金谷郷、共同墓地最上段の若菜家墓地の一角にある。
その形態はいわゆる板碑型と呼ばれるもの(連碑型式)で、正面には次のように刻まれている。
寛永十癸酉天 八月二十八日 若
妙法 本敬院日種 菜
妙法 忠央院妙〓 豊
寛永廿一甲申天 正月二十二日 前
恐らく、子孫が後に先祖の墓塔として建てたものと思われる。その下に刻まれた人物は更に遡るところの著名な人物であって、後に語りつがれていたのであろう。塔そのものは十七世紀も後半と推測されるものである。
若菜豊前は、俗に土気酒井氏五家老の一人と呼ばれる人物であり、近世の書には、
「竹倉出張高三千石 若菜豊前」
「八千石 金谷住 本国三河 若菜豊前」
等の記載がみられる(『東金史話』東金市教委所収史料)。また「南総酒井伝記」には、国府台での戦闘において、「若菜豊前が父は稲毛の下にて戦死し、豊前も髪の生え際に疵を受け」とあり、更に、天正十八年(一五九〇)の酒井氏没落の砌には、時の当主康治が一時「若菜豊前守の居第に寓宿」ともある。いずれにしても、若菜氏が土気城下の本町金谷郷に館を構え、土気酒井氏の重臣として勢力を有したことは事実であろう。
写真 若菜豊前の碑