1.河州丹南郡狭山池絵図 享保5年(1720)

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河州丹南郡狭山池絵図 ① ② ③ ④ ⑤

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河州丹南郡狭山池絵図/享保5年(1720)

絵図上が南。新大和川から狭山池までを鳥瞰したように描かれる。絵図凡例は南から水、堤、山芝、道、石御普請所、村。山吹色の小判形が村である。狭山池は幕府の支配する池だが、享保6年(1721)から寛延1年(1748)の間は狭山藩に支配が許された。作成年代からみて、狭山藩が東西の新宿と池の支配を、幕府に願い出た時の願書に添えられた可能性がある。西除は規模や工法の詳細な注記があり、御普請で改修されてきた歴史が強調されている。天野川は草沢川と呼ばれている。

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①部分図
各部翻刻
a ①-a 茱萸新田草沢(クサヽ)川 川幅平均七間半
此川上天野山谷間ヨリ狭山池迠道法弐里半
b ①-b 此色 村
此色 石御普請所
此色 道
此色 山芝
此色 堤
此色 水
c ①-c        秋元伊賀守知行所
河州丹南郡狭山池  半田村地内
d ①-d 秋元伊賀守知行所
  半田村
e ①-e 半田村
  田畑

②部分図
各部翻刻
a ②-a 秋元伊賀守知行所
  茱萸木(クミノキ)村
b ②-b 今熊川 川幅平均六間半
此川上今熊山谷間ヨリ狭山池迠道法三拾町
c ②-c 間宮三郎左衛門御代官所
 今熊村
d ②-d 池惣廻リ貮千四百拾弐間 但池内者百間五寸之積リ
  坪数合拾五万四千七百坪
  此町歩五拾壱町五反六畝弐拾歩
e ②-e 此池崇神天皇之御宇ニ始リ
天平年中成就仕候由申伝候
f ②-f 南北四百七拾六間

③部分図
各部翻刻
a ③-a 東除口
b ③-b 此東樋池開基之時分出来候鉄樋之由
申伝候今埋リ候而水之通路無之
c ③-c 中樋戸前 男柱長壱丈八尺
     立柱長壱丈五尺
     笠木長壱丈弐寸 但四段共同前尺八樋
 此樋慶長年中出来其後度々戸前
 御修覆被仰付候得共此節朽損シ申候
d ③-d 池尻村
  田畑
e ③-e 元和年中洪水之節堤切候由申伝候得共
切連(れ)候前者分明ニ相知連(れ)不申候其後堤切レ候
事ハ無御座候
f ③-f 堤長四百四拾五間 根置平均五拾間
         馬踏平均三間五尺
         高六間半
g ③-g 中樋長五拾五間 内寸壱尺八寸四分
h ③-h たい満(ま)池
 南野田村
 北野田村
 阿弥村 立会池

④部分図
各部翻刻
a ④-a 間宮三郎左衛門御代官所
水野半左衛門知行所 分郷
岩室村
b ④-b 去亥年被仰付御普請所
c ④-c 西除口
除口分石長四間
平芝
弐間半
d ④-d 石垣高壱間
石垣長九間
鳫木長八間
弐拾四段
石垣長九間

高六内九尺石垣
石垣長九間
瀧坪布舗石
長八間
石垣長九間
e ④-e 石垣拾七間
水走
布舗石六間
四間
長拾間弐尺
此場所栗石
石垣拾七間
f ④-f 西樋戸前 男柱長壱丈八尺
     立柱長壱丈五尺
     笠木長壱丈弐寸 但四段共同前尺八樋
 此樋慶長年中出来其後度々戸前御
 修覆被仰付候得共此節朽損シ申候
g ④-g 此樋戸前四段
h ④-h 西樋長六拾間 内法弐尺弐寸四分
i ④-i 洪水二而除所并堤危節者池役人共防来
申候勿論水下村々ゟ茂(も)相防申候
j ④-j 池役人七軒除地
半田村地内
k ④-k 右除跡
 延宝二寅年同三卯年同辰年元禄五申年
 享保元申年右五度洪水之節損シ候
l ④-l 樋前二而水満深四間半 但土砂二而弐間半埋ル
m ④-m 此池下大和川迠之間道法凡三里余
 鈴木九太夫御代官所
 内山七兵衛
 秋元伊賀守知行所
 北條遠江守
 高木主水正
 小出主計
 片桐帯刀

合五拾余村江用水掛リ申候
 但村形ゟ略仕候
n ④-n 先年登ゞ路(とゞろ)池跡

⑤部分図
各部翻刻
a ⑤-a 古大和川石川河新大和川之水
先年ゟ狭山池江曽而落込不申候
b ⑤-b 古大和川 築木留
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