二 戊辰戦争と房総

 慶応4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、新政府と旧幕府勢力との間でのちに戊辰戦争と呼ばれる内乱が発生した。明治2年(1869)5月の箱館五稜郭の戦いまでの約1年半にわたる内乱が繰り広げられ、その結果として明治新政府が旧幕府に替わって政権を握ることになる。この内乱では、直接・間接に多くの農村が巻き込まれ、多数の民衆がなんらかの形で動員されていった。
 大網白里市域で本格的な戦闘が発生することはなかったが、軍隊の移動に際して必要となる荷物輸送のための人馬供出や兵糧米の献納などが村々に対して求められた(『大網白里町史』)。4月11日に新政府軍による江戸城接収が完了すると、これに不満をもつ旧幕府抗戦派が江戸周辺地域の町村へ走り、房総半島にも脱走兵数千人がなだれ込んだ。旧幕府軍は、上総国西部に本拠地を置いて勢力を張り、請西[じょうざい]藩や久留里[くるり]藩のように小藩の中にも同調しようとする動きが現れた。新政府は、このような旧幕府勢力の鎮圧に加えて、鳥羽・伏見の戦いで藩主大河内正質[まさただ]が旧幕府軍の指揮を執った「朝敵」大多喜[おおたき]藩の征討のために上総・安房地域へ続々と軍を送り込んだ。軍隊の移動にともない発生した諸負担が、村々に降りかかってきたのである。
 房総半島における大規模な戦闘は、慶応4年閏4月中にほぼ収束するが、残党による騒動はその後も収まらなかった。新政府は、内乱勃発後早々に旧幕領・旧旗本知行所を接収して直轄領にすると宣言はしたが、実際に統治が行き届いたわけではなく、旧幕府代官や旧旗本が機能していない村々はほとんど無政府状態と化していた。こうした状況下で7月に房総知県事(上総房州監察兼知県事)として着任したのが、久留米藩士柴山典(文平[ぶんぺい])である
 
柴山典肖像写真(千葉県文書館所蔵、柴山家文書キ2)
柴山典肖像写真(千葉県文書館所蔵、柴山家文書キ2)
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房総知県事印鑑(千葉県文書館所蔵、柴山家文書エ4)
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 房総知県事の所管は、安房国・上総国の旧幕領・旧旗本知行所のほか下総国・常陸国の一部を含む36、7万石にもおよんだが、大網白里市域の旧幕領・旧旗本知行所もその管轄下に入った。
 柴山は、上総八幡[やわた]村(市原市八幡、その後長南宿浄徳寺[じょうとくじ]へ「転陣」)に知県事仮役所を開き、旧幕領・旧旗本知行所が「天朝之御料」(天皇・朝廷の直轄領)になったことを管内へ布告した。柴山は、具体的な民心掌握・統治策を進めようとするが、残党の掃蕩に追われ、民政に集中できずにいた。【史料3】は、そうした苦境を柴山が新政府の首脳に宛てて訴えた願書である。
 
【史料3】
明治元年9月「柴山文平願書」
明治元年9月「柴山文平願書」(宮内庁宮内公文書館所蔵、識別番号74542)

賊徒追討之儀御届申上候上ニ而、御人数も御差向御座候由候得共、当地之形勢三面海を受賊衝当リ、其上賊徒之情懇ハ隠顕出没、動すれハ良民を相害し緩急不常迚も時々御届申上候間合有御座間鋪与奉存候、是等之処如何共仕候可宜哉、空しく手を束良民之害せらるゝを坐視するに忍ひ不申、方今此地之勢ひ一賊あれハ一賊を除き、去リ候こそ民心茂追々難有存、安堵仕候儀御座候、実以此害を不除してハ愈人心も不穏、右等之処深 御洞察土民安泰至候様、宜被  仰付被下度奉懇願候、以上
 九月
柴山文平

 
 柴山は、手薄な軍事力で「賊徒追討」をしなければならない状況が続いているが、その神出鬼没な動向に対応しきれないので、民を「安堵」させるために必要な措置を執るよう求めている。房総における戦闘は江戸開城後1か月程度で終息し、江戸周辺地域における目立った戦闘はおおよそ5月下旬には収まるが、内乱の余燼は慶応4年の秋となってもくすぶっていたのである。房総知県事の管轄下に入っていた大網白里市域の村々もこうした社会情勢の中におかれていたと考えられる。混迷した状況がようやく落ち着いて、民政段階に移行するのは10月頃のことであった(三浦茂一「房総戊辰戦争研究ノート」)。
 
【参考文献】
 三浦茂一「房総戊辰戦争研究ノート」(川村優先生還暦記念会編『近世の村と町』吉川弘文館、1988年)
 財団法人千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 通史編・近現代1』(千葉県、2002年)
 宮間純一『戊辰内乱期の社会―佐幕と勤王のあいだ―』(思文閣出版、2015年)
 宮間純一「江戸周辺地域における内乱と民衆」(奈倉哲三・保谷徹・箱石大編『戊辰戦争の新視点下 軍事・民衆』吉川弘文館、2018年)
 
 ※史料中の旧字・異体字はすべて常用漢字に改めた。闕字は1字分、平出・擡頭は二字分空けた。また、読点および[ ]内の註は筆者による。