信者の家は、表面上は公認の寺院の檀家となっていて、世間なみに仏壇を作ってはあったが、別に納戸や天井裏などに、密かに仏壇を作り日蓮、日什、日経、日進の「おまんだら」を掲げてこれを内密に拝んでいた。このような仏壇は、現在ほとんどの家が建て替えられてしまったため残っていない。昔は信者が何人かでグループをつくり講を結成していた。講の集まりは秘密にされ、はきものをかくして集会をした。役人の手入れがあったときは山野へ逃れ、一日や二日隠れていても餓えないようにニギリメシを用意し、村境いに見張りをたてたという。
当町域では富田と南横川の一部十数戸で講が形成され、往時の内証題目講は「正斉講」と名を変え、年寄りのあつまりになっている。その講では日経上人系の僧の「おまんだら」と、その版木の収められた箱を各戸で半年毎に交替で大切に保管し、春秋の彼岸に供養している。一か所に長く置かないのは、役人の手入れの危険をさける往時の遺風であるという。
現在でも講の者が死ぬと、先ず「正斉講」のメンバーが集まりお経をあげ、講中の者の唱えたお経の十万遍と書いた紙と版木で刷った「おまんだら」を死者の棺に収めることにしている。日経上人系の僧や信者は、内密に独自の法要で仏事を行っていた。信者が死ぬと、引導を渡す等の実質的な葬儀をすませ、その後で、表面上檀那寺の僧に回向してもらい、世間の目をくらましていた。
この様式は、現在でも往時の遺風を伝え各地に残っている。
(佐久間孝三の研究を参考)