四 廃藩置県と大網白里

 慶応4年(1868)5月、徳川宗家の存続が認められ、駿府[すんぷ]藩70万石が成立した。これにより、駿河国と遠江[とおとうみ]・三河両国の一部が駿府藩に与えられたが、元々同地にあった7藩(沼津・小島[おじま]・田中・相良・横須賀・掛川・浜松藩)は押し出される形で房総へ移封された。これに加えて、出羽国長瀞[ながとろ]藩、下野国高徳[たかとく]藩が房総へ移ってきた。この内長瀞藩は大網村に藩庁を置き、大網藩が成立した。
 長瀞藩は、石高が1万1千石の小藩で所領が出羽国のほか、常陸・武蔵・下総・上総国に散在しており、大網白里市域では、南飯塚村(大網白里市南飯塚)・大網村に1000石あまりを有していた。長瀞藩主米津政敏[よねきつまさとし]は、明治2年(1869)8月8日に弁事役所へ【史料6】を提出し、自身は大網村に居住したまま執政を長瀞へ派遣することが認められた。
 
【史料6】
「長瀞藩知事米津政敏願書」(国立公文書館所蔵、「華族家記・米津政敏」請求番号:家0023100)
「長瀞藩知事米津政敏願書」(国立公文書館所蔵、「華族家記・米津政敏」請求番号:家0023100)
 
同年[明治2年]八月八日弁事御役所ヘ差出、左之通
当藩之義、従前定府付、昨春東京引払之節、一藩不残上総国大網村引移申候、且支配地之儀も武総常房之内多分御座候間、旁私義大網村暫時罷在、長瀞表江者執政之者差遣、諸般為取扱、御一新之御趣意支配所ヘ一般行届候様指揮仕度奉存候、此段御許容被成下候様奉願候、以上
  八月八日
長瀞藩知事

  弁事御中
 御附札
  願之趣聞届候事
 
 この願書によれば、米津は定府[じょうふ]の大名として江戸にいたが、慶応4年の春には東京を引き払って大網村に移住していた。米津は、日蓮宗の寺院蓮照寺[れんしょうじ](大網白里市大網)に本拠地を置いている。これより少し前の6月には、版籍奉還により土地人民を天皇に奉還し、米津は長瀞藩知事となっている。【史料6】の伺いが認められた後、10月には藩庁を大網へ移し、大網藩知事となることを願い出て認められた。しかしながら、明治4年2月には常陸国龍ヶ崎村へ藩庁を移し、わずか1年3か月で大網藩は消滅することになる。
 房総半島には、ほかにも小さな藩がひしめいていた。佐倉藩をのぞけばすべて10万石以下の小藩である。明治4年7月に廃藩置県が断行されると当時房総半島に所在した24藩はすべて廃藩となり、代わって24県が置かれた。その結果、直轄県の宮谷・葛飾県とあわせて26県が並立することになったが、統廃合の結果、木更津・印旛・新治の三県に整理されてゆく。大網白里市域を含む上総・安房全域は、木更津県に組み込まれ、明治6年6月の千葉県成立にともない千葉県の管轄となる。
 
【参考文献】
 原口清『明治前期地方政治史研究 上』(塙書房、1972年)
 大網白里町史編さん委員会編『大網白里町史』(大網白里町、1986年)
 財団法人千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 資料編・近現代1(政治・行政1)』(千葉県、1996年)
 松尾正人『廃藩置県の研究』(吉川弘文館、2001年)
 財団法人千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 通史編・近現代1』(千葉県、2002年)
 
 ※史料中の旧字・異体字はすべて常用漢字に改めた。闕字は1字分、平出・擡頭は二字分空けた。また、読点および[ ]内の註は筆者による。
 
【参考資料】
幕末・明治初期の房総諸藩
幕末・明治初期の房総諸藩
©千葉県環境生活部県民生活・文化課2021

 
藩から県へ
藩から県へ
©千葉県環境生活部県民生活・文化課2021

 
印旛県・木更津県・新治県の成立
印旛県・木更津県・新治県の成立
©千葉県環境生活部県民生活・文化課2021

 
千葉県の成立
千葉県の成立
©千葉県環境生活部県民生活・文化課2021