死の通知 両隣家の責任者(戸主)がチギリ(講中)に通知し、寺へ「カネバコ」をもらいに行く。これによって「引導渡し」ができるといわれている。「カネバコ」の中には、葬儀に用いるドラ、けさが入っている。寺から僧侶が来て「枕経」(臨終経)をあげ、チギリからは各戸二名(男・女一名)が集り、湯棺人二人を除きシタバン(次回の湯棺人)が一番遠い所に行き、他は協議して、二、三里ぐらいの所までツゲビトが分担して知らせに行く。ツゲビトから通知を受けた家では食事をふるまい、心付けを出す。湯棺人は寺へ葬具を受取りに行く。
湯棺 現在は湯棺は肉親が行う。湯棺に用いる湯は釜のふたをしないでわかす。現在はアルコールで湯棺をすませる場合が多い。湯棺をすませると、白衣あるいは生前着ていた浴衣を左前に着せ、女性の場合化粧をしてやる。これがすむと一番よい部屋(床間のついた部屋)に寝かせ、顔に白布をかけて北枕にして寝かせる。通夜はこの日の夜に行なわれる。
納棺 土葬の場合は坐棺が多いが、火葬の場合は寝棺。手は合掌させ仏のまわりの空間に生前愛用したもの、冥土のこずかいとして六文銭を入れる(現在は紙で作ったもの)。このほかハヤタビ(紙製)、カタビラ、じゅず、たすきを入れ、納棺後は、座敷の仏壇の前に安置し、燈火や線香を絶やさない。
葬式 オトムライ、ジャンボン、ナンミョウなどという。大部分は自宅で行うが寺で行う場合もある。葬式の当日湯棺人は団子を仏の年の数だけつくり、墓に穴掘りに行く。穴は最初大体の深さに掘っておき、棺が墓についてから更に仕上げとして深く掘る。他のチギリの人々は、てんがい、花、しし(びわの葉で大蛇が耳を立てている様な形をしたもの)、旗を作る。この間にご供養の食事が出る。
この間、到着した導師や他の僧侶が塔婆、旗などに書きものをし、お経をあげて参会者が焼香し、導師がタンドクを読み引導を渡し、その後棺に釘を一本うつ。その後、近親者が一本づつうって最後に湯棺人がうつ。それが終了すると導師がお題目をあげ、湯棺人とチギリの人びとが、がん台と棺をナワでしばり上に輿をつける、輿につける「てんがい」は、まえすだれと、さんぼすだれがあり、さんぼすだれは、村の有力者や財産家でないと用いない。出棺にあたっては、子どもにおかねをわずかずつ与える。それがすむと庭の中央に葬具につける旗をたて、導師を先頭にしてその旗のまわりを三べんまわる。これを「六度まわり」といっている。寺で葬式をするときは寺の庭でやる。
葬列の順序は、僧侶、チギリの旗持ち(現在はひとり)、位はいもち(あととり)、お膳持ち(あととりの妻)、香炉持ち(子どもか近親者)、金剛杖をもったトリアゲの孫(親類の者)、棺、ちょうちん持ち(棺のわきにつく)、参列者(チギリの人びと等)。墓地に着くと、埋葬の儀が行われ、墓穴に棺がおさめられると、しし、旗、アラ縄は棺の上に置かれ、僧が三くわ土をかけた後、湯棺人が土を盛り上げ、その上に芝三枚をのせ、稲の株を三株、その上にわら一束をのせ、ちょうちんから火をとり、たいまつでわらに火をつけ、火葬のまねごとをして半ば燃えた頃、わらを取り去り輿を置き、金剛杖、墓じるしをたてて、前に台を置き拝礼できるようにし、僧の読経があり、人びとは線香をあげる。
墓から帰って来た人は庭のたらいの水で手を洗い、塩と米(おさご)で作った塩さんごを僧侶に頭からかけてもらい、きよめをする。また「野辺わかれ」といって、墓地から各自家に帰る場合は、家人に塩をまいてもらってから家の中に入る。
一方出棺後、家では座敷を掃き出す。葬儀がおわるとすぐに導師をチギリの中で手のあいている者が寺におくって行く(寺送りという)。このとき寺から借りた葬具を同時に持参して返す。現在はかなり簡略化されている地区もある(白里地区を中心)。
年忌 葬式の翌日に湯棺人は仏の年の数だけ団子をつくり、葬式当日墓から持ち帰ったお膳にもって墓に行き、御前様と家族と湯棺人がおまいりして塔婆を立てる。これを「塔婆たて」といっている。この他「七本仏」をたてる。初七日までは毎日おまいりに行く家もあるが、現在はあまりない。しかし四十九日まではお墓参りをする。これは四十九日まで魂がその家を離れないという考えからである。この後は彼岸、お盆に墓参をする。
この後、百か日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十一回忌、二十七回忌、三十三回忌とあるが、大体十三回忌ぐらいまでしか法事は行なわない。三十三回忌には塔婆のかわりに杉の木の青い葉のついたものを塔婆とする。これは三十三年たつと、生まれかわってくると信じられているためであるが、現在はほとんど実施されていない。
新盆 このことについては年中行事の中に記してあるので省略する。
写真 埋葬の済んだ墓地