大網白里市の歴史

【遺跡が語る原始・古代の大網白里】
 大網白里市は西部に千葉市の土気地区につながる台地・丘陵部が広がり、その東に縄文時代早期から堆積を続けた砂丘列が広がっています。市の中央部から東部を占める九十九里平野の砂丘列上の遺跡については、昭和20年代以降、九十九里平野の形成過程を解明するために研究が進められ、その中で沓掛貝塚や上貝塚、そして南飯塚遺跡などが古くから知られてきました。
 また、西部の台地上には標高80mから90mの下総台地が広がっています。この地域は住宅地やゴルフ場の造成に先立ち、大網山田台遺跡群、砂田遺跡群、瑞穂横穴群、金谷郷遺跡群などで大規模な発掘調査が行われました。こうして多数の遺跡の調査結果から、本市周辺の古代の様相が次第に明らかになっています。
 
・旧石器時代
 大網白里市に人々が暮らし始めたのは今から2万年から3万年前の旧石器時代のことでした。この頃の地球は氷河期という寒冷期で、現在より海面が100m以上低く、大陸と日本列島が陸続きになっていたといわれています。旧石器時代の遺跡としては大網山田台遺跡群や砂田遺跡群、そして金谷郷遺跡群などが存在しており、金谷郷遺跡群の上引切遺跡からは抽象性の高い線刻礫(せんこくれき)などが出土しています。
 
・縄文時代
 縄文時代は今から1万3千年前からはじまり、2千300年前の弥生時代までの約1万年間を指します。縄文時代の早期から前期は氷河期が終わり、海面が上昇したため、山辺地区や瑞穂地区の山裾まで海が進入し、台地上に沓掛貝塚をはじめとする遺跡群が形成されました。一方で縄文時代中期から後・晩期にかけては、海面が次第に低下すると共に砂丘列が堆積することで、現在の市域を形成する増穂地区から白里地区までが次第に陸地化してきた時代です。

縄文時代の集落跡(一本松遺跡)
 
・弥生時代
 大網白里市周辺に水田稲作が伝わったのは弥生時代の中期、今から2千年前頃のことと考えられています。市内周辺の弥生時代の遺跡は、大網山田台遺跡群などの台地上の遺跡の他、増穂地区から福岡地区にかけて、現在の小中川や南白亀川沿いに存在した自然堤防上に分布しています。また、昭和47年に現在の大網駅を建設中に縄文時代から古墳時代にかけての丸木船が出土しています。
 
・古墳時代
 台地上の発掘調査では、前方後円墳や円墳、方墳(ほうふん)など、古墳時代の竪穴住居が確認されています。季美の森にあるむぎわら公園は、道円坊古墳という方墳を保存するためにその周辺を公園として残したものです。
 
・奈良・平安時代
 奈良から平安時代にかけて、律令制と仏教による統一国家としての地方制度が整備されてきました。大網山田台遺跡群では、一本松遺跡で古代寺院跡が発掘され山田廃寺と名づけられました。周辺はさくら公園として埋戻して保存をしています。
 また、この時期の竪穴住居跡や掘立柱建物跡が多数確認されています。この時期の集落からは山武郡のもとになった「山邊郡」などの文字を墨で書いた土器などが多数出土しています。

平安時代の集落跡
 
・土気金城と高海寺
 山辺村は土気の東隣にあたりますが、土気城は奈良時代の初期、東北地方への遠征に際して、陸奥国に多賀城を建設した鎮守府将軍の大野東人が後方基地として土気金城を築いたといわれています。
 また、大野東人の後を受けて赴任した高海親王はこの地で亡くなったため、親王を弔うために高海寺が金谷に造立されました。現在は高海寺は廃寺となっていますが、高海寺のあった場所は高海谷という地名が残されています。
 
 
【中世の大網白里】
 中世は開拓領主としての武士団が社会の表舞台に立った時代です。平野部が次第に乾燥し、平安時代まで続いていた竪穴住居は姿を消し、平地住居へと移行したことで、次第に生活基盤である水田に近い位置に集落が移転したと考えられる時期でもあります。このため、現在、市内に存在する集落は、一部の江戸時代の新田集落を除いて、中世にその起源を持つものが多いと考えられています。なお、市内周辺には小西城や土気城そしてその支城としての大網城などが知られている他、みどりヶ丘団地の造成に際して調査された道塚やぐら群などの中世遺跡が知られています。
 
・小西城
 小西城は千葉一族の重臣、原氏の居城として知られています。原氏は関東の戦乱期の始まりとなった享徳の乱に際して、千葉一族の内紛の中心となった一族です。小西城はその原氏一族の支城として知られています。なお、小西城跡については、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の建設に先立ち発掘調査が行われました。
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・七里法華(しちりぼっけ)と酒井氏
 土気城は大網白里市と千葉市の土気の境に位置する中世城郭であり、長享2年(1488)に土気城を再興した酒井定隆がその城主として知られています。酒井定隆は土気城の鬼門除けとして、縣神社や宮谷八幡宮など、本市の指定文化財となっている寺社を建立したうえ、土気城再興にあたりその領内の寺院を日蓮宗へと改宗させる改宗令を発しました。その寺院のひとつが永田の光昌寺で、真言宗からの改宗にあたり、従来の経典や仏具、仏器類を埋めた塚は経塚と呼ばれています。
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【江戸時代の大網白里】
・徳川家の関東支配と大網白里
 徳川家の江戸入府以降、下総、上総一帯では鷹狩りなどが行われ、市内にも徳川家に関わる文物も多く残されています。当時の幕府による小金原(現在の松戸市)での鹿狩りに村民が動員された際の四天木村の村小旗のほか、永田村の郷五人組帳や高札など徳川家による支配の実情を示す資料が数多<残されています。
 
・六斎市(ろくさいいち)
 六斎市は慶長11年(1606)に大久保治右衛門の命により始まった市(いち)で、長南、本納、大網、茂原、一宮の五ヶ村で、5日毎に月6回、順番に開かれました。大網では三日、八日、一三日、一八日、二三日、二八日に開設されたことから「三八の市」とも呼ばれました。当時の村はほとんどの物資を村の中でまかなう自給自足でしたが、塩をはじめとする一部の必需品は交易で他地区から入手する必要がありました。このため、治右衛門は市の開設と併せて、内房の五井村からそれぞれの市に、荷駄により塩を搬入するよう命じたとされています。また、市の立つ通りは市を行い易くするために、道路の幅を六間(10.9m)に拡幅させたといわれています。
 
・御茶屋松
 池田にある日吉(ひえ)神社には家康を祀った「東照大権現」の小祠が残されています。これは、徳川家康が房総を巡視した際に、この断崖にかかる老松に鎧を掛けて休息したことに由来するもので、そのやや東の小中川河畔には御茶屋松を記念して、池田一本松が植樹されています。
 
・市内三檀林(だんりん)
 江戸時代には地方の教育は寺子屋などの寺院が行っており、現在の大学に当たる高等教育を行う場所を檀林と呼びます。当時の市周辺は七里法華の影響により、日蓮宗の檀林が作られ、市内には小西檀林、宮谷檀林、細草檀林の三檀林が存在しました。
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・お塚山と不受不施派(ふじゅふせは)
 慶長2年(1597)常楽院日経(にっけい)は七里法華が栄えた市内の富田村を中心に、不受不施派という他宗の者から不施を受けずまた施さずという布教活動を行い、お塚山に宝立山方墳寺を建て、その境内に五輪塔を建立しました。不施不受派の教義は、寺社を支配体制の一部として組み込もうとする徳川幕府の政策と相反したため、慶長14年(1609)家康の逆鱗に触れた日経は、京都六条河原で弟子と共に耳削鼻削の刑に処せられ、寛永4年(1627)には、代官三浦監物により方墳寺は破却されました。境内の五輪塔は四百尻川(現小中川)にうち捨てられたとも、信者により土中に隠されたとも伝えられていますが、現在は空輪・風輪は南横川の個人宅に、水輪・地輪は南飯塚公民館の一角にそれぞれ安置されています。
 
 
【近・現代の大網白里】
・宮谷県と大網藩
 江戸時代の大網は幕府直轄領や旗本領の他、米津藩など複数の領主が治める領地でした。明治維新を迎えると、明治2年、現在の千葉県の前身となる安房・上総県の知県事の柴山典が、県庁を長南から宮谷の本國寺に移し、後に「宮谷県」と称したため千葉県の発祥の地の一つともされています。当時は新政府直轄地を治める宮谷県と従来の藩が併存していたため、出羽国の米津藩が藩庁を大網の蓮照寺に移し、大網藩を名乗ったことから、大網には宮谷県庁と大網藩庁の両者が存在することとなりました。
  →宮谷県について「大網白里町史」で詳しく見る
  →大網藩について「大網白里町史」で詳しく見る
 
・白里浜の繁栄といわし漁
 江戸時代中期から近代に至る300年間にわたって、白里浜では地引網を用いたいわし漁が盛んに行われ、みかんなど商品作物を栽培する上で欠かせない肥料として、干鰯(ほしか)や〆粕(しめかす)などを全国に供給していました。その豊かな水産資源を背景として、白里には北今泉の上代家や四天木の斉藤家など大きな経済力を有する網主が誕生しました。彼らは文人・墨客のパトロンとなっただけでなく、斎藤四郎右衛門自らが書家や画家などとして成果を残しました。
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・戦中・戦後の大網白里
 太平洋戦争の末期、サイパン島などのマリアナ諸島が陥落すると、B29による本土空襲が本格化してきました。このような中で、東京の防空のため、茂原に海軍が、東金には陸軍が飛行場を建設すると共に、飛行機のエンジンを作っていた日立航空機も、千葉から大網の丘陵部に工場を移すこととなりました。大網から山辺にかけての丘陵部には、地下式や半地下式の工場が建設されたため、現在も一部に地下工場跡のトンネルが残されています。
 
・稲生神社(南今泉)の板絵馬
 市内には各地の神社に「板絵馬」が奉納されています。その中で、最も数多くの絵馬が奉納されているのが、南今泉の稲生神社で、60点にのぼる絵馬・奉納額が保管されています。稲生神社の板絵馬には、白里地区の地曳網漁を描いた「船出」や「地曳網」の図案のほか明治・大正期の住民の姿を描いた絵柄も多く、非常に貴重なものです。(通常は見学できません。)
 
・大網駅の移転と外房線
 明治29年に開業した房総東線大網駅は、機関車のターンテーブルを持つスイッチバック方式の単線線路でした。昭和44年に蒸気機関車が姿を消したのに続き、昭和47年には大網駅が現在の場所に移転すると共に、複線電化した外房線として、新たに特急が開通しました。これにより、京葉地区への通勤圈となった本市は急速に人口が増加することとなりました。