絵馬に託した祈願と報謝
新年を迎えると、社寺に初詣する人々の姿が放映される。目的は賽銭を奉納し神仏に祈願や祈願成就のお礼をするためである。ただ心の中で願い事を呟くより絵や文字にして具体的に表現して願ったほうが神仏に伝わるのではという方法として民俗的伝統が絵馬という形で伝わっている。苦しいときの神頼みである。各地の社寺には多くの絵馬が奉納されているが日本独特の風習である。奉納は祈願する場合が多いが祈願成就の報謝としても奉納される。
絵馬のルーツを辿ると奈良時代まで遡る。奈良時代末期、静岡県浜松市の伊場(いば)遺跡から馬形11点、絵馬6点の出土報告がある。意味するところは陽乞(ひご)い、雨乞(あまご)いの呪術に用いられたものと推察される。人の身辺には多くの動物がいるなかで何故「馬」が、という疑問が湧いてくる。その理由は、馬が古代から神の乗り物として神聖視され、生きた馬が神馬(しんめ)として神(神社)に献上されていたことに由来する。『続日本記(しょくにほんぎ)』の天平宝字7(763)年5月の記述に「長雨が続いているので雨を止まらせるために白馬を献上した」とある。また、『延喜式(えんぎしき)』(927年)にも「祈雨の神であり止雨の神である丹生(にう)大神に降雨を祈る際は黒毛の馬、止雨を願う際は白毛(赤毛)の馬を神馬として奉る」と、同様の記述があることから農耕民族としての神仏への祈願に繋がっていったものと思われる。
献納の変遷をたどると、当初は生きた馬、生きた馬が献上できない場合は、土・陶製馬、木製馬などがその代用となり、さらに簡略化されて馬の形を板でつくった板立馬という形から板に馬図を描く絵馬へと移り変わっていった。絵馬が五角形の山形に作られているのは馬屋を表したものである。
「絵馬の宝庫」大網白里
大網白里は絵馬の宝庫である。『千葉県文化財実態調査報告書』―絵馬・奉納額・建築彫刻―(千葉県教育委員会)によると、市内の絵馬・奉納額は172点確認されている。当時、県下80市町村のなかで10本の指に入る数字である。その後、市教育委員会等の追跡調査では総計240点の存在が確認され、その多くが江戸・明治・大正期に奉納されたものである。なかでも天正7(1579)年12月16日、土気城主酒井伯耆守康治が縣神社(あがたじんじゃ)に奉納した「板絵馬著色武者絵」二面(弁慶と牛若丸)は、県内最古の貴重な絵馬である。桐板に描かれ、二面とも縦35cm、横47cmという比較的小型のものである。当時のものとしては保存状態もよく、県文化財に指定され千葉県立中央博物館が保存している。
大網白里には100を超す社寺がある中で絵馬奉納が確認されるのは15社である。なかでも南今泉の稲生神社(絵馬堂も在る)や清名幸谷の御嶽神社には江戸から明治期にかけての大絵馬が所狭しと奉納され見るものを圧倒する。歴史画や武者絵が多い。
図柄の変遷をたどると、当初板に馬図が描かれていたが、時代の流れとともに絵馬の図柄にも変化が現れ、室町時代以降になると祈願する内容も具体的なものとなっていった。航行の安全を祈願する「船の図」や歌の上達を祈った「歌仙図」、物語・故事に因んだものなど多様な図柄が描かれ奉納されるようになっていった。
このような絵馬の変遷から市内の絵馬を俯瞰すると、図柄は「源義家勿来の関図」「源頼朝冨士巻狩の図」「太食調入調の伝授図」「船出の図」「富士登山の図」等々画題もバラエティに富み大絵馬が多く散見される。小絵馬の多くは「家族拝み図」「女拝み図」「男拝み図」といったもので、時代的には明治から昭和初期に奉納されたものと推察される。文献によると、江戸時代の文化・文政期ころから庶民文化が台頭し、自ら描いて奉納できるという気安さから小絵馬は広く普及していった。
大網白里の絵馬とその特質
大網白里の絵馬について、その特質すべき点をいくつか挙げると、まず大絵馬が多いということである。横幅160cm以上の絵馬は10数点確認される。なかでも200cmをこえるものが数点あり、最大は永田地区の矢口神社に奉納されている「武者絵」は縦240cm、横292cm、養安寺にある御嶽神社の「冨士と龍図」は横280cmの堂々とした図である。
2点目は画題が豊富であるという点である。中国故事、武者絵、英雄伝説の図、寺社参詣の図、風俗・生業等々実に幅広いジャンルに及んでいる。当然、本市が九十九里浜に接していることもあり地引絵馬の奉納も散見される。
特異なものとして南今泉の稲生神社に奉納されている「四季農耕と漁村の生活図」がある。大地主でかつ網元と思われる豪農の稲作が四季を通して描かれている。春の苗代づくり、籾まき、田植え、秋の刈り取り、脱穀、俵詰め、土蔵へ収納という過程のみならず、座敷では主人と家族が算盤で売り上げをはじいている場面まで描かれている。また浜では地引網漁も行われ大漁である。つまり、岡の裕福な豪農が余剰金で漁船を造り地引網漁業も行つている様子まで描き、九十九里浜盛期の地引網漁の一端を見ることができる。
3点目として、歴史画が多いということである。前述した以外の図を挙げると「楠木正成父子櫻井駅別図」「加藤清正虎退治図」「平敦盛と熊谷直実」「源為朝大島配流図」「朝比奈草摺曳の図」「巴御前馬上の図」等々である。また中国の故事や歴史画から得た題材も多い。一例を挙げると、孟子の母が学業の途中で家に帰って来てしまった我が子に対して、織ったばかりの布を切り裂いているところを描いた「孟母断機戒め図」がある。この図は、学業を中断することは、苦労して織った布を切って使えなくなってしまうことと同じことだと身をもって教え諭し、孟子はこれを教訓として学び勉学に励みついに大学者となった、という故事に基づくものである。外に「鍾馗の図」「韓信の股くぐり」「囲碁打ち図」等々があり、奉納者の体験や興味関心の深さが奉納の図から伺える。
奉納者と作者
絵馬の奉納には経済的に恵まれている人々からの奉納が多かった。特に大絵馬となるとしかるべき専門家あるいは業者に依頼することになり、しかも社寺に対してそれなりの献納(金品)が伴うことになる。生きた馬を奉納していた時代では、奉納後の馬の飼育や飼馬料といった経費負担も当然伴ったので、その延長線上にある絵馬奉納においてもこの慣習は引き継がれたことは申すまでもない。
人々が多く集まる社寺には一流の画家が描いた図も多い。奉納者の名や奉納年月日も入れる場合が殆どで知名度の高い画家や職人に大きな作品を描いて貰い奉納するというようにエスカレートしていった。名高い社寺には絵馬堂も造られるようになっていった。
大網白里に奉納されている絵馬にも力作が多い。都市部の力量ある画家が描いたと思われる作品が散見され、木雙峯、梅渓、堤雪筏、榮玉、馨齊、岩枩、清渓、蓬山、林齊正隆、魯石、安川柳渓、紫山、白里素人等々が確認される。林齊正隆は、東金の人である。梅渓こと田崎早雲は、江戸後期から明治にかけて活躍した中央画壇の一人で明治政府の下で技芸員となった実力者の一人である。嘉永2(1849)年、南今泉の稲生神社に奉納された馨齊の「小金原巻狩の図」は金粉が散りばめられており画面に登場する馬上の武者達は躍動感に満ち見るものを圧倒する。残念なのは画面が煤で黒ずんでいるが傑作の一つである。
安川柳渓は、文化2(1805)年東金の福俵に生まれた人物で、小さい頃から学問好きで南宋派の画家たか高く久あいがい靄涯に学び画を佳くした優れた人物である。木崎にある太政神社に奉納された「朝比奈大鰐太治の図」「大食調入調の伝授図」は代表的な作品である。
[参考文献]
『大網白里町の絵馬』大網白里町教育委員会 平成8年1月22日発行
『千葉県文化財実態調査報告書』―絵馬・奉納額・建築彫刻― 千葉県教育委員会 1996年3月発行
『成田山新勝寺の絵馬』大野政治、 小倉博 成田山霊光館 昭和54年1月発行
『房総の絵馬展』千葉県立上総博物館 昭和50年4月発行
『日本の絵馬』岩井宏實 神山登 河原書店 昭和54年10月
その他
執筆者 古山 豊(大網白里市郷土史研究会会長/大網白里市・東金市文化財審議会委員) 平成31年3月