大漁がもたらした「いわし文化」

地引網の伝播と発展
 いすみ市岬町の太東岬から飯岡の刑部岬に広がる雄大な九十九里浜は、江戸時代の中期ころから昭和初期にかけて、鰯の一大漁場としてその名は全国に知られていた。幕末の大漁期には「九十九里大漁節」が歌われるようになり、その様子は「五つとせー いつ来てみてもこの浦は、粕や干鰯で席がない、浜大漁だね」と、漁民のみならず広く歌われた。
 地引網の漁法を九十九里浜に伝えたのは紀州の漁民で、『房総水産図誌』(千葉県編、明治16年)によると、九十九里浦地曳網の起源は、弘治元(1555)年、紀州の人西宮久助が九十九里南白亀浦に漂着し剃金(白子町剃金)の長島丹後に寄寓し、本国熊野で使用している網器にならい、曳網(小地曳網)をつくったと記している。
 外房沿岸には江戸初期から大正期にかけて5度の豊漁期があった。地引網による鰯漁は、先進地域の摂津、和泉(現大阪の南部)、紀伊等の関西漁民による「旅網」であった。つまり春に来て秋に帰るという季節的な出稼ぎで、これら漁民たちによって九十九里浦の地引網漁は支えられていた。地元漁民による「地網」は、元禄16(1703)年に発生した元禄地震後であると言われている。地引網漁法は、当初一艘による片手廻地引であったが、後に二艘による操業へと進化し規模も大きくなっていった。右側の船を真網(まあみ)船(真船)、左船を逆網(さかみ)船(逆船)と呼び沖で魚群を発見したとき、双方の船に積んだ網を繋いで投下し、魚群を一網打尽にして砂浜まで引き寄せるという漁法である。従って多くの乗組員(水夫(かこ))や岡で網の先端についている綱を引くには多くの労働力が必要であった。
 明治中期になると、改良揚繰網漁法が考案され漁業の主流になっていった。揚繰網(あぐりあみ)とは、二艘の船で網を投入し魚群を囲い込んで採る漁法で、網を両端から船内に繰り込むと同時に引手綱を引いて網の下辺を素早く引き寄せ、魚が下から逃げるのを防ぐ工夫(巾着網)がなされた優れた漁法である。船に引き揚げた魚は伝馬船で陸に運ぶので効率的な漁法でもあった。そればかりではなく地引網の場合は陸から4㎞程度が漁場であったのに対して改良揚繰網は、沖合い30㎞まで操業が可能で、かつ人手も大幅に減らすことができた画期的なもので、その後九十九里浜の漁法の主流となっていった。
斎藤四郎右衛門家船1
斎藤四郎右衛門家船1
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斎藤四郎右衛門家船2
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鰯の需要
 大量に陸揚げされた鰯は、当然食料としても消費されたが、浜辺で買付商人の手を経て多くは干鰯や〆粕に加工された。加工された鰯は金肥として高値で取引されていった。干鰯は、文字のごとく干した鰯のことであるが、当初鰯は筵の上に並べて乾燥されたが、大漁が続くと直接白砂上に干されるようになっていった。当然、季節(春夏・秋冬)によって乾す日数は異なり、『九十九里町誌』によると10~25日程度であったという。〆粕づくりは、手間と費用がかかった。鰯を一端大釜で煮た後、四角い木枠に入れ圧搾機で油(魚油)を絞り固まったものを乾かして俵(筵)に詰め、関東、東海、関西方面へと出荷されていった。九十九里南部から房州方面では俵物は東浦賀や江戸の干鰯問屋へ、また北部では利根川沿いの河岸から、関宿・境の干鰯問屋がその中心を担っていた。
 近世における干鰯需要の背景には、人口の増加と商品作物への需要が挙げられる。稲作肥料に用いるほか、商品価値の高い三草(藍・木棉・麻)、四木(茶・桑・漆・楮(こうぞ))や紀州の蜜柑栽培などに使用され、近世初期以降その需要は急激に高まっていった。取り分け綿は衣料原料としての木棉栽培の普及に伴って、関西やその周辺地域の農村需要を満たし飛ぶように売れていった。木棉栽培は良質の肥料を多量に施す必要があり、肥料が不足すると綿の結実部が小さくなってしまうので必要不可欠な良質の肥料が干鰯であった。特に、畿内・伊勢・尾張そして三河は、先進木綿産地であった点は注目すべきである。
 江戸中期以降、庶民の衣料は麻から木綿に代わり、各地で棉花の栽培が盛んになっていった。漁船の2倍以上の経費がかかる漁網にも変化が現れた。従来の麻網から木綿網が用いられ一旦柿渋で煮るとさらに丈夫な網となり漁獲高も飛躍的に伸びていった。また九十九里浜沿岸でも木棉の栽培が行われるようになり、上総木綿として岡集落を中心に多くの機屋(はたや)が生まれ庶民の衣類として飛ぶように売れていった。
 干鰯の取引を九十九里の網主に伝わる「干鰯地売帳」でみると、文久2(1862)年には、一俵が一分二朱であったものが、明治2(1869)年には何と一両二歩という高値で取引されている。
 
大漁がもたらした「いわし文化」―網主と都市文化人の交流―
鰯の大漁は、網元に巨万の富をもたらした。干鰯の流通は経済面のみならず地方に都市の文化の流入をもたらす役割も果たし、多くの文化人が来訪し交流も盛んとなっていった。まさに鰯がもたらした所謂「いわし文化」と呼ばれる地方文化の開花である。
 文人墨客等の上総来訪の要因の一つに寬政の改革がある。改革の一つに「異学の禁」がある。幕府は官学の朱子学が次第に衰えてきたことから、幕藩体制を強化する手段の一つとして朱子学以外の講義や研究を禁じた。そのため鰯で潤った上総に安らぎを求めてやって来たのが江戸の学者や文人墨客たちである。粟生村(九十九里町)の飯高家をはじめ、向学心を持った裕福な網主たちは江戸の情報を共有し、積極的に文化人との交流に務め自らも詩書画等に親しんでいった。
 浜に「いわし文化」を育んだ群像の例として次のような人々を挙げることができる。 梁川星巌(儒者・漢詩人)、大沼沈山・遠山雲如(漢詩人)、渡辺崋山(画家・思想家)、椿椿山・谷文晁・滝和亭(画家)、剣持章行(和算家)、内村鑑三(思想家)、徳富蘇峰(評論家)、徳冨蘆花(小説家)等々である。
 四天木の斎藤四郎右衛門家第12代巻石は、画家の椿椿山や高久靄崖に師事し多数の山水画を残すと共に膨大な書画骨董の蒐集も行っている。別邸大洋庵を海浜に設け文人墨客を歓待した。梁川星巌夫妻もその一人で、地引網で獲れたばかりの鮮魚でもてなしている。星巌は端午の節句に「大洋庵に遊ぶ」と題した詩を詠んでいる。巻石の若き日の代表作に「涅槃図」の大作があり、四天木の要行寺に大切に保存されている。文豪森鷗外が一時期所有していた「山水図屏風絵」は、現在東京国立博物館に収蔵されている。甥の齊藤滄海もまた椿椿山に入門し、漢詩文を大沼沈山に学ぶ文化人であった。北今泉の上代平左衛門も巻石同様、多数の文人墨客と深く交わり書画骨董を多数蒐集した網主の一人である。
斎藤四郎右衛門家大洋庵
斎藤四郎右衛門家大洋庵
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斎藤四郎右衛門家の庭
斎藤四郎右衛門家の庭
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 隣村九十九里の飯高家第4代の惣兵衛(字尚寬)は、佐藤信季の『漁村維持法』にもその名が出てくる九十九里浜随一の豪農でかつ網主である。安永9(1790)年6月に江戸北町奉行組与力給地、上総地方代官を仰せつけられるほどの身分であったことから、江戸に出府し与力衆との交渉も多かったと思われる。俳号を㶚陵とし古希の祝に漢詩・俳句集『㶚陵集(はりょうしゅう)』上下(文化元年)を自費記念出版した文化人で、同家の霞邱もいわし文化を培った一人である。このように、「いわし文化」が開花した背景には、鰯で富を築いた豪農・網元と中央の文化人が接する機会が多くなったことや富裕層が学芸に目覚め身近なものとして生活に取り入れていった結果といえよう。
 
[参考文献]
『いわし文化を知る』大網白里町教育委員会・大網白里町文化協会 平成23年6月21日発行
『九十九里舊地曳網漁業』山口和雄 昭和12年7月発行 アチック・ミュージアム
『近世の漁村』荒井英次 昭和45年9月1日発行 吉川弘文館
『九十九里町誌 総説編』九十九里町 昭和50年5月31日発行
『房総漁村史の研究』千葉県郷土史研究協議会編 昭和58年3月5日発行 千秋社
その他
 
執筆者 古山 豊(大網白里市郷土史研究会会長/大網白里市・東金市文化財審議会委員) 平成31年3月