写真 稲葉黙斎肖像(町中央公民館)
江戸時代の儒学者として、また上総道学の指導者として知られた稲葉黙斎は享保十七年十一月、江戸時代の儒学者稲葉迂斎の第二子として、江戸日本橋浜町に生まれた。母は武井氏。本名を正信、幼名は又三郎と称した。
幼少時より学問にしたしみ、六歳のときに「諸子品題」、九歳にして「迂斎答問」を著わすなど英才ぶりを発揮している。
父の稲葉迂斎は、佐倉藩の大番与力鈴木正則の第三子であり、早くから学問に志し、はじめ伴部安崇・赤井直義に学び、のちに佐藤直方に師事した。正徳五年肥前唐津藩主土井利実に仕え、二百石の禄を与えられた。迂斎の晩年は崎門派の名儒が没したため、同派の重鎮となった。迂斎はわが子又三郎(黙斎)に早くから自分の手で学問をしこんだ。又三郎も父親の願望に十分こたえ得る英才ぶりを発揮したようである。又三郎は十六歳になると、崎門派の野田剛斎に師事した。
黙斎は、山崎闇斎の学問の継承あるいは集大成として注目すべき存在である。黙斎は道学者として江戸にひろくその名を知られるようになる。越後国新発田藩溝口侯の俸を受け、名声を聞いた大名家より招かれ道学についてはなしをすることもしばしばあった。
黙斎の提唱する道学は、儒学の教えにもとづき、その実践面では清廉潔白な生き方をすすめるものであった。しかし当時の世相は、それと全く反対で、田沼意次が幕政の中核にあり、賄賂政治が横行し、風俗は乱れ弱肉強食の世であった。こうした現実に目をとどめた黙斎は道学の立場から大義を論じ、志を同じくする者と共に俗悪の世相を矯正するため日夜心胆を砕いたが、目的を達成することは至難の業であった。むしろ逆に道学者といえば「道学にこだわって世間の事理にくらく人情に乏しい学者」と評され、融通の利かないことを嘲笑するような風潮すら存在した。
こうした事態を察知した黙斎は天明元年に江戸を引きはらい、当町北清名幸谷の鵜沢家に身をよせ子弟の教育に当たった。
江戸を去って上総国へ来たのは、父の門人であった現在の東金市姫島の人鈴木庄内をたよってのことであったという。また同時に黙斎の祖父が下総国佐倉藩士であったことも、彼が房総に関心を示した間接的要因であったであろう。
この後、五年ほどたって近くの三木の荘に移り、ここに一庵を建て「孤松庵」と名付けここで子弟の教育を続けた。
黙斎は諸大名よりの召抱えのはなしもあったようであるが、これに応ぜず当地で道学の研究に専念した。
著書は多く「清谷全話」百五十巻は門人の記録編集によってできたもので、儒学の道をわかりやすく示してある。「孤松庵全稿」四十巻は黙斎が自ら筆を執り道学についてくわしく記したもので、全稿の六十八録は彼の絶筆となり、また講義の最後のものとなった。
黙斎は寛政十一年十一月一日(十月二十四日ともいう)六十八歳の生涯をおえた。天明元年に江戸を離れ、上総山辺の当地に来て十八年後のことであった。
黙斎の著書は写本が多く、刊本として残っているのは『先達遺事』一巻、『墨水一滴』一巻、『孤松全稿私抄』十九巻、『師訓録』一巻などが知られているものである。
黙斎の教えが「上総道学」として当地に開花したのは、その人柄もあろうが、その教授方法にあったようである。黙斎は人に教えるにあたって、まず本来の筋を明らかにし、懇切明快に教えたという。また『童蒙訓』、『婦訓之心得』、『農家今川状』、『姫島講義諸篇』などの解説は、やたらに高尚難解に満足するのではなく、むしろやさしく実行に至るまで理解し易いように説いている。さらに教えを受ける子弟の才能にも対応し、教え方を変えている。現在の教育界で提唱されている個別化を、江戸時代に実践していたのである。
黙斎は自己の提唱する道学のテキストを素読講義で読めたり、意味がわかったりするだけではなく、それを実践することを旨とした。
また黙斎の著書や遺稿は、現在成東町立成東小学校内の稲葉文庫に納められている。
黙斎の墓は成東町の元倡寺にある。これは没年の翌年(寛政十二年)十一月一日、門人一同で建立したことが刻文されている。
昭和五十六年三月二十九日黙斎の孤松庵のあったところへ「稲葉黙斎先生孤松庵址」の碑が建てられ、東京学芸大学名誉教授、国士館大学教授山崎道夫氏の撰する顕彰碑が建てられ、かつての門人の子孫によって黙斎の偉大な業績がたたえられた。
参考資料
『山武地方誌』(昭和三十年山武郡町村会事務局)
『山武郡郷土誌』(大正五年山武郡教育会)
『国史大辞典』(昭和五十四年吉川弘文館)
「広報大網白里」(昭和四十七年十一月二十日第七十号大網白里町)