一 幕末期の村々

(1)近世の相給村落
 江戸近郊地域の農村では、一つの村に複数の領主が存在する相給[あいきゅう]と呼ばれる支配のあり方が珍しくなかった。1村に2人の殿様がいる場合は2給、3人いる場合は3給などと呼ばれる。大網白里市域も例外ではなく、幕末段階で存在した48か村のうち39か村が相給村落であった。相給村落では、複数の領主が共同で一つの村を支配しているわけではない。1村内に徳川宗家の直臣である旗本の知行所のほか、幕府の直轄領や与力給地などが入り組んでいた。
 たとえば、上総国山辺[やまのべ]郡永田村(大網白里市永田)は、寛文8年(1668)には旗本本多四郎左衛門(600石)・石来織部(500石)・大導寺孫太郎(400石)の3給で、明治初期にまとめられた「旧高旧領取調帳」では、代官支配所(幕府直轄領、318.5869石)および旗本大導寺権六郎(400石)・伴五兵衛(309.4553石)・小栗又左衛門(266.0998石)・河内平八郎(177.435石)・神谷徳太郎(104.084石)・阿部新太郎(14.20809石)の7給とされている(『大網白里町史』)。
 このような相給村落では、必ずしも地理的な条件で支配の範囲が区分けされていたわけではない。土地の生産高に応じて戸ごとに帰属する領主が定められ、モザイク状に支配が構成されていた。永田村でも旗本知行所・幕領は村内に散在しており、向こう三軒両隣が、それぞれ別の領主の支配を受けているという状況にあった。
 また、永田村では、村政を担う名主・庄屋などの村役人は支配ごとに置かれており(相給村落でも1村で名主1人の場合もある)、支配の分散状態が村政を運営する上での障害となっていた。村政を円滑に執り行うためには、支配の枠組みを越えた1村としてのまとまりが必要となる場面も少なくない。たとえば、村内を通る道路の普請(工事)は村全体にかかわる事業であり、支配単位では目的が達成できない。永田村では、こうした課題に対応するために、支配を越えた「郷」(村)としての五人組が編制されていた(川村優「郷五人組考」)。
 永田地区にある日蓮宗の寺院光昌寺[こうしょうじ]に伝来した永田区有文書[くゆうもんじょ]の「郷五人組帳」からは、その実態がうかがえる。五人組とは、年貢徴収・相互扶助などを目的として設けられた制度で、相互監視・連帯責任制を百姓に課すものであった。近隣の5軒程度が1組として構成されるのが基本であったが、永田村のような相給村落の場合、百姓は領主ごとにまとまって居住していないことが少なくないので、支配単位で機械的に五人組を編制すると地理的な結びつきが弱くなってしまう。そのため、永田村では支配にかかわらず、1村で五人組を編制しており(「郷五人組」と呼ばれている)、五人組帳もこれを前提にして作成されている。
 五人組帳とは、百姓として守るべき事項を数項目から数十項目にわたって書き上げた前書と、構成員の連名・連印からなる帳面のことで、1通は領主に提出され、1通は村方に保存された。永田村の「郷五人組帳」は、文化5年(1808)から慶応元年(1865)の間に作成された20冊が現存する(存在しない年が欠本なのか、もともと作成されなかったのかは不明)。
 次の【史料1】は、文化5年の「郷五人組帳」である。
 
【史料1】
文化5年「郷五人組帳」  文化5年「郷五人組帳」
文化5年「郷五人組帳」(光昌寺所蔵)
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 (表紙)
 「文化五戊辰年山辺郡永田村
  郷五人組帳
      七給名主
         立会
  三月日
      年番
         伊兵衛」
 
   五人組前書之条々
 一、従 御公儀様前々被 仰出候御条目不及申上、其以後追々被 仰出候御法度之趣共、村中大小之百姓水呑借地店借召仕之下人等至迄当村徘徊仕候者共急度相守可申候事
 
 一、近年村方相緩ミ候付、五郷役人出会仕急度申渡候事
 一、御鷹御用其外之御用向等月番名主方ゟ相触候ハヽ無滞早速罷出相勤可申候、若無拠差合有之候ハヽ月番名主方迄相届可申事
 一、溜井普請幷圦樋橋掛替候節ハ不参無之様可相勤候、其節無拠差合有之候ハヽ、年番名主方迄右之趣相届可申候、若無届不参仕候者有之候ハヽ、吟味之上組合之者共迄急度咎メ可申付候事
 
 一、村方干損場付北南両沼共二月廿日水留メ仕候、若以勝手ヲ猥相切候者有之候ハヽ、過料三貫文急度差出可申候、其上組合者共迄可為越度候事
 
 一、苗代之儀干損場御座候付、掛水大切可仕候、関水之儀ハ年番名主ゟ差図請可申候、関田ゟ水引候節者水番次第可仕候、若我侭引候者有之候ハヽ、吟味之上急度可申付候事
 
 一、村中火之用心常々無油断申合、随分大切可仕候、若出火有之候ハヽ為男者共家内不残火元走附可申候、尚亦盗財怪敷者立廻リ候節相互ニ呼立、早々欠付其容体を改捕置可申候事
 
 一、往還道前々より普請致来候通道幅弐間相改置候、柳堤下谷之儀茂右同断御座候、作場道幅七尺御座候、其外徒道ハ壱間御座候、右之道幅共相狭リ候体相見候、相互地続ゟ相糺可申候、等閑相成候而後日相糺、吟味之上可為越度候事
 
 一、村中田畑差障相成候、竹木之枝葉村役人共立会之上伐取可申候、尚亦往還作場道迄差障相成不申候様可致候、仮屋敷ニ而茂伐取可申候事
 
 一、村中谷々通路道幅前々ゟ狭リ候所有之候間、此度相改前々定之通リ幅九尺道可致候事
 一、杬木山之事
糀屋前      
八郎左衛門(印)
同所       
八 兵 衛(印)
同所       
佐   助(印)
同所       
彦 右 衛 門(印)

 右四人之者共居屋鋪相続候、杬木山村中往来之橋杬先々之通リ入用次第伐可申候、其節案内及不申候事
大代       
彦左衛門

 一、私居屋敷相続候山先々ゟ郷中往還ぬかり候節ハ、右道普請苅敷入用次第苅可申候、是又案内及不申候事
 
右之条々 御公儀様御法度之儀ハ不及申上、村定相互急度相守可申候、若違背之者有之候ハヽ、其組之名主迄訴出可申候、自然隠置後日相知候ハヽ、其者幷五人組迄同罪可被 仰付候、右組合之内ニ而悪事仕出シ候ハヽ、入目等何程成共其当人より差出シ可申候、其節異儀仕間敷候、依村中大小之百姓組合連判如件
  文化五戊辰三月日
泉初五人組    
治郎右衛門(印)
八郎右衛門(印)
孫右衛門 (印)
茂左衛門 (印)
太郎右衛門(印)
(31組161組略)

   瀧川小右衛門御預所                     名主治郎右衛門(印)
   大道寺内蔵之助                       名主彦左衛門 (印)
   伴 五兵衛                         名主万右衛門 (印)
   小栗亦左衛門                        名主幸  七 (印)
   神谷與七良                         名主伊 平 治(印)
   河内左太良                         名主伊 兵 衛(印)
   阿部八之丞                           六右衛門 (印)
 
 百姓は「御公儀様」(公権力)の命令に従わなければならない、といった百姓が遵守しなければならない一般的な事項から火事への対策や村内の具体的な普請に関する項目まで12か条が書き上げられている。ここに示されている事項は、いずれも支配単位で貫徹できるものではなかった。
 
(2)幕末期の「郷五人組帳」
 五人組帳の前書は、作成された地域や時期によって差があることが知られている。永田村の「郷五人組帳」のうち、慶応元年(1865)に作成されたのが【史料2】である。ここからは、幕末期の混乱した地域社会の様相を読み取ることができる。
 
【史料2】
慶応元年「郷五人組帳」  慶応元年「郷五人組帳」
慶応元年「郷五人組帳」(光昌寺所蔵)
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 (表紙)
 「慶応元丑年
  郷五人組帳
    十二月
         山辺郡永田村
         六給名主立会
          年番
           太郎左衛門」
 
今般厳重御取締被 仰出候趣、関八州一ヶ村毎ニ而気壮健之者相撰、鑓・長刀・鳶口等都得物用意致置、不法乱妨之者ハ不及申怪敷もの立廻り候節、兼相図之鳴物補理置、右相図次第前書壮健之者差出差押、若手余リ候欤手向致候ハヽ、直打殺候共切殺候とも切捨候共勝手次第取計、其段早々自分共廻リ先可申立、尤村毎互加勢致し、若夫ニ而も人数不足之節ハ、最寄城下陣屋駈付、人数差出方申立候得者直様人数操出筈、追々城下陣屋自分共ゟ相達置候儀有之、尤右ハ大小惣代村々役人共不及申小前末々至迄其侭致置、等閑之村方ハ厳重及沙汰候条 御仁恵ヲ以百姓共安穏渡世相成候様との御趣意付、難有相心得精々可取計候、尤領主地頭ゟ鉄炮下ケ渡相成所ハ鉄炮ヲ以打殺候共不苦、何れも立廻リ方疑敷者ハ捕押方精々致候様村毎小前末々至迄急度申談所、早々壮健之もの人撰鳴物取建方等可取計候、右付近々廻村致、亦ハ見廻リ之者も夫々差出候間無油断可取計候、以上
                            関東御取締出役
 丑十一月廿九日                           安原燾作印
 追本文之趣海岸之方ハ、此程木村信一郎廻村、夫々申渡相済候付、自分儀其村々廻村本文之趣申渡幷陣屋役人引合候積リ之処、愈御用出来一ト先帰府致候間不取敢此段申達置、委細ハ近々廻村尚可申渡候、廻状下受印之上可相廻候、以上
 
 前書之通リ被 仰渡承知奉畏候、依之銘々印形仕差出申処如件
一、田畑売買請引之儀ハ、先前之通リ其懸リ名主宅ニ而調印致筈之処、近年相弛ミ無其儀勝手いたし候者も相見ヘ候間、自今ゟハ急度先前之通リ相当リ候様可致事、附リ年賄ヰ増金致候節も右同断
 
一、田畑請引之日限ハ是迄之通リ相心得可申事
  丑十二月八日
    八郎右衛門(印)
    治郎右衛門(印)
五人組 孫右衛門(印)
    茂左衛門
    太兵衛
(31組161人略)
 
  小川達太郎様御代官所
       名主 清右衛門殿
  大道寺権六郎様御知行所
       同  平右衛門殿
  伴五兵衛様御知行所
       同  太郎左衛門殿
  小栗又左衛門様御知行所
       名主 長右衛門殿
  河内平八郎様御知行所
       同  長右衛門殿
  神谷佐内様御知行所
       同  市左衛門殿
 
 この史料は、関東取締出役[しゅつやく/でやく]から出された触書を受けて永田村で作成された五人組帳である。五人組ごとに村中の百姓が連名・連印し、6給の村役人へ提出する形式が取られている。
 関東取締出役とは、文化2年(1805)に関八州の支配強化・治安維持を目的として幕府が設置した役職である。18世紀後半からの階層分化にともなう没落農民の増加などを背景として関東農村の治安は悪化していたが、前述したとおり江戸周辺地域では領主の支配が入り組んでいたため、統一的な警察権の行使が困難であり、有効な対策を打てずにいた。これに対して、村々を「御料」(幕領)・「私領」の別なく廻り、治安維持に従事し、幕府の支配を強化するために設置されたのが関東取締出役である。文政10年(1827)には、複数村によって構成される取締組合が置かれ、この組合を通じて関東取締出役と地域の豪農層とが連携し、農村の持続的な経営が目指された。
 しかしながら、地域社会の混乱は収まらず、治安も思うように回復しないどころか幕末期にはさらに悪化していった。【史料2】の冒頭にある関東取締出役安原燾作[じゅさく]による触書では、村ごとに「気壮健之者」を選び、鑓・長刀・鳶口などの武器を用意しておくように指示を出している。村内に「不法乱妨之者」や「怪敷[あやしき]もの」が出現した場合には、合図の鳴り物を鳴らして「壮健之もの」が出て行き、その人物を差し押さえること。手に余る場合、手向かいした場合は、即時に打ち殺しても、斬り殺しても勝手次第である、と述べられている。本来武士が独占し、百姓に対して責任を負うべきである警察権と武力の行使が、農村に転嫁されていることが読み取れる。主としてこの関東取締出役の触書について、永田村の百姓全員が同意したことを示すために作成されたのが【史料2】の五人組帳である。
 ところで、房総半島の九十九里地方では、文久3年(1863)の年末から翌4年にかけて真忠組[しんちゅうぐみ]騒動が発生していた。【史料2】は、騒動の熱が冷めやらぬ、緊張感のただよう状況下で作成されたものである。
 真忠組騒動とは、浪人の楠音次郎と三浦帯刀[たてわき]の呼びかけに九十九里地方の貧窮民数百人が呼応して発生した騒動である。真忠組は、表向きは攘夷(外国人の排斥)を目的に掲げていた。しかしながら、実際には活動資金の調達と称して富を集積していた豪農や商人から財産を収奪し、その一部を困窮していた農民・漁民に配分した。また、暴力による脅迫だけではなく、豪農らを糾弾するための「吟味所」を開設し、独自の裁きを下していた。このため、真忠組は「世直し」的な性格を帯びていたとも評価されている(ただし、本質的には貧窮民の立場にたっていたわけではないという意見もある)。
 大網白里市域でも、真忠組の浪士より山辺郡四天木[してぎ]村(大網白里市四天木)の窮民75人へ村役人を介して5両が渡された。また、真忠組の井関喜十郎が今泉村(大網白里市北今泉/南今泉)の豪農徳三郎に強談の上、馬一頭を奪い取ったことが記録に見える。真忠組は、結果的に関東取締出役や福島藩などで構成された幕府の軍勢に鎮圧されるが、この騒動は九十九里地方における幕末維新の混乱を象徴する一大事件となった(『大網白里町史』)。【史料2】の「郷五人組帳」は、真忠組騒動を経験したのちに作成されたことを念頭におけば、関東取締出役の指示を受けて形式的に提出されたというだけでなく、実質的な郷土防衛のために一定の役割を果たすことを期待して作成されたものだとも解釈できる。
 
五人組帳一覧
郷五人組帳郷五人組帳
御鷹場 郷五人組帳御鷹場 郷五人組帳
御鷹場 郷五人組改帳御鷹場 郷五人組改帳
郷五人組帳郷五人組帳
御鷹場 郷五人組帳御鷹場 郷五人組帳
御改革五人組帳御改革五人組帳
郷五人組帳郷五人組帳

【参考文献】
 高木俊輔『明治維新草莽運動史』(勁草書房、1974年)
 川村優「郷五人組考」(『日本歴史』356、1978年)
 森安彦『幕藩制国家の基礎構造―村落構造の展開と農民闘争―』(吉川弘文館、1981年)
 柴田武雄『幕末維新世直し騒動の一性格―九十九里浜真忠組騒動をめぐって―』(雄山閣、1982年)
 大網白里町史編さん委員会編『大網白里町史』(大網白里町、1986年)
 永田町郷土誌編集委員会編『永田郷土誌』(私家版、1996年)
 
 ※史料中の旧字・異体字はすべて常用漢字に改めた。闕字は1字分、平出・擡頭は二字分空けた。また、読点および[ ]内の註は筆者による。