中村大吉 切られ与三郎

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寛政十二年(一八〇〇)~弘化四年(一八四七)
 切られ与三郎の名で歌舞伎の生世話物に登場する人物のモデルである長唄の名人吉村伊三郎(四代目)本名中村大吉は、寛政十二年当町の清名幸谷で染物業を営む中村家の次男として生まれた。伝承では十六歳のとき木更津の染物業縞屋に型付職人として雇われ働くうちに、土地の俠客源左衛門の妾お富と仲良くなった。ある日源左衛門の不在のときに二人が人目を忍んで逢っているのを子分に見られ、告げ口をされた大吉は、全身三十か所余り切られ海へ投げ込まれたが、運よく助かり江戸へ出て天性の美声をもって「門付芸人」として市中を巡業中に、日本橋呉服問屋の妾となっていたお富に逢い久しぶりに話しあっているところに、主人が帰って来て両名の過去のはなしを聞き、二人の結婚を許した。さらにこの主人は知人の長唄の師匠三代目吉村伊三郎を紹介してくれたので、伊三郎のもとに入門修業し遂に名人といわれるようになり、四代目吉村伊三郎を襲名した。
 当初二人は浅草に住んでいたが、後に横山町に移り長唄と三味線を教えて多くの弟子を養成した。
 八年後四十四歳のとき大吉(四代目伊三郎)は芸道の恨みから、ある女性に水銀を呑まされ美声を失ったので、弟子を集め長唄と三味線の師匠をしていたが、弘化四年六月四十七歳で没した。一方お富は新堀に掛茶屋を開きながらも亡夫の弟子に長唄や舞踊を教えて、慶応三年六十一歳で没したといわれている。
 ではなぜ、この二人のはなしが歌舞伎劇の「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」という狂言になって世に広まったかということであるが、「切られ与三」の作者瀬川如皐は中村大吉が江戸で長唄の名人四代目吉村伊三郎になったとき、大吉の語った昔話にヒントを得てこれを世に送り出したといわれる。
 歌舞伎劇には大別すると時代物と生世話物があり、前者が武家の世界を素材としたものであるのに対し、生世話物は庶民や町人の世界を素材としたものであり、文化・文政以降幕末にかけて生み出されたものが多い。「切られ与三」もこうした時代的背景のもとに作りあげられ大ヒットした作品であった。しかし当時は幕府への遠慮もあり、日本橋人形町に近い玄冶店が源氏店と改められたりしている。こうしたことは当時の歌舞伎劇に共通したものである。

写真 歌舞伎 切られ与三の一場面
 
 ところで歌舞伎劇に登場する与三郎は「切られの与三」と異名をとる無頼漢でゆすり、たかりを常習とし、相棒は「こうもり安」である。実際のはなしとは大分違ってくるが、これは芝居の脚本であるから作者が観客の喜ぶようなストーリーを作りあげたわけである。
 しかし従来の定説が最近少し変ってきた。それは「切られ与三」原型は木更津ではなく、大網であったということである。
 当時大網宿と東金宿の間の休憩地でハタゴや掛茶屋があって、にぎわった新堀の掛茶屋の一軒に茂原出身のお富という美人の女中がいて、清名幸谷の中村大吉も美男で、生来美声の持主で二人はいつしか愛し合うなかとなっていったが、隣村に山本源太左衛門という顔役がいて、お富に思いを寄せ力づくで大吉からお富を奪ってしまった。源太左衛門に腕力ではとてもかなわない大吉はさんざん痛めつけられてしまい、恋に破れた大吉は故郷にいられなくなり江戸へ出て、生来の美声に一層の修行をつみ長唄の名人四代目吉村伊三郎になった。その昔語りが歌舞伎劇「与話情浮名横櫛」の切られの与三となったということである。しかし山本源太左衛門についてはこの芝居に登場してくるような悪人ではなく、路傍に「源太様」という小祠がまつられているほどで、当地の俠客であったと推定されている。けれどもストーリーの展開としては、当時の大網や東金では主たる観客である江戸の人にピンとこない。だれでもよく知っている土地というのは、ストーリーの展開する場として重要な背景である。そこで江戸と船で直接往来する木更津が選ばれたのであろうというのである。
 前述の如く、中村大吉(四代目吉村伊三郎)は弘化四年六月四十七歳で病没した。
 墓は東京の品川の妙国寺にある。その墓碑には、勇猛院徳翁日進信士、弘化四年六月二十六日、俗名与三郎行年四十八歳とある。
   参考資料
 『演劇界』(昭和六十年一月号演劇出版社)
 『服装文化』一二六号(昭和四十五年十二月被服文化協会)
 「広報大網白里」第七十六号(昭和四十九年一月二十日大網白里町)