消防の父 岩佐春治

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明治二年(一八六九)~昭和十六年(一九四一)

写真 岩佐春治
 
 当町消防組織確立の中心人物として、県下消防制度の上にも大きな足跡をのこした岩佐春治は、明治二年九月十五日に山辺郡大網宿で農業を営む岩佐定五郎の長男として生まれた。
 幼少の頃、吉井老湖に漢学を学んだ。若くして大網町役場に勤務し、書記から昇進して収入役、助役を歴任、明治二十六年には山武郡会議員に選ばれた。同三十三年六月には三十歳で町長に就任し、同四十年三月まで二期八年間その職に在り、町政の発展に尽力した。この間明治三十六年から新総房新聞社社長に就任した。また明治四十年から四十四年まで山武銀行専務取締役を勤めた。

写真 岩佐春治が社長であった新総房新聞社
(三浦茂一氏提供)
 
 この間、明治三十八年三月県会議員補欠選挙に、憲政本党から立候補し、同四十年九月まで、二年あまり在任した。
 また明治四十年三月大網消防組頭、山武連合消防同盟会長に就任した。
 県議在任中は主として教育と土木を中心に活動した。
 明治三十八年通常県会で県当局の示した松戸、佐倉、銚子の三中学校の廃校と木更津中学校を分校にするという稲村辰次郎の原案に反対し、中学校の現状を維持しその予算額は、三十八年度議決額とするという修正案を提出してこれが可決された。知事は、これを再議するように県会に求めたが、県会内部で再議に応ずるか否かで論議が闘わされた。このとき岩佐春治は、日露戦争後の経済情勢から見ると、改廃はやむを得ない面もあると考え、「改廃サルル所ノ郡及其付近ノ方々ガ之ニ反対スルハ私情ヲ以テスレバ感嘆ニ堪ヘマセンケレドモ、原案―再議案―ハ大多数ヲ以テ通過セラレンコトヲ私ハ望ムモノデアル。」と述べた。一方島田弥久や佐生正郎らは三十九年度教育費の復活要求を県当局に提出することにしたが、岩佐春治はこれに加わり、中学の存続にも賛成する立場をとった。
 翌明治三十九年通常県会では高等女学校の設置をめぐり、県当局は、県会側の設置場所の明示を求める要求に対してはこれを拒み、知事も明示することは弊害を招く恐れがあると、これに応じなかった。そこで岩佐春治は知事に対し、設置場所を明示することを求めた建議書を見て即座に明答を出すように求めた。しかし、知事はこの要求にも応じなかったため、石上新藤らとともに知事不信任決議案を提出し、これを成立させた。
 また土木問題では、他の山武郡出身議員とともに、江戸川・利根川の堤防築造とその調査、枢要里道の県道への昇格、道路網の整備等の建議書提出者および賛成者に積極的に加わった。
 明治四十年三月から二十三年間にわたって大網消防団組頭を勤め「消防組員は、たとえ身を法被に包むとも精神は常に崇高なる紳士たらざるべからず。」と精神消防を力説した。
 当時一般の人びとの消防に対する認識は甚だ浅く、消防組員は一種の火事場人足のようにみられていた。しかし岩佐春治の精神的訓育により、こうした認識の誤りが是正され、消防組員の士気がにわかに高まっていった。
 大正十五年大日本消防協会創立委員、昭和四年同協会の常議員に就任すると共に、千葉県消防議会の創立にも、先頭に立って尽力した。小さな地方町村の消防組頭がこうした中央の要職に就任するということは、きわめて例外のことで、岩佐春治の傑出した人柄を裏付けているといってよいであろう。
 消防組頭として在任中、岩佐春治は精神面のみを強調するだけではなく、消防の機械器具・水利その他消防施設、装備を充実し、機構を整え訓練を徹底し、大網消防組を名実ともに県下一流の消防組に育てあげていった。今日の大網白里町消防団の基礎は岩佐春治によって培われたものであり、「法被の紳士」の金言は、現在も当町消防団の精神的支柱となっている。
 また岩佐春治は明治四十二年に尚風会を創設して同会の幹事となり、風紀の改善、士徳の養成などに勤め、明治四十四年から大網郵便局長を勤め勲六等に叙せられた。
 昭和十六年八月十三日七十三歳で没した。当町の人びとは、岩佐春治の生前の消防に対する尽力をたたえて頌徳碑を山武農業高等学校脇の小高い場所に建立した。
 墓は当町本宿にある。
  参考資料
  『千葉県議会史議員名鑑』(昭和六十年三月千葉県議会史編さん委員会)
  「広報大網白里」(昭和五十八年六月一日・第一九四号大網白里町)