これ以後、柴山典は本国寺に腰を据えて、房総知県事の職務にあたることになる。翌明治2年にはその管轄地域が宮谷県と名付けられ、柴山は宮谷県権知事[ごんのちじ]に任命された。
柴山は、同4年5月には、宮谷県知事に昇進している。
この時期の地方行政制度は府藩県の三治制であったが、県は明治政府が直轄する統治機構(直轄県)であり、知事は中央から派遣される政府の役人であった。
宮谷県の施策は、窮乏した飢民救助のための「儲穀[ちょこく]の法」、郷学校の設置、宗教政策など多岐にわたったが、柴山県政の基本的な理念は「御一新」の趣旨を実現するために、仁政[じんせい]をしいて人民教化を実現することにあったとされる(『千葉県の歴史 通史編・近現代1』)。時に柴山は、統治の実を得るために新政府に対して、意見を上申することがあった。【史料4】は、明治2年11月に新政府の首脳三条実美[さねとみ]にあてて柴山が提出した建言書である。なお、史料の見出しには、「輔相[ほしょう]公」とあるが、輔相は明治2年7月8日に廃止されており、この時三条は右大臣の職にあった。
【史料4】
己巳冬輔相公江上書
頓首百拝、謹而上言、民政之要務者民情と風土とよく比較して順良之法制を立、信賞必罰下民をして心服せしむるにあらすんハ如何様賞し候而も難有不存、如何様罰し候而も懼れ不申、徒賞濫罰と相成、土民暫くも安堵不仕、終ニ動揺を醸し可申与深く恐粛仕、民情風土を能々相察し行はるへきを令し、令し候事ハ必ス行ふと一令一行ことに相慎ミ、上ハ 朝廷御仁恤之御趣意を体認し、下ハ民情風土ニ戻らす撫育罷在、民心も皆ニ至り候而者、深く 天恩を奉仰、管轄内兎ヤ角静謐安堵仕候、然処追々民部・大蔵両省ゟ御収納之義奉命仕筋御座候ニ付、過日ゟ再応民情風土を述、書取をも差出し候得共採用無御座、其儀ハ過日 御承知被遊候通、昨年臣奉職之初いまた民情風土を不相弁、妄りニ従来石代金ニ而納来り候土地柄を正米相納候様下々江布告仕候ゟ既に動揺も可仕勢ひ之処、 御内命之御趣意を達し、旧貫ニ寄石代金ニ而過半為納、畑方米納之分も昨年限り永納申付、鎮静仕候義ニ御座候処、当年之義ハ天下一般之御規則と申事ニ而石代上納不相成、是非正米可納、畑方米納之分ハ当時之相場ゟも高直之石代ニ而上納可為致との事ニ御座候得共、実ニ轄内上総・下総・九十九里海岸附・常陸鹿島郡者従来人別多く、穀数不足之土地柄ニて皆正米納候而者差当り食料ニ差支候ニ付、是迄石代金納仕来候義を是非正米上納為致候而者、撫育之道無御座、其上昨年ゟ引続之違作ニ御座候得者、実ニ米穀空乏、来夏ニ懸ヶ飢餓ニも至り可申与憫然之至且動揺可仕、今日之際旧幕之時すら無之義を申付動揺仕候而ハ、恐くハ 御仁恤之御趣意ニ相背き可申与奉存候、臣実ニ進んて 御仁恤之御趣意を貫徹仕らんと奉存候得者、民部・大蔵両省之命ニ違ひ、退而両省之命ニ従ひ候得者 御仁恤之御趣意ニ相背き、子育之道可相立のミならす、眼前動揺仕候義必然ニ而、臣進退実ニ方寸之中ニ切迫罷在申欤、折角是迄鎮撫仕候を聊之聚斂ニ陥り、沸騰候様之義御座候而ハ如何ニも残念之至、職掌とも相立不申義与奉存候、石代金之義ニ就而者、昨年 御懇々 御内命も奉蒙候、末々義ニ付事情切迫不憚忌諱御内訴申上置候、何分宜奉仰出格之御仁裁候、誠恐誠惶頓首謹言
十一月
柴山は、自身が考える民政の基本と県政の方針を説明し、管内の民衆が「静謐安堵」に至ったところだと自己評価している。その上で、租税の納め方について意見を述べている。民部省・大蔵省からは、租税を正米で上納するように指示があったが、宮谷県の管内では従来、税の大部分が「石代金」(年貢を米で納める代わりに金銭で納付すること)で納めるのが慣例となっていた。柴山も当初はこのことを十分ふまえずに正米で納付するよう布告したが、民衆の間に「動揺」が起きたため、新政府と交渉して明治元年はすべて石代納となった。ところが、明治2年には、民部省・大蔵省から改めて「天下一般之御規則」として「石代上納不相成[あいならず]」、畑方の分のみ相場より高値にて石代納とするように指示があった。柴山は、これに対して修正を求めているのである。
柴山によれば、管轄下の地域は人口が多く、「穀数不足之土地柄」であり、かつ昨年より不作が続いているため、正米での納税を強いれば来夏にかけて困民が飢餓に陥ることが見込まれる、という。そして、「旧幕之時すら無之義[これなきぎ]」を実施して、民を苦しめて動揺を引き起こしたのでは、「御仁恤[ごじんじゅつ]」を貫徹できないので石代納を認めてほしい、と歎願している。明治初年は、幕末以来の経済的混乱に加え、戊辰戦争に関する負担、天候不順による凶作などによって困窮する村々が多かった。柴山は、そうした実態に鑑みて【史料4】を三条に提出したのである。
租税の徴収に手を焼いていたことは、【史料5】からもわかる。明治3年閏10月に宮谷県が管内の村々へ廻した触書[ふれがき]である。
【史料5】
畑米納之儀難渋不相成様厚差含、其筋江申立候義も有之処、申立通不相届、自今十月中旬上米平均相場を以石代上納可致段大蔵省ゟ御達有之候、依而者追而相場取極次第可申達候間、其心得ニ而上納可致候、此段畑米有之候、村々江申達候
一、村々御年貢之儀取立方等閑之処ゟ、既ニ辰巳両年とも多分之未納に今相滞罷在候村方茂有之候、一体御年貢之儀者極月十日限り皆済可致筈之処、辰年已来困窮を相「発」[抹消]察し勘弁差加ヘ候処ゟ一時者相凌候とも、不軽貢米を茂不顧、貧民者益夫喰等喰捨不相済のミならす、却而弥増之難渋相成、夫々糺問之上手当申付候もの不少慈悲も害と相成憫然之至ニ有之候、右ニ付当午御年貢之儀者籾摺立出来次第庄屋・組頭・什長申談、其度を不差延、仮令畑米石代納可相成分とも小前ゟ正米取立預り置、廻米者勿論石代納等を始、却而無遅延取引極月十日限皆済可致候、且村々右御年貢小前ゟ取立済相成候ハヽ、触元ニおゐて取図シテ租税局可届出、万一納方相滞候小前有之候ハヽ名前可申立、厳重之所置可申付候
右之趣於村々致承知、末々江も無洩落申聞可取計候、猶右申渡候哉ニも村々都合ニ寄、村役人申合、手堅仕立皆済不相滞様可致もの也
庚午[明治3年]閏十月六日 宮谷県庁
【史料4】の作成から約1年を経過しているが、租税に関する問題は解決せず、むしろ深刻化していた様子さえうかがえる。明治元年以来の困窮した村々の実情に鑑みて柴山は施策にあたってきたが、貧民は「不軽貢米を茂不顧[かろからざるこうまいをもかえりみず]」、ますます貧しくなり、未納分の年貢が増加しているという。これを改善すべく、村役人らに徴税を徹底するよう命令し、滞納する百姓に対しては「厳重之所置」をとるとの強い文調で触書を締めくくっている。現実的に租税を徴収することが可能な方法を模索し、中央政府と村々の間で苦悩していた柴山の姿が背後に読み取れる。戊辰戦争の勝利によって新政府は政権を奪取したが統治はいまだ不安定であり、領主が交代した直轄県では特に困難を極めていた。そのことの一端が、この租税をめぐる問題からもうかがえよう。
また、宮谷県庁の内部も決して盤石ではなかった。柴山は、部下である大参事荒木博臣[ひろおみ]のグループと対立したことにより、結果的に明治4年7月に免官されることになる。
対立のきっかけは、戸長の人事に関する争論であったが、荒木は、柴山県政は民政がひどく大まかで、政府の法令に対してことごとく反対している、と公然と批判した。一連の事件は「宮谷騒動」と呼ばれるが、この騒動は民衆をも巻き込み6月16日に本国寺で行われた衆議に際しては「大網百姓大ニ[おおいに]沸騰」したという(「日新記」、『千葉県の歴史 史料編・近現代1(政治・行政1)』)。柴山に代わって権知事となった龍野[たつの]藩出身の柴原和[やわら]は、その後木更津県・印旛県の権県令[ごんのけんれい]を経て千葉県令に就任し、明治13年までの長きにわたって県政を主導することになった。
【参考文献】
三浦茂一「明治維新期における直轄県の形成」(小笠原長和編『東国の社会と文化』梓出版社、1985年)
大網白里町史編さん委員会編『大網白里町史』(大網白里町、1986年)
飯島章「明治維新期直轄県の形成と展開」(『千葉史学』16、1990年)
三浦茂一「明治初頭の直轄県における人民教化政策の推進」(『千葉いまむかし』12、1999年)
財団法人千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 通史編・近現代1』(千葉県、2002年)
※史料中の旧字・異体字はすべて常用漢字に改めた。闕字は1字分、平出・擡頭は二字分空けた。また、読点および[ ]内の註は筆者による。