大網白里市へのあゆみ

 大網白里市内には、四十八の大字(おおあざ)と呼ばれる地域が存在しています。大字はほとんどが江戸畤代から続く村々の名称でしたが、明治22年4月の町村制の施行によって山辺村、大網町、大和村、瑞穂村、増穂村、福岡村、白里村の七つの町村に再編されました。さらに、第二次世界大戦後の合併を経て、昭和29年12月1日に人口25,731人の大網白里町が誕生し、平成25年1月1日の市制施行によって人口51,135人の大網白里市となりました。
 
【山辺地区】
 山辺地区は市の北西部に位置し、土気とつながる下総台地から丘陵部を経て大網地区へと続いています。江戸時代までは餅木村、金谷村、名村、真行村、小沼村、長谷村、大竹村、南玉村、池田村の九ヶ村に分かれていましたが、明治9年に金谷村、名村、真行村、小沼村、長谷村の五ヶ村が合併して金谷郷村となり、明治22年の町村制施行により金谷郷村、餅木村、大竹村、南玉村、池田村の五村が合併して、地域の郡名をとって山辺(やまべ)村としました。大正2年の人口及び世帯数は1,889人、334戸となっています。
 
【大網地区】
 大網地区は明治維新までは、大網村あるいは大網郷と呼ばれていました。現在の大網街道から旧国道128号線を経て外房沿岸へと続く房総東往還と、大網から東金を経て銚子へと向かう銚子往還の二つの街道の交点として、古くから栄えており、明治2年に大網藩となったのち、明治6年には萩福田村を、明治22年4月には佛島村を併合して大網町となりました。大正2年の人口及び世帯数は3,238人、543戸となっていますが、昭和26年には山辺村と瑞穂村を合併した結果、昭和29年9月時点では人口11,019人、2,030戸でした。
 
【大和地区】
 大和村は現在の大網と東金の間に存在した村でした。明治22年にそれまでの山口村、小西村、養安寺村、福俵村、田中村の五ヶ村が合併して大和村となりましたが、昭和28年4月に、村北部の福俵、田中、そして山口の一部は当時の東金町に合併して東金市の一部となり、南側の小西、養安寺、そして山口の残る一部が大網町に合併して現在に至ります。大正2年の人口は村全体で人口2,950人、447戸となっていますが、福俵村と田中村の世帯数が合計で284戸ですので、村の約3分の1が大網に合併したと考えられます。
 
【瑞穂地区】
 瑞穂地区は明治22年の町村制施行により、永田村、駒込村、赤荻村、経田村、小中村、神房村、萱野村、砂田村の八ヶ村が合併して瑞穂村となりました。大正2年の人口は2,670人、417戸となっています。
 
【増穂地区】
 増穂村は明治22年に北飯塚村、南飯塚村、柿餅村、上貝塚村、上谷新田村、清名幸谷村、富田村、北横川村、星谷村、南横川村、木崎村、柳橋村の十二ヶ村が合併して誕生しました。大正2年の人口及び世帯数は3,252人、520戸となっています。なお、昭和29年9月合併前の人口は3,903人、665戸でした。
 縄文時代の前期以降に最も早く陸地化の進んだ第一砂丘列といわれる地区であり、現在は河川改修や土地改良事業により排水整備が進められ、まっすぐな河川や道路が存在していますが、かつては、大網地区の低地帯からあふれた水が蛇行した河川を作り、福岡地区などの第二砂丘列に向けて氾濫原を形成していました。弥生時代以降、蛇行した河川周辺の低地帯を水田化し、近辺に集落が形成されたと考えられます。
 
【福岡地区】
 福岡地区は東金市の南部から大網の中央部にかけて広がる地域で、明治22年に現在は東金市となっている小沼田村などの十ヶ村と、大網白里市域の桂山村、九十根村、北吉田村、長国村、下ヶ傍示村の五ヶ村の計十五ヶ村が合併して福岡村を形成していました。昭和の大合併では、現在大網白里市に含まれる南部五地区が白里町に分村合併し、その後に大網町、増穂村、白里町の二町一村の合併による大網白里町が誕生しました。大正2年の人口及び世帯数は村全体で3,755人、600戸となっていますが、南部5地区の世帯数は159戸でしたので、村の4分の1程度が福岡村から分村したと考えられます。
 
【白里地区】
 白里地区は古墳時代から陸地化が進んだ地域です。第三砂丘列群と呼ばれる、海岸に平行な砂丘とその間の列間低地からなり、近年まで海岸沿いの砂堤列に納屋集落が存在していました。四天木の経塚からは、中世の供養塔である板碑が出土していることから、室町時代には現在の村落が形成されていたと考えられます。
 北今泉と南今泉は江戸時代当初は今泉村という一つの村でしたが、土地が広く人や畑が増え、治める上で不便になったことから、領主であった水野氏が今泉村を北今泉と南今泉に二分し、それぞれに名主を置いて隔年で当番を定め、後に完全に分離したとされています。
 明治22年の合併では北今泉村、南今泉村、四天木村、細草村の四村が合併して、地域の古名である白里を用いて白里村を名乗りました。大正2年の人口及び世帯数は6,841人、1,805戸となっており、昭和10年8月には白里町となりました。なお、福岡村の南部五地区と合併する前の白里町の人口は10,560人、1,877戸でした。また、大網白里町発足後の昭和32年11月に清水地区が合併し、現在の大網白里市域が確定しました。