⑤ 新堀の刑場

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 明治二年二月二十日、宮谷県が本国寺を仮庁舎として発足した。この宮谷県の処刑場が新堀にあった。宮谷県の政治下でどの程度の処刑者があったかは明確ではないが、当町清名幸谷の中村家の「見聞録」によれば、六か月の間に七人もの処刑者があったということがわかる。これは当時治安が悪かった一面もあろうが、同時に簡単に死罪に処してしまったということもあろう。
 駒込の古老のはなしによると、経田の県道沿いに男の老人がひとりで住んでいたが、その老人は、昔は新堀刑場の首切り役人であったという。また富田の古老のはなすところによれば、新堀刑場で仕置があると、見せしめのために、その執行を見せたらしく、近郷近在から近所同志さそい合って腰弁当で、見物に来たという。斬首された胴体から吹き出す血を少なくするため「ニラ」の煮汁をかけるのを見て、古老の家では「ニラ」を食べなくなり、畑の作物としても作らなくなったとのことである。