつしか、ひとりひとりの描ける絵は、平和園の歴史を表わし町や学校の文化祭にも出品できるようになった。
 建物も増設され大世帯となった平和園、緊急入院や、役場、各関係機関への連絡等の増加により、電話の必要性を強く要望した。
 昭和三十七年度県費補助金を受け、待望の電話が設置された。
 昭和三十八年四月加養園長退任板倉俊が園長に就任、平和園の五周年を迎え、内輪ではあったが、開設当初を偲び赤飯を炊いて祝った。平和園歌をしみじみと味いうたった。東金市富助一先生の作詞は「愛と情に包まれて人それぞれに実を結ぶ……」。正に平和園の心とした。
 昭和五十三年四月、日本チャリティ協会主催、全国心身障害者芸能コンクール出場東京明治神宮会館で「武田節」を七人の園生が踊り名誉会長三笠宮様から最優秀賞を受賞。
 開園二十年を記念して、九人乗り、ニッサンホーミーライトバン、平和園専用車購入、
 施設に待望の自動車と大喜びの園生、町木に因んで「もくせい号」と名づけ園の愛車となる。
 創立二十周年記念式典並びに記念行事として感謝会を開催。
 大網白里町中央公民館を会場とし、全園生列席、石橋代議士、千葉県知事、県議会議長、姉妹施設関係、帯広市長、助役、議長その他多数の来賓の祝福を受け、盛大に開会、加藤岡町長から永年の功労者に対して、表彰状並びに感謝状が贈呈され、増田園長から、二十年の経過が報告された。
 姉妹施設東明寮との交流は、年々深まり、昭和五十四年十月、帯広市から田本市長、帯広市議会、木ノ内議長来町の折、加藤岡町長との間で、両施設入所者の希望である親善交流訪問の夢を叶えさせてやりたいとの話合いがまとまり、五十五年から相互の交流訪問が実現される運びとなる。
 五十五年六月九日~十一日、園生五名、職員三名、第一回の親善交流訪問、生れて初めての空の旅、東明寮生との感激の対面、スズラン狩りや起居を共にして三日間。

写真 東明寮からスズランの贈り物
 
 五十六年三月四日~六日、東明寮生六名、職員四名来訪、平和園生との生活を共にし、お互いの発表、話合い、九十九里方面一帯への案内、帰路、木更津からフェリーで川崎から羽田へと園生全員で見送りながらのバス車中での交流。
 昭和五十七年八月七日~九日、帯広市開基百年市制施行五十年の記念式典へ町長、議長招待され、加藤岡町長、大矢議長、萱生文教福祉委員長外一行八名祝賀訪問、帯広市並びに東明寮挙げての歓迎を受ける。随行として、北山事務局長、増田園長同行。
 第二回親善交流訪問、昭和五十八年一月二十九日~三十一日、帯広市氷まつりへ招待され、園生三名、職員四名、訪問、冬の祭典氷まつりを寮生と共に見学、寮内では、わかくさ楽団演奏会、日頃の学習発表、手づくり料理でもてなされての温かい交流。
 昭和五十六年国際障害者年を迎える。地域の中に施設の人でなく、お互い人間同志の心のふれあう場となり、ますます交流深まる。
 開園以来続いている運動会は町中の人の参加となり、スポーツを通じての交流、ソフトボール、老人会とのゲートボール、そして盆おどり、文化祭、芸能発表会、小中高校生との交流会、クリスマス会、婦人会の奉仕活動二十年の伝統となった「ひのきしん」米穀組合青年部の餅つき大会、ライオンズクラブ、ロータリークラブなど、限りない人と人の関係は、園生に生きる力を与えられ又、園生の真心や純粋で、一心に努力する姿は接する人々の共感となっている。

写真 運動会風景
 
 昭和三十六年講師の指導で学んだ絵画から四十六年、民謡を内山先生に、民踊を藤堂先生に、五十四年、音楽を今井先生、編物を橋村先生に、彫刻(クリアート)を大橋先生に、三味線を藤堂先生と、大正琴を石橋先生と、それぞれの専門の講師によって学習している園生は基礎から学び、その歩みはのろくとも真剣に楽しみに勉強している人達である(表124)。
 その結果、県内で行われるボランティア講座の会場に、人として生きる園生の姿が、美しいコーラスとなり、又作品などが披露されるようになった。
 開園以来園生と共にあった増田園長が昭和五十九年五月四日、倒れ早急入院、第十九回関東地区救護施設研究協議大会を三日後に控え当番県としての責任者であった。研究テーマは「今施設に求められるもの」で、常に障害者の幸福を探求し、入所者、職員の向上を図り、園長としての責任を担い、社会の要請に応え得る施設としての発展向上、老朽化した施設の管理に心を砕いていた日々だった。正に青天の霹靂、知る人誰もが言葉もなく回復を祈った。
 加藤岡町長の下、全職員一致して、入所者の処遇、施設の運営の万全を期すべくその体制を強化した。
 本町保健福祉課から、内山茂春が園長を兼任、六月園長心得となり、十月園長に就任、施設の運営、管理全般の指揮、監督に当り、施設処遇の充実、職員体制を整え、安定を図る。なお、懸案であった施設老朽化に伴う、全面改築整備事業対策に、町保健福祉課と共に実現に向ってとり組む。
 増田園長は病気入院中の為、十月一日を以って総務課主幹となる。
 第三回姉妹施設親善交流訪問、六十年一月二十五日~二十七日 園生二名、職員三名は加藤岡町長と共に帯広を訪問、帯広市第二十二回の氷まつり見学や東明寮生との友情を深める。
 六十年七月十六日~十八日 東明寮生四名、職員五名本町を来訪、交流研修会や、ディズニーランドへ園生と共に見学交流、名残りつきない三日間を過す。
 房総平和園建設事業は一億六千六百二十万円で鉄筋コンクリート建て 六十一年~六十二年度の二か年事業として六三八・二九平方メートルで加藤岡町長の提案が議決された。
 高齢、重度化していく園生達、社会福祉も厳しい財政下にあって、複雑な家庭状況や社会環境の変化、種々の問題を抱えている社会に対応する救護施設は、地域住民の中の一つの生活の場であるとの再認識をし、総合福祉的役割をもつ機能の充実を図らなければならない。そのため次のような目標をもって運営されている。
 1. 生活の場として制約されず利用できる施設。
 2. 機能減退の防止、回復、リハビリー施設の充実。
 3. 医療、看護の徹底を図り、障害者及び病弱者にとって安らげる場としての施設。
 4. 人間生涯教育の場とする。
大網白里町住民として施設で生きる園生達は町民憲章を唱え、園歌を愛し、心から感謝の生活を送っている。
 こうした施設の他に町内の心身障害者に仕事の場を提供する施設として福祉会館がある。
表125 郡市別入所状況(61.1.1現在)
郡 別
山 武279
海 匝213
長 生437
夷 隅213
安 房6713
小 計161935
市 別
千 葉112
銚 子134
市 川123
船 橋134
木更津112
松 戸011
野 田101
茂 原134
成 田112
佐 倉011
東 金112
八日市場213
011
勝 浦202
市 原123
流 山101
鴨 川011
鎌ケ谷112
浦 安101
小 計172340
合 計334275

 
   福祉会館
 町民の福祉の増進をはかるため、当町が特に在宅心身障害者に仕事の場を与えると共に、生活指導を行い少しでも自立できるようにすること、当事者や父母に生き甲斐を見出させることを願って、昭和六十年十一月に「福祉会館」を建築すべく総工費九千二十九万一千円で、工事を開始し、翌六十一年三月に竣工、町では大網白里町社会福祉協議会へ委託して、同会で管理運営を行っている。
 福祉会館は所在地、大網白里町大網一三一の二・一三三(旧登記所跡地)
 敷地面積四一四・〇八平方メートル、鉄筋コンクリート二階建
 内部構造
 一階、一九八・九四平方メートル(福祉作業所)
 二階、二一〇・二三平方メートル(地域福祉センター)
 塔屋、四・九一平方メートル(非常階段等)
 地域福祉センターとしての機能
 福祉会館は、地域ぐるみ福祉ネットワーク事業をおしすすめていくための調査、研究及び企画、事業に関する普及宣伝並びに連絡調整及び助成業務のほか、ボランティア育成のための研修、活動に関する会議、福祉関係団体、機関の協働活動の場の提供などに利用される。

写真 福祉会館(大網)
 
 一方、心身障害者をもつ家族は、つねに生活上の不安、心配ごとに悩まされることが多いので、そうした家族を対象として、心配ごと相談、法律相談、福祉に関する情報提供、などのサービス業務、在宅福祉関係器具等の貸し出し、センター機能を活用して地域内の巡回指導等を実施する拠点としての役割をももっている。
 また、福祉作業所としての機能を備えている。在宅心身障害者が特に困るのは、小・中学校の義務教育の年令期には、いろいろな教育設備があるのに、高校以上になると全くの個人として生活をしていかざるを得なくなることである。そのため多くの場合家でブラブラしていたり、何の手仕事も覚えずに生涯をおくるような例が多い。そこで十五歳以上の人で、当館へ通館できるものに対して、設備を提供、しごと(手しごと)ができるよう指導し、その自立を助けるしごとを行っている。現在の入所定員は十五名である。
 こうして当館は山武郡内でも比較的最新のシステムと設備をそなえ、心身障害者の役に立つよう運営されている。