九十九里海岸(四郎右衛門家の旗印(一))
明治35年5月25日 東金市 小川荘三郎氏 撮影
斎藤巻石 作品を見る
今からおよそ三〇〇年程前の元禄時代から明治末期の頃まで、鰯は庶民の食卓を賑わすだけでなく、多くは干鰯(ほしか)に加工されて、関西方面に運ばれ、綿花・藍・みかんなどの肥料として使用された。鰯の豊漁は、網主に巨万の富みをもたらした。
関東・関西方面に送られる干鰯の集荷は、陸上・海上の輸送によって江戸の問屋に集荷され、江戸と九十九里との往来が盛んになった。
土豪・網元画家「斎藤巻石」は、かって九十九里浜で及ぶものなき網元として知られた斎藤四郎右衛門家の次男として寛政10年(1798)に生まれ、源作と名付けられた。
源作は14歳で一宮の豪族中村家へ養子に入った。当時の様子は「白馬銀鞍に跨り、供の者(船方)数百人を従えた行列」と近隣の話題となった。
不幸にして、兄四郎右衛門が早世したため養家を辞し実家の家督を継ぎ、一二代四郎右衛門を襲名した。その後、兄の子である滄海の成長を待って、家督を譲り隠居する。巻石、28歳の時である。
四天木宮脇の本宅から離れた海岸近くに別邸「大洋庵」を建て、かねてより親しんでいた書画に傾注した。
文政12年 31歳 「涅槃図」
天保10年 41歳 「赤城神社の幟」
天保14年 45歳 「山水図屏風絵」
などを描いた。後に「山水図屏風絵」は森鴎外の手に渡り、現在は東京国立博物館に所蔵されている。
当時、南北今泉村に六家、四天木村に五家の地曳網主が存在していた、中でも北今泉の上代平左衛門、四天木村では斎藤四郎右衛門が突出した大網主であった。そして、鰯漁や干鰯で豊かになった九十九里浜には数多くの文人墨客が来遊した。粟生の飯高惣兵衛や斎藤四郎右衛門(巻石)などは江戸や京都の文化人を快く受けいれ、師として待遇したので、地域の文化発展に大きな役割を果たした。
巻石、44歳の時、漢詩家「梁川星厳」夫妻を大洋庵に招き、地曳網でもてなしている。斎藤四郎右衛門家(巻石)を訪ねた画人達は、高久靄崖、福田半香、高隆古、岡本秋輝、梅逸、木下逸雲、瀧和亭、栗本鴻堂、椿椿山など、有名無名の作家の名が伝えられ、当時の網元の豪勢な生活を物語っている。
天保13年 44歳 足利を遊歴。
椿椿山に入門
嘉永元年 50歳 「赤城大明神尊像」
(木版)
嘉永6年 55歳 「老松図」
を謹写している。
嘉永6年6月3日早朝、四隻の異国船が伊豆半島を通過、江戸湾に侵入している。この異国船こそ、ペリー提督率いる艦隊であった。
64・5歳の頃、越後で二年あまりを過ごした後、上野付近に住まいを構えたが、時すでに幕末になり四天木村に帰る。文久2年には「拱寿庵」を建て、その向かいに「群蛙亭」と名付けた小屋を築き、読書や絵、古琴を楽しんだといわれる。巻石は、南乙・挙石・白湾漁長・兎山清農・大洋庵主人・拱寿庵主等の号をもっていた。
明治5年、瀧和亭が巻石の唯一の肖像画を描いているが、関東大震災のおり、唯一の画像を消失している。
巻石は、自らを遊歴人と称して諸国を漫遊し、文雅を極めた。やがて、「書置之事」と題した見事なまでの書状を遺し、明治7年5月76歳でその生涯を閉じた。
いわしの豊漁は、網元たちに巨万の富をもたらし、
その生活は豪勢を極めていた。
二階建ての母家の一階部分に、金・銀の襖が据えられ、
御殿の威容を誇っていた。(明治31年製作)