当町域にかぎったことではないが、人間が生産活動を営み、社会生活を展開するところには必ず災害が襲いかかっている。
それは人間の幸福な生活を一瞬のうちに奪い去るものから、異常気象のように、生産活動を営む者がいかに神仏の加護を求めても、どうにもならないものまで多種多様である。また、これらの中には人間の油断が「ひきがね」の役目を果たすようなものも意外に多い。
しかし、人びとの災害に対する備えは、次第に経験のつみ重ねから被害は軽減の方向に進展している。このことは、半世紀も前の地域社会の災害と現在を対比してみれば明白である。
九十九里浜平野に包含される当町域の災害の歴史を、江戸時代以降たどってみれば一層こうしたことが、判然とする。
当町域の災害(主として天災といわれるもの)をみると、異常気象に原因する農作物への被害が多く、とりわけ天水依存の稲作は気象条件に大きく影響されていたことがわかる。当町域におけるこのような自然災害の具体的な実態を示す史料は、特に存在しないが、『両総土地改良区史』上巻に収載されている「旱水害年表」などと、『千葉県気象災害史』(昭和三十一年十月・銚子測候所刊行)などから九十九里地方に関連するものを抄出してみると次のような災害があげられる。
慶長七年(一六〇二) 風雨関東に激しく大凶年なり。
寛永十九年(一六四二) 上総東金地方、五穀実らず(『千葉県誌』)。
元禄十五年(一七〇二) 海風大いに起り、塩雨のために田圃を害す(『銚子郷土史年表』)。
寛保二年(一七四二) 関東地方各地に大洪水、水死者多数。
宝暦二年(一七五二) 栗山川出水(『香取郡誌』)。
明和八年(一七七一) 香取地方、四月下旬より二か月余雨なし。水田亀裂す(『香取郡誌』)。
安永九年(一七八〇)七月 雨降り続き関東一帯出水(「後見草」)。
天明三年(一七八三)六月 関東一帯に洪水、気寒く五穀実らず(『千葉県誌』)。
文化五年(一八〇八)八月下旬 大風家屋破損し、田畑荒さる(『香取郡誌』)。
天保十四年(一八四三)六月・九月 上総・下総大風雨(『続泰平年表』)。
弘化三年(一八四六)五月・六月 洪水堤防破壊、作物被害多し。家屋流失(『香取郡誌』)。
嘉永二年(一八四九)七月 大風雨民家破損、田畑の被害甚し(『香取郡誌』)。
このように、江戸時代の郷土周辺では、洪水・旱魃・霖雨・大風・塩風などの自然災害が多発し、人々の生活に大きな打撃を与えたのである。
さて、この自然災害の甚だしい場合は、五穀が稔らず飢饉となるが、最悪の場合は飢えのために死人が出ることもあった。世に、享保・天明・天保の三大飢饉は著名であるが、中でも天保の場合は、気候風土が温和な上に農作物の房総の地でさえ、飢え死という事態の一歩手前にまで至った地域もある(『横芝町史』)。
自然災害の中で、忘れてならないものに地震があるが、房総半島も何回か大きな地震に襲われている。江戸時代の巨大地震としては、慶長九年・延宝五年・元禄十六年の大地震がよく知られ、特に元禄地震は房総半島に大きな被害を与えた。
武者金吉の『増訂大日本地震史料』によれば、次のように記されている。
元禄十六年十一月二十三日、武蔵・相模・安房・上総の諸国、地大に震ひ、江戸・小田原被害甚し。続て津波襲来し、小田原・鎌倉の沿海、安房の長狭・朝夷の両郡、上総の夷隅郡、大島、八丈島等その害を被る。房総半島の東岸は地震の後、八九町乃至一里程干潟になれり。震災地全般を通じて、潰家二万百六拾二軒、死者五千二百三拾三人に達す云々。(以下略)
九十九里地方では、地震そのものの被害は少なかったが、大津波の襲来によって数千名の人々が溺死し、海況は一変して漁業は振わなくなり、耕地や用水路は砂に埋もれ農業も大きな打撃を受けたのである。当時の犠牲者を供養して、各地に津波塚が建立されているが、九十九里浜の場合、蓮沼村の千人塚を北限として、木戸川から一宮川までの間に、約一八基の塚が現存している(伊藤一男『房総沖大地震―元禄地震と大津浪―』)。
大網白里町の場合、北今泉の等覚寺境内に石碑一基が現存し、さらに四天木の要行寺境内にも合葬塚の伝承地がある。等覚寺石碑の正面には「妙法 海辺流水六十三人精霊」とあって、側面には「奉唱題目壱千部 願主北今泉村 正徳五年十一月二十三日」と刻まれている。この石碑は、大津波の犠牲者の十三回忌に建立された供養塔で、昭和五十二年八月十日付で、町の史跡に指定されている(『大網白里町の文化財』)。
一方、要行寺境内には、元禄津波の死者を合葬したと伝えられる塚があって、記録によれば二四五名の精霊を合葬したものだといわれている(『上総町村誌』・『長生郡誌』)。元禄当時、要行寺は現在の重郎地より浜寄りの殿里付近にあって、その後、現在地に移転したとの伝承もある。
この本町に残された供養塔・伝承地は、自然災害の恐しさを、後世の教訓として伝えるものとして、生きた歴史の記念碑としての価値は重要である。