孤高の日本画家 石井林響


 

石井林響   作品を見る
 石井林響は、明治17年7月15日、山武郡土気本郷町(現千葉市)下大和田で父・治郎助、母・げんの三男として生まれた。名は「毅三郎」と言った。
 生家の裏山は、杉の林で覆われ巨大な老杉が林立している。林の周辺には、雑木林が続き、自然環境豊かな地に生まれ育った毅三郎であったが、2歳の時、頭に火傷を負う。これが原因で友達ができず、4、5歳の頃から鳥や花を描くようになり、父のお土産(絵の本や紙)を、小さな画人は何よりの楽しみにしていたという。こんなエピソードが残っている。いつ頃か定かでないが、父の知人の画家が、毅三郎の描いた雀の絵を見て「この絵は素晴らしい将来は画家にするといい」と言った。
 明治23年、地元の土気尋常小学校の分校に入学するが、頭の火傷の事を言われるのが嫌であった。成績は優秀であったため、尋常小学校を卒業せず、大網高等小学校で学ぶ。こんな毅三郎も運動は苦手であった。
 明治30年旧制千葉中学校に入学した毅三郎は、図画教師の堀江正章の指導を受ける。この頃の、毅三郎について、堀江正章は次のように述べている。「教室内の学習の様子を見ますと、田舎出のやうではありますが、私の担任である図画に対しては実に天才的のひらめきがありました。かくて二、三年の内に著しい進歩を見せて、他の生徒等はおよびもつかぬ有様でした。」
 明治33年、母げんの死去を契機に、家人に告げずに中学三年で中途退学(卒業説もある)してしまう。幼い頃からの夢であった画家への道を目指し、上京した毅三郎であった。
 中学卒業式の日、寄宿舎を訪ねた兄要吉は、毅三郎が上京した事を知る。心配した要吉は、毅三郎を求めて東京中を捜索し廻る。やっと、深川の瀬戸物屋で茶わんに絵を描いて生活の糧としている毅三郎を発見するが声をかけずに帰宅する。
 

 

 毅三郎は洋画を志していたが、洋画に親しみ切れずにいた所、日本美術院の展覧会で横山大観、下村観山、菱田春草等の作品を見て魅了されてしまう。早速、毅三郎は美術院の事務局へ諸先生の教えを受けたい旨の手紙を出す。その後、美術院の知人や下村観山より橋本雅邦を紹介され、17歳で雅邦の門下となる。
 林響の最初の作品は、明治35年橋本雅邦門下研究会で、石井毅三郎名で「新林」を出品し、三等賞になる。公募展出品作は、同35年、天風の号で「秋風」「美人逍遙」を出品している。(「天風」の号は雅邦が命名と言われるが定かでない。)
 明治36年から39年にかけて、日本美術院関係の「美術研精会」「紅児会」「二葉会」「二十日会」等に精力的に出品を続け、いずれも他を圧する出来映えで受賞を重ねる。当時、日本美術院の機関誌「日本美術」の巻頭を八作品が飾り、人々を酔わせている。上京して、数年にして画壇の寵児となった林響は、明治40年、第一回文展(文部省美術展覧会)に「和気清麿」を出品している。画壇の中では林響は、畏敬的存在であった。その実、林響は頑固で、短気で、生一本な純情な熱血漢であり、大変な議論好きであり、大胆なようでその実小心で、気の弱い涙に脆い人でもあった。
 
 明治41年1月師橋本雅邦逝去。師を失った林響は、苦難の道を歩みはじめる。さらに追い討ちをかけるように、8月には、第二回文展の審査員をめぐり内部紛争がおこる。当時林響は国画玉成会の幹事の立場にあり、苦難の日々が続いていた。明治42年には表面的には鎮静化したようであったが、終結するには数年の年月が必要であった。
 そんな中、林響は、新井旅館三代目主人、相原寛太郎(沐芳)と知り合い、寛太郎の誘いによって自らの道を求めるがごとく修善寺へ向かう(推測の域を出ない)。修善寺の地には、明治40年の末から42年の春までの長期滞在であった。
 さて新井旅館では、林響再出発の因となる出会いがおこる。銀座松坂屋の裏で宮内庁御用達の帽子店を経営している茂野梅吉の娘きんとの出会いである。(きんの母は、明治天皇の肌着を委託され宮内庁で作成していた。)
 明治42年11月きんとの結婚、南品川への転居(五松居)。12月内紛が続いていた「文展」も和解、大正元年第六回文展には「白映」を出展、褒状を受ける。順調な出発であった。だが、これも長続きしなかった。大正元年、二葉会無期休会。同2年紅児会解散。再度の不運が林響を襲った。
 

結婚記念

 南品川の「五松居」には、来客が頻繁であったようで、日中には作品の製作はできないため、いつも夜一人で二階の画室にこもっていた。この画室は一二帖程で手前に六帖程の部屋があり、この部屋には橋本雅邦の等身大の絵があった。この絵の作者は不明であるが、林響が師弟の道をいつまでも求めていた現れではないだろうか。
 画壇では大正8年、従来の文展を廃止。帝国美術院主催による「帝展」に切り替えられた。第一回帝展は10月15日から11月20日まで開幕している。この帝展に林響の号で「劉阮天台」を出展。林響再出発である。余談になるが、林響は、大の酒豪家(父、兄弟共に酒豪)であった。兄の要吉や虎之助とよく酒を呑んでいたようである。飯高昇氏によると、ある日のこと、兄の虎之助と酒を呑みながら画壇の話をしていた時、裏山の方から強風にゆられる大木の枝のふれ合う音、小枝の揺れる音や葉音が響いて来た。これを聞いて幼少の頃を思い出し懐かしく思い、林響と改めたと言う。(号については諸説ある)
 また、林響は大変な子煩悩であったようである。毎年、夏になると実家へ家族そろって帰郷している。
 
 画壇の中では苦しい立場の続く林響であった。望郷の念が起こるのがこの時期の頃であろうか。作品を見ると「祠の杜と池」、「林の中」などは生家の裏山、鳥居や祠など幼い頃、いつも目にしていた光景である。
 五松居への来客の中に、宮谷本国寺の住職の姿もあり、本国寺境内の脇にかなり広い土地があるので、画房を移してはどうかと話をした。この地は幼少の頃、見慣れた場所であった。
 大正15年4月画房を新築する。屋根は朱色の瓦で葺かれ、白壁作り、池には鳥を飼っていた。鳥の中には、林響の一番好きな白閑鳥も飼われており、この鳥の名から画房を「白閑亭」と名付けた。画房では、「五月」、「野趣二題」を作成している。
 近所の人々の証言では、林響が絵を描いている所を見たことが無い、いつもお酒を呑みながら庭を見ていたり、着物姿で池の周りをぶらぶらしていたようであった。また、林響と呼ぶ人はほとんどなく「品川の天風さん」の名で親しまれていた。
 こんな、天風さんも昭和5年2月25日、好きな禽に囲まれながら、脳溢血で45歳の若さで世を去ってしまった。