- 書簡
- 石井雙石
- 昭和3年
石井雙石の門下で山形県在住の逸見竹石(へんみ・ちくせき、本名武、1888‐1983)宛ての書簡で、中国上海の九華堂製の信箋(便箋)3枚に「茲(ここ)に謹みて御禮申述候。錦地梅櫻桃李一時春なる御模様、久敷(ひさしく)玉屑堆裏(たいり)に在られしことゝて一層の御楽ミと存候。小生北溟に在りし時「北海詔光五月催、羣(群)芳馥郁一時開、併将月瀬嵐山勝、満地齊看櫻與梅」なる巴調を相試ミ候事あり。全く御地と同様なりしことを思出し申候。御斧正被下度(下されたく)候。御示しの短詩面白く拝見仕候。先ハ御禮迄。書外付後鴻候(書外は後鴻に付し候)。匆々頓首」としたため、4枚目に「拝復。拙技に對する謝儀、早速御送金被下候段、難有奉存(有難く存じ奉り)候」(句読点解説者)と添える。
逸見の雅号「竹石」は雙石から賜ったものであろうが、その竹石から漢詩に添えて刻料が届いたことに対する礼状である。封筒に「青山 3.4.17」の消印があるが、雙石は明治44年(1911)に札幌に移住し、大正12年(1923)東京原宿に転居したことから、昭和3年(1928)4月16日、56歳の時の書簡である。
門下にも「御地」を行頭、「小生」を行末に配した礼節の紙面、また短文ながら玉屑(ぎょくせつ・詩文の佳句の形容)、巴調(自作詩歌の謙譲語)、後鴻(こうこう・後便)などといった語や、北溟すなわち北海道在住時に詠んだ七言絶句が骨格の確かな書に交えられている。封筒裏の上下は「井碩印信」白文方印と「對嶽山房」朱文楕円印で封緘するなど、雙石らしい書簡と言える。自宅を対岳山房と称したのも、葛飾区堀切に移った同26年(1951)に「不二山客」十字格朱文方印を刻したのも、いずれの家からも富士山が望めたからであろう。
〔封筒表〕
山形縣西村山郡西里村
逸見竹石雅臺
研北
三銭切手に「青山 3.4.17」消印
〔封筒裏〕
「井碩印信」白文方印・「對嶽山房」朱文楕円印
「東京青山原/宿百五番地/石井雙石」住所印
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
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