<20>元網主斎藤四郎右衛門家稲荷社


  大網白里市指定有形文化財 建造物
  平成6年(1994)2月28日指定
 
斉藤四郎右衛門家稲荷神社の装飾彫刻について
 元網主の斉藤四郎右衛門の稲荷社は梁間一間、桁行一間、本瓦使用の入母屋造りで、擬宝珠を廻らし、縁は三手先の腰組で受け、S字形に湾曲した海老虹梁や向拝妻部分に手挟が取り付けられるなど多彩な装飾彫刻によって飾られており、本格的な本殿造りとなっている。個人所有の稲荷社としては大層大きなもので、網主にふさわしく、豪華で見栄えの良い造りとなっている。
 稲荷社の彫刻の図柄については施主の意向を伺って決めるので、斉藤家の家族繁栄や子供の健康や成功などといった願いを込め、それらにふさわしい図柄で仕上げたと思われる。
 それらの彫刻の取り付け箇所と題材は以下のようになっている。
 
 稲荷社の正面水引虹梁の中備(なかぞなえ)(水引虹梁上の中央蛙股)に「親子龍」を配し、向拝(こうはい)柱の木鼻には「振り向き獅子」で飾られ、右側の獅子は布を咥え、玉を取り寄せている。一方、左側の獅子は蕾の牡丹を咥えている。脇障子両サイドは「獅子の子落とし」とし、両側面の羽目板にはそれぞれ「波に龍」と「竹に虎」が配されている。蛙股(かえるまた)(梁や桁の上にある蛙が股を拡げたような山形型の部分)は稲荷社にふさわしく神の使い(眷属)とされる「狐」が施されている。
 小脇の縦型欄間は「鯉の滝登り」とし、桁隠しは「燕」、手挟(たばさ)みは「雲に麒麟」、籠彫りは「大和松に鳩」(8)、頭貫には獅子の丸彫りとしている。水引虹梁は表側に「杜若(かきつばた)」や裏側に「若葉」が刻まれている。海老虹梁の文様は高低差を考慮し、「水に紅葉(もみじ)」と「雲」が施されている。降り懸魚(げぎょ)(屋根の切妻部分の三角形の所、脇懸魚とも、桁隠しなどとも言う)の東西側は飛翔している「燕」を配し、極めて華麗な構図となっている。
 
いわし文化と斉藤四郎右衛門家について
地引網の伝播と干鰯・〆粕の流通
 近世に入ると鰯を求めて先進地域の関西漁民の渡来が多くなり、九十九里浦の地引網漁業は夜明けを迎えた。江戸中期以降の九十九里浜は鰯が特産物として全国にその名を馳せた。干鰯(ほしか)や〆粕(しめかす)に加工された鰯は、曽我野(現千葉市)等の廻船問屋から浦賀や江戸の干鰯問屋へ運ばれた。関東、東海、関西方面へ大量の魚肥が金肥(きんぴ)として出荷され、稲作や木綿・ミカンなどの栽培に用いられた。豊漁は網主(網元)に莫大な利益をもたらし、九十九里浜と都市をつなぐパイプとなり、物流と活発な人流は浜に新たな文化を開花させた。
 
斉藤家の出自
 斉藤家の出自は家伝によると、豊臣秀吉の「小田原攻め」で土気城・酒井家が滅び、家臣であった斉藤氏は四天木村へ移り住んだとのことである。同家がいつ頃から地引網を興したかは定かでないが、化政期(1804-29)頃のには、四天木(してぎ)村(現大網白里市)を代表する大網主・地主として成長していった。
 14歳で養子に出た巻石(第12代四郎右衛門)は、兄の早世により一宮の中村家を辞して家督を継いだ。兄の子庄太郎(第13代四郎右衛門・滄海(そうかい))が成長するのを待ち家督を譲り、家業を見守りながら好きな画を描き江戸の文人墨客等と交遊した。32歳の時、要行寺住職より依頼され「涅槃図(ねはんず)」の大作を完成させている。
 更に画業の奥義を深めるために、南画家の高久靄厓(たかくあいがい)や椿椿山(つばきちんざん)を師に、巻石のほか南乙・白湾魚長、大洋庵主人、拱寿(きょうじゅ)庵主等の号を用いている。明治27年の、斉藤家邸宅(「日本博覧図」)は、贅を尽くした豪邸である。邸内に設けられた稲荷社(大網白里市文化財)の擬宝珠(ぎぼし)には、明治3年と刻字された成憲(せいけん)(滄海)の名が散見される。庭園には拱寿庵と群蛙亭(ぐんあてい)などを結び文雅をこよなく愛した網主画家巻石の趣味と拘りの一端がうかがえる。また海辺には別邸「大洋庵」を設け、江戸や関西などから訪れる文人墨客との社交場にもなっていた。
 滄海は、曽我野(そがの)村(現千葉市蘇我)の廻船問屋小河原(こがわら)いとと結婚し、巻石の影響もあり椿椿山に入門している。成憲、五清堂などの号がある。漁業の傍ら、第一回千葉県会議員となり県議を退いた後は白里村初代村長として活躍した。九十九里浦を代表する地主であり大網主である粟生(あお)村(現九十九里町粟生)の飯高家とも姻戚関係を結んでいる。斉藤・小河原・飯高の三家の強固な結びは生業繁栄の礎となっている。
 
いわし文化
 いわしの豊漁により、巨万の富を蓄財した網主たちのもとには多くの文人墨客等が来訪し、網主たちも自ら詩書画等を学び教養を高めていった。鰯がもたらした文化「いわし文化」が誕生した。天保12(1841)年、四郎右衛門の大洋庵には梁川星巌(やながわせいがん)(漢詩人)・紅蘭夫妻が訪れ地引網でもてなしている。ほかに同庵を訪れた人々に高久靄厓や椿椿山、滝和亭(たきかてい)、福田半香、谷文晁、渡辺崋山、和算家の剣持章行(けんもちあきゆき)その他多数に上る。
 飯高家第4代の惣兵衛(尚寛(しょうかん))もいわし文化を代表する一人で、古希の祝に漢詩・俳諧集『灞陵集(はりょうしゅう)』上下(文化元年)を自費出版した文化人である。
 大洋庵には、巻石が蒐集した収蔵品が山積していた。滄海が記した齊藤家「蔵幅目録」(明治12年11月)には、高久靄厓や椿椿山の作品は勿論のこと、狩野探幽・谷文晁・酒井抱一(ほういつ)・与謝蕪村・浦上玉堂・渡辺崋山、その他中国の明・清時代の書画等258点が記録されている。本市ゆかりの画家石井林響(りんきょう)も巻石の作品を所蔵し高く評価した一人である。東京国立博物館には巻石の代表作の一つである「山水図屏風」が収蔵されている。巻石・滄海の他界後、巻石の作品や収蔵品の多くが散逸し所在不明となり、巻石の足跡をたどる資料が殆ど残っていないのが残念である。
 
            ⇒史跡案内図を見る(史跡 20)
 

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