名誉町民 十枝雄三

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明治六年(一八七三)~昭和三十一年(一九五六)

写真 十枝雄三
 
 旱魃に悩む九十九里浜平野の農民の救済を願い両総用排水事業の実現のため、その中心的存在として活躍した十枝雄三は、明治六年十一月二十一日、山辺郡押堀村(現・東金市)の志賀勘兵衛・くにの三男として誕生した。
 東金小学校を卒業し、芦網育才学校(茂原市)、北幸谷小川成学館に学び、明治二十六年九月、山辺郡福岡村北吉田で、農業を営む十枝家に養子としてむかえられた。
 十枝雄三の深い学識経験と温厚篤実な人柄は、土地の人びとの信望を得て若い時から数多くの公職に推された。
 昭和八年四月から十一年四月まで、昭和十二年十二月から十四年一月まで、さらに昭和十五年二月から二十二年一月まで福岡村長を三期つとめて、村の発展に尽力した。
 また、この間昭和十五年三月、山武郡選出の花沢寿太郎県会議員の死去に伴い、県会議員に繰り上げ当選し、昭和二十一年二月まで県会議員をつとめた。
 この間、昭和十五年通常県会において「町村長は、新体制実践の重大な責任を帯びている。県との連絡を一層緊密にするため、知事が陣頭に立って人的接触を図れ、(中略)新体制運動については、中央の方針を受け取るのみではなく、地方の実情に即応し独特の方法により実施すべきだと思う。」と、新体制運動下での県と町村との意思疎通の問題について知事の姿勢を質した。そして県議在職中は参事会員、同補充員の要職を歴任して活躍した。
 九十九里浜平野の広大な水田は、大きな河川もなく、専ら天水に依存する米作りを行っていた。したがって水が不足すれば稲は発育せず、美田もたちまち荒野となってしまうため、農民は必死で水を守り、水が原因で村と村、あるいは村内でも「水げんか」が絶えなかった。
 十枝雄三が村長や県会議員に在任中の昭和八、九年、同十五年に大旱魃があった。このため九十九里地方の農家は大きな被害を受けた。
 昭和十五年六月二十日、立田千葉県知事は当時の千葉県会議長伊藤博愛と十枝雄三の要請で九十九里海岸の旱魃地帯を視察した。これを機に十枝雄三は両総用排水事業の進展に大きくかかわりをもつようになる。
 旱魃に悩む九十九里浜平野と水害に苦しむ利根川沿岸地域に対し、利根川を対象とした用排水事業をおこし、旱害と水害を同時に解消しようとするこの世紀の大事業は簡単にはことが運ばなかった。
 時代は、日中戦争がいつおわるとも知れない泥沼化、日本とアメリカの間は次第に暗雲がたれこみ始めている。国は非常時を呼号し、戦費以外は一銭でも余分な歳出を認める余裕はなくなっていた。
 こうしたなかで、香取・山武・長生・匝瑳の四郡の有志とともに十枝雄三は、事業認定のため関係各省に陳情をくりかえし、県会でも事業認定のため尽力した。また昭和十六年七月には両総用水改良事業期成同盟会を結成し、その会長として活躍した。本事業を推進するため関係区域の地元民とも一致団結して、県や農林省当局に懇請し、昭和十八年二月、この事業の認証を受け同年七月工事着工の運びとなった。
 太平洋戦争開戦経緯の中で、その弱腰から軍部の政治介入、専横を黙許したとして評判の悪い近衛内閣であるが、千葉県にとっては非常時下両総用排水事業を承認した決断には感謝すべきものがあろう。
 十枝雄三は、国の財政支出の面も立場上考慮してのことから、当初は印旛沼から水をひく計画を考えていたようである。しかし印旛沼には広大な九十九里浜平野の水不足を補うほどの水量はなかった。
 そこで利根川の水を九十九里浜平野に引水する壮大な構想を打ち出し、当時毎年のように水害に苦しめられていた佐原市長坂本斉一と提携し、小高長三郎代議士ほか多くの人びとの協力を得て本事業の実現に尽力した。
 昭和十九年一月両総普通水利組合の結成に当っては、その連合管理者に選ばれ、複雑な水利関係の地域では、各町村、各集落で啓蒙的会議を何回も開催し、事業に対する認識を徹底させるなどの活動をした。以後本事業の遂行に邁進したが、二十五年の土地改良法の実施に伴い、二十七年七月両総土地改良区の組織変更の認可を受け、その顧問に就任した。
 両総用排水事業は昭和十八年から二十二年間もの長い年月を要したが、この事業の完成により香取・海上・山武・長生の二万五千ヘクタールの水田は美田に変り、毎年稲の収穫は安定向上し、農民から感謝されている。
 十枝雄三は、この間県町村会評議員、県蚕業組合・県耕地協会・県町村会等の各副会長を歴任し、政党にあっては民政党、政友会を経て大政翼賛会郡支部顧問、戦後は民主党県支部相談役を務めた。多年にわたる功績に対し、昭和十九年に勲六等瑞宝章、第二種紅綬功績章が贈られた。さらに昭和二十七年には土地改良事業の普及、発達の功績により全国耕地協会から表彰された。
 また十枝雄三は、大網白里町の誕生にも功績があり、当町は十枝雄三を昭和三十一年七月に名誉町民第一号に推戴した。
 昭和三十一年十月十二日八十二歳で病没すると、当町は生前の功績に対し町葬の礼をもって報いた。
 また両総用水の生みの親ともいえる十枝雄三の功労に対し、それを顕彰する頌徳碑が時の内閣総理大臣鳩山一郎の揮毫により建立された。この碑は昭和三十二年四月当町柳橋の県道交差点のところにあったが、道路拡張計画により現在は北吉田の十枝家の屋敷内に移されている。

写真 十枝雄三の頌徳碑
 
  参考資料
  『千葉県議会史 議員名鑑』(昭和六十年三月 千葉県議会史編さん委員会)
  『両総土地改良区史 上巻 中巻』
  「広報大網白里」(昭和六十年二月一日・第二百十四号 大網白里町)