五輪塔・宝篋印塔

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 現在でも墓塔として建てられている五輪塔や宝篋印塔が出現したのは、前者が平安時代、後者が鎌倉時代であるといわれている。その立塔の目的は、本来、造塔功徳であったものが、次第に先祖の追善供養へと一般化し、ついに江戸時代には、単なる墓塔として造立されるようになった。本町の場合、町内のあちこちにこれら石塔が存在するがそのほとんどが戦国時代以降に属し、小型で粗雑なものが多い。また、大量にまとまって発見される場合がしばしばあり、一般に広く普及したことを知ることができる。しかし、武士や僧の中、高位にあるものは、戦国末~近世の初めに至り、好んで大型の塔を建立するようになった。町内における様相もその傾向を反映したものととることができよう。以下、町内に存在する各地区の五輪塔の内、文化財として価値の高い主要なものを抜きだし紹介することにする(図1・2)。

図1 町内の五輪塔・宝篋印塔の分布図(国土地理院 1:25,000東金,茂原)
 

図2 五輪塔,宝篋印塔各部の名称
 
 
宮ノ下法光寺境内
 法光寺の参道を登ると、境内西側に石塔が沢山積み重ねられている(図3)。これらの石塔は、本堂の改修時に発見され、埋もれていたものを掘り出したという。その内訳は、五輪塔空・風輪部が一四、火輪部が三一、水輪部が一九、地輪部が七、宝篋印塔笠部が七、塔身部が二、基台部が九である。この他に残欠が三個程みられる。

図3 宮ノ下法光寺境内石塔
 
 これらの石塔の各部は、一見して雑然と積み重ねられたことが明瞭であり、宝篋印塔の相輪部や基礎のように、全くない部分もあって、いずれにしても一そろいの塔としてとらえられないものばかりである。それゆえ、五輪塔、宝篋印塔の各部ごとに図化するに止めているが、五輪塔については、一個のみ推測で特徴の類似する各部をそろえて復元した。参考程度にみていただきたい。ともかく、最低でも三一個の五輪塔と九個の宝篋印塔が存在していたことになり、現在のところ町内一の出土数といってよい。石質は全て安山岩であり、その加工は雑なものが多く、また、小型で、両者共にだいたい五〇~六〇センチメートル程度の高さであったと考えられる。時期は全て戦国時代の所産とみてよいだろう。
 
金谷郷某宅
 民家の裏山の崖下に安置されている。図示(図4)したものは、中世の所産と思われるものの一部で、他に近世の石塔も存在する。この内一そろいの五輪塔は、空・風輪部や火輪部に若干の古風が認められ、十五世紀代に比定してよいかもしれない。しかし、その水輪は小振りで、あるいは別個体の水輪を充てるべきであろうか。石質はいずれも安山岩であり、石の質は比較的よく、整形も丁寧である。

図4 町内石塔
 
 
清名幸谷東光寺境内
 東光寺本堂の向かって右側の墓地中にあり、水田をへだてた西側には清名幸谷城址が存在する。本例も部分的な遺存例であり、五輪塔空・風輪二、地輪一、宝篋印塔笠部二である。空・風輪には軒が厚いという特徴がみられ、全体的には粗雑な感を与えるものである。おそらく戦国末期、清名幸谷城との関連を考えておくべきではなかろうか(図4)。
 
北富田バス停横
 県道白里大網線を、海岸方向へ二キロメートルほどおりた道路脇の小祠中に安置されている。その内訳は、五輪塔空・風輪部が八、宝篋印塔相輪部が五である。その他の各部は残欠もみられず、塔の上部のみ遺存するという点に特色がある。これは、何か理由があってのことであろうか(南清名幸谷青年館近くの小祠中の石塔群にも本例と同様の傾向がある)。とりわけ、他の多くの場所では、宝篋印塔相輪部の割合がきわめて低いことと比較してである。石質はいずれも安山岩であるが、質が悪く、整形も雑なものが多い(図4)。
 
方墳寺五輪塔
 方墳寺は日経上人開山の寺として有名であるが、現在は史跡「お塚山」として星谷にその名残りを止めている。
 五輪塔は、記録によると、慶長二年(一五九七)、日経上人により方墳寺境内に造立されたという。そして、その表面には、
 妙法蓮華経 御経五十万部諸国曼陀羅
 法華読誦并唱題  常楽院伝灯日経在判
    慶長二酉九月吉日
 と刻まれたともいう。後、寛永四年(一六二七)、幕命により当寺が打ちこわされた際に、この五輪塔も一時姿を消すことになった。しかし、様々な経過を経て、現在は、民家(空・風輪)、あるいは、公民館の敷地(水・地輪)内に安置されている。ひとつ、火輪のみは未だに所在不明である。また、台座については何も記録もなく、これは当初から存在しなかった可能性もあろう。ここでは火輪を復元(近世初頭の形態)し、一そろいの図として示しておいた。その形状の概略は見てとることができよう(図4)。それよりすれば、その高さは約二メートル、水・地輪の幅は七十センチメートルを有し、立派なものである。表に「妙法蓮華経」、裏には水輪に「楽」とあり、これは、法華宗(日蓮宗)、及び、上人の法号(常楽院日経)と関連するのであろう。なお、地輪には右側に「慶」、左側に「常」の字及び花押らしきものが認められるとする記載(『日什と弟子達』窪田哲城)もあるが、それには水輪裏側の「楽」の大きな刻みはふれていない。いずれにしても、その風化しやすい石質と合わせ、現在では慶長に刻まれたという妙法蓮華経以下の文字を確めることはできなかった。石質は砂岩であり、とりわけ、地輪は表面の摩滅が著しい。
 本五輪塔は、空・風輪に近世初頭の特徴をよく示しており、この期の大型の塔として、特筆されるべきものである。
 
白里地区南高路傍
 五輪塔空・風輪一個のみであるが、発見例の少ない白里地区ということもありとりあげたものである。南高の馬頭観音脇に置かれており、恐らく近隣の地から出土したのであろう。安山岩製の戦国期五輪塔である(図4)。
 
蓮昭寺宝篋印塔
所在 大網三九七 所有 蓮照寺
 蓮照寺はもと信楽寺といい、日蓮宗の古刹である。その本堂に向かって右側、小丘の崖下に二基大型の宝篋印塔が並んでいる。その銘文は次の通りである。
 南無多寳如来   前三浦監物重勝
 南無妙法蓮華経  真浄院殿日勝大居士
 南無釈迦牟尼仏  寛永八年歳次辛未八月廿五日
           三浦監物
 蓮登院    日寛
          元和二丙辰二月二日
 前者は江戸時代の初めに一万石として当地を支配した譜代の三浦監物重勝の供養塔である。その様式からみて、おそらく十七世紀の後半に造立されたものであろう。
 後者は、三浦監物重勝(あるいは重成)によって、一族の日寛上人を供養、建立したものである。江戸時代初頭の様式を伝えるものとして貴重である。
  元和二年―一六一六年
  寛永八年―一六三一年
 
小西某宅
 宝篋印塔の相輪部残欠である。板碑と共に存在し、粗雑なものが多い町内では比較的整ったつくりである。やはり戦国時代の所産であろう(図5)。

図5 町内石塔
 
 
高海寺跡石塔群
 高海寺は高海親王ゆかりの寺として知られるが、現在は廃寺となって、ただ昔日の面影を散乱する石塔に残すのみである。石塔は、五輪塔が過半を占め、僅かに宝篋印塔の各部がみられる。しかし、そのあり方からして、未だ地中に埋もれているものも多いであろう。いずれも大量に生産された小型の安山岩製の石塔である。

写真 高海寺跡石塔群
 
 
小西正法寺近傍
 正法寺門前の道の片隅に道祖神とともに三つの五輪塔空・風輪部が安置されている。その形態の若干古風なところからとりあげたものである。おそらく、十五世紀代に遡るかと思われる、その位置からして小西原氏との関係を想定できようか。

写真 小西正法寺近傍五輪塔