明治元年(一八六八)七月、安房上総知県事に任命された柴山典は、当初、市原市八幡(現在)に居たが、長南町浄徳寺を経て、当町の宮谷本国寺に役所を移し、同二年二月の布告を経て、ここに宮谷県が誕生した。
宮谷県の管轄地は、幕領を除く藩領・旗本領で、旧安房、上総を中心として、下総(匝瑳・海上・香取三郡のうち)さらに隣の茨城県の一部にまで及び、その石高は、約三十七万二千石であった。
宮谷檀林として栄えた本国寺は、かつて谷の中へ所狭しと大小の堂坊が建ち並んでいたという。明治のはじめという大きな混乱期の中、役所として本国寺が選ばれたのは位置的にも、かつ重要な寺院という理由によるものであろう。
明治四年十一月、県の統合が行われ、旧安房、上総地方は木更津県に統一され、旧役所はその一出張所ということになった。ここに、約二年余の「宮谷県」も終わりを告げることになったが、県政の礎の地として、昭和二十九年、県の史跡に指定されている。
写真 明治期の本国寺山門