名誉町民 石野操一郎

1287 ~ 1290 / 1367ページ
(明治十六年(一八八三)~昭和三十九年(一九六四))

写真 石野操一郎
 
 大網白里町の今日の発展の基盤をつくりあげた人物のひとりとして、名誉町民の表彰を受けた(昭和三十八年)石野操一郎は、明治十六年七月八日山辺郡大網宿(現・大網白里町)で酒造業を営む石野操一郎(先代)・ちよの長男として生まれた。
 明治三十六年三月県立千葉中学を卒業し、次いで東京の滝野川酒類醸造講習所を修了し、先祖代々の家業を継承した。家業の酒造業(山六)に従事するかたわら、大正元年に大網町会議員に選出され二期三年間在任し、大正八年に山武郡会議員になり、同年十月郡参事会員に就任した。
 大正十一年七月、安田雄輔県議死亡に伴う県会議員補欠選挙に立候補し当選、三十八歳で県会議員になり、同十三年一月まで一期在任。この間大正十二年十一月には県参事会員となった。
 この間大正十二年九月一日関東大震災が発生、同年十月この震災に関する臨時県議会が招集されたとき、石野操一郎を中心とする議員から救助費を支出するとともに、政府に多くの補助金の支出を求める意見書の提出を決議した。
 昭和三年県立山武農学校の学級増に尽力した。同校は入学志望者が毎年百二十名近くあったが、採用は五十名であることから、志望者の六割程度が常にその志望を拒否されていた。まさに県下他に類を見ない程の率であった。一学年の定員を百名として全体の収容人員を四百名、すなわち全校学級を四学級から八学級に増加するという計画であった。
 昭和六年十二月一日推されて大網町長に就任し、町長在職中昭和八、九年の昭和旱魃にあたり、農家の窮乏を憂い、打開策として、叺筵織機を購入して、叺筵の増産を図り米の不作を克服した。
 昭和八年には在郷軍人会大網分会顧問、小中川水利組合常設委員となり、その後昭和十五年に小中川水利組合管理者になった。
 さらに、両総用排水事業の計画には計画立案の当初から、本事業の代表者である十枝雄三や小川正義を助けて各種の重要会議に参画した。この間たびたび役員に就任することを望まれたが、つねに固辞して、専ら蔭の協力者として長年活動を続けた。
 このように石野操一郎は単に栄誉を求めて町長の職に在任したものではなく、昭和恐慌後の地方農村にあって、農民の生活の安定を町政面から具現しようと尽力した人物であった。その農政面における献身的な努力は大いに評価されるべきものである。
 石野操一郎が町長に在任したのは四期十五年間であり、この間日本は昭和六年に満州事変をおこし、軍部が国政に対する主導権をにぎり、昭和十一年には二・二六事件、昭和十二年には日中戦争、昭和十六年十二月八日、太平洋戦争に突入し、ついに昭和二十年八月十五日敗戦をむかえた。この苦難の時代を石野操一郎は町長としてその職責を果たした。
 こうした石野操一郎に対し、GHQ(連合国軍最高司令部)の指示をうけた日本政府は、昭和二十一年一月二十六日好戦的国家主義の積極的推進者という理由の公職追放令にあたるとして追放、町長石野操一郎は町長の職を去った。県下市町村長でこれにふれて辞任した人は多いが、こうして地方の市町村等の職にあって、農民の生活を目のあたりにした人びとがどれだけ好戦的であったというのか、疑問を抱かざるを得ない処置であった。
 石野操一郎は公職を去った後、昭和二十二年に県立山武農学校後援会長となり、翌二十三年には山武郡町村長会顧問に就任した。
 政党関係歴としては大正九年十二月山武益友会長、大正十三年一月山武交友会副会長、昭和二年政友会山武支会相談役、昭和十五年大政翼賛会県支部参与、昭和十六年同会山武協力会議長を歴任、戦後は昭和二十九年十二月民主党県支部相談役などをつとめた。
 趣味は、囲碁と狩猟と魚釣りで、前島池で鮒釣りをしていて、その近所に住んでいた日本画家田岡春径画伯が帰宅すると、釣具をそのままにして同家に行き、碁をはじめると家に帰るのも忘れてしまうほどであったというほど熱中した。
 昭和三十八年大網白里町は、当町発展の基礎を築いた功績者として彼を名誉町民に推戴した。
 昭和三十九年六月二十一日石野操一郎は八十二歳で没した。当町は生前の功績に対し町葬の礼をもって報いた。また日本政府は従六位勲五等瑞宝章を贈った。
 墓所は当町宮谷本国寺にある
   参考資料
  『千葉県議会史 議員名鑑』(昭和六十年三月千葉県議会史編さん委員会刊行)
  「広報大網白里」(昭和六十年三月一日刊 大網白里町)