写真 内山仲
町村合併を果たした新生大網白里町の初代町長として当町の信望を一身にあつめた内山仲は、明治二十八年三月二十日山武郡大網白里町細草の内山定吉の長男として誕生した。
内山仲は当時の青年の多くがそうしたように、青雲の志を抱き故郷を離れていたが、昭和二十年八月の敗戦と共に帰郷し、昭和二十一年十一月に旧白里町農地委員会委員として、農地解放に奔走するようになったことが地方政治と関連をもつ第一歩となった。
「政治は人の和である。」という信条のもとに昭和二十四年白里町長に当選し、町政に力を注ぐとともに、一方では山武郡町村長会長、県町村長会理事、東金警察署管内防犯組合連合会長、千葉県町村野球連盟会長、千葉県母子健康センター連絡協議会長に就任し地方自治確立のために尽力した。
とかく、地域住民のエゴイズムがむき出しになるむずかしい地方行政を、その高潔な人柄と人の和を重視する基本姿勢をかたく守り、行政を円滑に推進させ町民の福祉向上に全力を注いだ。
こうした内山仲の真価が発揮されたのは、昭和二十九年十二月町村合併により初代大網白里町長に当選してからであった。
他の市町村ではとかく合併後の混乱がまとまらず再度分離したりする例もあったが、当町では内山町長の手腕により多難な合併後の町政が円満にとりおこなわれ、今日の当町発展の基礎をつくりあげていった。町民の信頼もあつく、昭和三十九年八月、病没するまで、三期十有余年、白里町長就任以来からかぞえれば実に十五年五月のながい間、当町の町政のリーダーシップをとったことになる。
一方、千葉県町村野球連盟会長であったことでも知られるように、スポーツを愛する人でもあった。
昭和三十九年八月大網白里町長三期三年めの在任中、突如病気のため六十九歳で没した。墓地は当町細草にある。
町は内山仲の生前の功績に対し、町葬の礼をもって報い、同時に名誉町民の称号を追贈した。
参考資料
「広報大網白里」(昭和六十年四月一日・第二一六号 大網白里町)